店の奥。その男の子は、扉を開けるとさらに私の手をぐいぐいと引っ張った。
階段を上がると、その子がまたひとつ、扉を開けた。
「入って」
短く、入室を促される。
どうやら一階スペースが店舗で、二階が居住スペースになっているらしい。
おずおずと一歩踏み込むと、そこは広いリビングルームだった。
「座っていいよ」
リビングの真ん中に置かれた大きなソファ。私は、少しだけ躊躇ってからそっと腰を下ろした。
「なにがあったか知らないけど。ほら、お茶」
とん、と目の前のテーブルにグラスに入った麦茶が置かれる。グラスの中に浮かんだ氷が、涼やかな音を鳴らした。
「あ……ありがとう……」
そっとグラスを両手で持ち上げる。ゆっくりと口をつけると、香ばしい麦の、ほろ苦い味が私の喉を冷やしていった。
ひとつ、息を吐き出してしまったからだろうか。
じわりとまた視界が滲むのを、いまだに頭にかけられたままのタオルで拭う。男の子は私の向かい側で、ただ頬杖をついて私を見ていた。
「……失恋したんです」
気付けば私は、目の前の、初対面の、同い年くらいの男の子にそう零していた。
「幼稚園から一緒で、小学校六年間一緒のクラスで……小学校の一年生のときに、好きになって、初恋……」
まとまらない言葉。嗚咽もひどくて、何を言っているのかも分からなかったかもしれない。
「告白するつもりなんて、なかったんです」
ずっと胸に仕舞っておくつもりだった。
けれど、その恋心は私の中で、私の知らない内に、つつけば簡単に弾けてしまうくらい膨らんでいた。
千昭は、誰にでも優しくて、誰にでも明るくて、背が高くて、運動もできる。
中学に入った途端、千昭を見る女の子たちの目が変わった。
ううん。小学校から一緒だった子たちは、『千昭は千昭』だったのだけれど、別の小学校から上がって来た子や先輩たちから見たら、千昭は『かっこいい男の子』だったんだ。
中学一年でクラスが離れて、千昭を見かける度に、周りには知らない女の子がいた。
それは二年になっても変わらなかった。
――ねぇ、今年の宵宮、どうする?
今日は、私の美術部と千昭の弓道部の帰りが偶然一緒になって。商店街で見かけた宵宮のポスターを見て、千昭に尋ねた。
幼稚園から小学六年間、いつも千昭と一緒に行っていた、近所の神社のお祭り。
去年は、千昭が部活の大会があるから誘えなかった。
今年はどうするんだろうって純粋に思って、ちょっとだけ、私と一緒に行ってくれるよねって当たり前みたいに期待していて……。
でも、千昭から出た言葉は、
「クラスの奴に誘われててさ……」
だった。少しだけ眉を下げた、気まずそうな横顔。
それで察してしまった。
(あ、女の子と行くんだ)
そう思ったら、胸がぎゅっと苦しくなって……チクリと針で刺されたように心に一瞬痛みが走って、止められなかった。
絞り出すように、「すき」が喉から飛び出した。
とりとめなく話す私の言葉を、男の子は最後まで遮ることもなければ、茶化すこともなかった。
ハッとして顔を上げる。
初対面の人に、何を話しているんだろう。
「ご、ごめんなさい、急に変な話いっぱいして……!」
自分の視線が泳いでしまうのが分かる。ぎゅっと腿の上で握った手が、スカートに皺を作った。
「もう、私……」
帰ります。そう、口にしようとしたときだ。男の子が静かに立ち上がって、私の後ろに立った。
「どれくらい髪、切りたいの?」
「え……? え?」
頭からタオルを取られる。視界が少しだけ明るくなった。
私の胸元まである髪を、そっと後ろに持って行くように触られる。その手つきは、とても丁寧で優しい。
「俺でよかったら、切るよ。すぐ切りたいんでしょ」
頭の先から毛先まで、ゆっくりと櫛を通される。
「たまに従姉妹の髪とか、俺が切ってるし。……母さんに色々教えてもらってるから」
男の子の声からは、どこか乱雑さがなくなっていた。
窓の外からは、ジワジワと蝉の音が薄っすらと聞こえてきた。
白いレースのカーテンの向こうは、夏の陽射しが眩しい。
さっ、さっ、と私の髪を梳く音だけが小さく響いていた。少しずつ、嵐のように荒れ狂っていた私の心が落ち着いてくる。
少しだけ目を閉じる。
――……ごめん。俺、翠のことそういう目で見たことない。
千昭の言葉が……困ったような顔が、瞼の裏に浮かんだ。
私は小さく息を吐いた。
「……ここくらいまで、切って欲しいです」
そう言って、私は自分の顎のラインを指で示した。
千昭の声も、顔も、羞恥心も、そして重苦しい心も、全部全部、この髪の重さと一緒に切り取ってしまいたかった。
それをしてくれるのが、同じくらいの年齢の男の子でも、私は縋りたかった。
階段を上がると、その子がまたひとつ、扉を開けた。
「入って」
短く、入室を促される。
どうやら一階スペースが店舗で、二階が居住スペースになっているらしい。
おずおずと一歩踏み込むと、そこは広いリビングルームだった。
「座っていいよ」
リビングの真ん中に置かれた大きなソファ。私は、少しだけ躊躇ってからそっと腰を下ろした。
「なにがあったか知らないけど。ほら、お茶」
とん、と目の前のテーブルにグラスに入った麦茶が置かれる。グラスの中に浮かんだ氷が、涼やかな音を鳴らした。
「あ……ありがとう……」
そっとグラスを両手で持ち上げる。ゆっくりと口をつけると、香ばしい麦の、ほろ苦い味が私の喉を冷やしていった。
ひとつ、息を吐き出してしまったからだろうか。
じわりとまた視界が滲むのを、いまだに頭にかけられたままのタオルで拭う。男の子は私の向かい側で、ただ頬杖をついて私を見ていた。
「……失恋したんです」
気付けば私は、目の前の、初対面の、同い年くらいの男の子にそう零していた。
「幼稚園から一緒で、小学校六年間一緒のクラスで……小学校の一年生のときに、好きになって、初恋……」
まとまらない言葉。嗚咽もひどくて、何を言っているのかも分からなかったかもしれない。
「告白するつもりなんて、なかったんです」
ずっと胸に仕舞っておくつもりだった。
けれど、その恋心は私の中で、私の知らない内に、つつけば簡単に弾けてしまうくらい膨らんでいた。
千昭は、誰にでも優しくて、誰にでも明るくて、背が高くて、運動もできる。
中学に入った途端、千昭を見る女の子たちの目が変わった。
ううん。小学校から一緒だった子たちは、『千昭は千昭』だったのだけれど、別の小学校から上がって来た子や先輩たちから見たら、千昭は『かっこいい男の子』だったんだ。
中学一年でクラスが離れて、千昭を見かける度に、周りには知らない女の子がいた。
それは二年になっても変わらなかった。
――ねぇ、今年の宵宮、どうする?
今日は、私の美術部と千昭の弓道部の帰りが偶然一緒になって。商店街で見かけた宵宮のポスターを見て、千昭に尋ねた。
幼稚園から小学六年間、いつも千昭と一緒に行っていた、近所の神社のお祭り。
去年は、千昭が部活の大会があるから誘えなかった。
今年はどうするんだろうって純粋に思って、ちょっとだけ、私と一緒に行ってくれるよねって当たり前みたいに期待していて……。
でも、千昭から出た言葉は、
「クラスの奴に誘われててさ……」
だった。少しだけ眉を下げた、気まずそうな横顔。
それで察してしまった。
(あ、女の子と行くんだ)
そう思ったら、胸がぎゅっと苦しくなって……チクリと針で刺されたように心に一瞬痛みが走って、止められなかった。
絞り出すように、「すき」が喉から飛び出した。
とりとめなく話す私の言葉を、男の子は最後まで遮ることもなければ、茶化すこともなかった。
ハッとして顔を上げる。
初対面の人に、何を話しているんだろう。
「ご、ごめんなさい、急に変な話いっぱいして……!」
自分の視線が泳いでしまうのが分かる。ぎゅっと腿の上で握った手が、スカートに皺を作った。
「もう、私……」
帰ります。そう、口にしようとしたときだ。男の子が静かに立ち上がって、私の後ろに立った。
「どれくらい髪、切りたいの?」
「え……? え?」
頭からタオルを取られる。視界が少しだけ明るくなった。
私の胸元まである髪を、そっと後ろに持って行くように触られる。その手つきは、とても丁寧で優しい。
「俺でよかったら、切るよ。すぐ切りたいんでしょ」
頭の先から毛先まで、ゆっくりと櫛を通される。
「たまに従姉妹の髪とか、俺が切ってるし。……母さんに色々教えてもらってるから」
男の子の声からは、どこか乱雑さがなくなっていた。
窓の外からは、ジワジワと蝉の音が薄っすらと聞こえてきた。
白いレースのカーテンの向こうは、夏の陽射しが眩しい。
さっ、さっ、と私の髪を梳く音だけが小さく響いていた。少しずつ、嵐のように荒れ狂っていた私の心が落ち着いてくる。
少しだけ目を閉じる。
――……ごめん。俺、翠のことそういう目で見たことない。
千昭の言葉が……困ったような顔が、瞼の裏に浮かんだ。
私は小さく息を吐いた。
「……ここくらいまで、切って欲しいです」
そう言って、私は自分の顎のラインを指で示した。
千昭の声も、顔も、羞恥心も、そして重苦しい心も、全部全部、この髪の重さと一緒に切り取ってしまいたかった。
それをしてくれるのが、同じくらいの年齢の男の子でも、私は縋りたかった。


