翌日は、昼前からパラパラと小雨が降り出した。
お母さんが用意してくれたお礼と、浴衣やヘアピンの小物を濡れないようにビニール袋で包んでから紙袋に入れる。
私は玄関で靴を履き、見送りに来てくれた愛犬のマリーと愛猫のロコの頭をそれぞれ撫でて、「行ってきます」と玄関を出た。
『サロン・ド・レーヴ』までの道を、傘を差して歩く。お店が近付いてくるにつれて、緊張しているときみたいに、胸の奥が少しだけ重くなった。
この浴衣を返したら、もう先輩に会う理由もなくなっちゃう。
昨日の夜からずっと考えていること。宵宮の興奮もあったのかもしれないけれど、ベッドの中でも思考がぐるぐるしてしまってあまり眠れなかった。
お店の前まで来て私は小さく溜息を吐いた。いつも通り私を出迎えてくれる『サロン・ド・レーヴ』の看板。傘を閉じて、軽く水を切ってから店前に置かれた傘立てに差し込む。木枠のドアのガラス越しに店内を覗き込むと、いつも通り奈々子さんがいて、カウンターに内海先輩がいた。昨日の、浴衣姿でちょっとだけ大人っぽい先輩とは違う、いつもの内海先輩。カウンターに雑誌を広げて読んでいるのか、その視線は伏し目がちだ。不意に、花火に照らされた先輩の顔を思い出す。少しだけ細められた瞳。『可愛い』って動いたように見えた唇。自分の顔が赤くなりそうになって、私は慌ててスカートの裾についた細かい雨粒を手で払うことに専念する。
いや、あれは、『可愛い』って言ったとは限らない。仮に『可愛い』と言っていたとしても、私にではなくて、射的の景品だった大きなクマのぬいぐるみを持っていた人が近くにいたような気がするから、たぶんそっち……!
「翠、何してんの」
不意に背中に当たった声に、私は「ひゃい!」と間抜けな声を上げて、背筋がピンと跳ね上がるように伸びた。
「せ、先輩、なぜここに……!?」
「なぜここに? いや、俺ん家の店だから」
先輩はいつも通りのトーンで呆れたように笑いながら、少しだけ体を横にずらす。
「浴衣返しにきたんでしょ?」
先輩の指が私の肘に掛かっている紙袋を差した。
「中、入れば?」と軽く促されて、私はギクシャクとしながら頷く。「翠、来た」と先輩が短く奈々子さんに声を掛けると、カット台の整理をしていた奈々子さんがパッと笑顔で私を振り返った。
「奈々子さん、昨日はありがとうございました」
「いいえ。翠ちゃんの着付けとヘアセットができて私もとっても楽しかったから」
宵宮は楽しかった? と尋ねられて、私は「はい」と頷く。
「私が結んだ帯、少しズレちゃったのよね。ごめんね。澄春が直してくれたって聞いたけど、大丈夫だった?」
私から浴衣の入った紙袋を受け取った奈々子さんの眉が申し訳なさそうに下がる。先輩によって一度中断された思考が、その言葉でもう一度ぶわりと蘇り、私は顔の前で大きく手をブンブンと振った。
「あ……っ、はい、全然、ダイジョウブデシタ!」
「なんでカタコトなんだよ」
と、先輩がカウンターのほうへと戻りながら笑う。「先輩のせいですけど!?」なんて、とてもじゃないけど言えない。
「澄春が変なことしたら、すぐ教えて! 私が全力でとっちめてやるから!」
「変なことなんてしねぇよ」
「女の子を強引に宵宮に連れて行こうとしていた前科があるから、お母さんは信じられませんねぇ」
先輩は「うるせぇな」と拗ねたようにカウンターに頬杖をついた。奈々子さんが「まったく」と溜息を吐く。けれど、重い空気には一切ならない、いつもの親子のじゃれ合い。心地が良くて、私もつられて笑ってしまう。いつもなら、からかわれている先輩のことがおかしくて、「お母さんには敵わないのかな」って思うだけなのに。今日は、小さく胸が軋むように痛む。もう気軽にこの光景を見られないかもって思ってしまうからかな……。
私はそれを表に出さないように気をつけながら、もうひとつ、お母さんから預かっていたお礼用の紙袋を奈々子さんに「これ」と差し出した。
「これ、うちの母からです。浴衣のお礼と、ゼリーのお礼って言っていました」
「あら、由美香さんから? そんな気を遣わなくていいのに。でも、ありがたく頂戴するわね」
よろしく伝えておいて、と言われて、私は笑顔で頷いた。
お店のドアが後ろで開く音がする。軽やかなベルの音と、奈々子さんの「いらっしゃいませ」という明るい声が、お客さんの来店を教えてくれる。
「それじゃあ、私はこれで帰りますね」
「ええ、わざわざありがとう。気をつけて帰ってね」
「はい」
奈々子さんの笑顔に見送られ、踵を返す。帰る前に先輩にも、なにか……。次に会う約束をする理由すら無理やり作ることも難しい。せめて、昨日のお礼くらいは伝えてから帰りたいと、いつも通りを装って「先輩」と声をかけたときだ。
「翠、次、いつ暇?」
カウンター越し。私の顔を覗き込むようにかけられた、先輩からの思いがけない言葉に、私はただその場で目を丸くすることしかできなかった。
お母さんが用意してくれたお礼と、浴衣やヘアピンの小物を濡れないようにビニール袋で包んでから紙袋に入れる。
私は玄関で靴を履き、見送りに来てくれた愛犬のマリーと愛猫のロコの頭をそれぞれ撫でて、「行ってきます」と玄関を出た。
『サロン・ド・レーヴ』までの道を、傘を差して歩く。お店が近付いてくるにつれて、緊張しているときみたいに、胸の奥が少しだけ重くなった。
この浴衣を返したら、もう先輩に会う理由もなくなっちゃう。
昨日の夜からずっと考えていること。宵宮の興奮もあったのかもしれないけれど、ベッドの中でも思考がぐるぐるしてしまってあまり眠れなかった。
お店の前まで来て私は小さく溜息を吐いた。いつも通り私を出迎えてくれる『サロン・ド・レーヴ』の看板。傘を閉じて、軽く水を切ってから店前に置かれた傘立てに差し込む。木枠のドアのガラス越しに店内を覗き込むと、いつも通り奈々子さんがいて、カウンターに内海先輩がいた。昨日の、浴衣姿でちょっとだけ大人っぽい先輩とは違う、いつもの内海先輩。カウンターに雑誌を広げて読んでいるのか、その視線は伏し目がちだ。不意に、花火に照らされた先輩の顔を思い出す。少しだけ細められた瞳。『可愛い』って動いたように見えた唇。自分の顔が赤くなりそうになって、私は慌ててスカートの裾についた細かい雨粒を手で払うことに専念する。
いや、あれは、『可愛い』って言ったとは限らない。仮に『可愛い』と言っていたとしても、私にではなくて、射的の景品だった大きなクマのぬいぐるみを持っていた人が近くにいたような気がするから、たぶんそっち……!
「翠、何してんの」
不意に背中に当たった声に、私は「ひゃい!」と間抜けな声を上げて、背筋がピンと跳ね上がるように伸びた。
「せ、先輩、なぜここに……!?」
「なぜここに? いや、俺ん家の店だから」
先輩はいつも通りのトーンで呆れたように笑いながら、少しだけ体を横にずらす。
「浴衣返しにきたんでしょ?」
先輩の指が私の肘に掛かっている紙袋を差した。
「中、入れば?」と軽く促されて、私はギクシャクとしながら頷く。「翠、来た」と先輩が短く奈々子さんに声を掛けると、カット台の整理をしていた奈々子さんがパッと笑顔で私を振り返った。
「奈々子さん、昨日はありがとうございました」
「いいえ。翠ちゃんの着付けとヘアセットができて私もとっても楽しかったから」
宵宮は楽しかった? と尋ねられて、私は「はい」と頷く。
「私が結んだ帯、少しズレちゃったのよね。ごめんね。澄春が直してくれたって聞いたけど、大丈夫だった?」
私から浴衣の入った紙袋を受け取った奈々子さんの眉が申し訳なさそうに下がる。先輩によって一度中断された思考が、その言葉でもう一度ぶわりと蘇り、私は顔の前で大きく手をブンブンと振った。
「あ……っ、はい、全然、ダイジョウブデシタ!」
「なんでカタコトなんだよ」
と、先輩がカウンターのほうへと戻りながら笑う。「先輩のせいですけど!?」なんて、とてもじゃないけど言えない。
「澄春が変なことしたら、すぐ教えて! 私が全力でとっちめてやるから!」
「変なことなんてしねぇよ」
「女の子を強引に宵宮に連れて行こうとしていた前科があるから、お母さんは信じられませんねぇ」
先輩は「うるせぇな」と拗ねたようにカウンターに頬杖をついた。奈々子さんが「まったく」と溜息を吐く。けれど、重い空気には一切ならない、いつもの親子のじゃれ合い。心地が良くて、私もつられて笑ってしまう。いつもなら、からかわれている先輩のことがおかしくて、「お母さんには敵わないのかな」って思うだけなのに。今日は、小さく胸が軋むように痛む。もう気軽にこの光景を見られないかもって思ってしまうからかな……。
私はそれを表に出さないように気をつけながら、もうひとつ、お母さんから預かっていたお礼用の紙袋を奈々子さんに「これ」と差し出した。
「これ、うちの母からです。浴衣のお礼と、ゼリーのお礼って言っていました」
「あら、由美香さんから? そんな気を遣わなくていいのに。でも、ありがたく頂戴するわね」
よろしく伝えておいて、と言われて、私は笑顔で頷いた。
お店のドアが後ろで開く音がする。軽やかなベルの音と、奈々子さんの「いらっしゃいませ」という明るい声が、お客さんの来店を教えてくれる。
「それじゃあ、私はこれで帰りますね」
「ええ、わざわざありがとう。気をつけて帰ってね」
「はい」
奈々子さんの笑顔に見送られ、踵を返す。帰る前に先輩にも、なにか……。次に会う約束をする理由すら無理やり作ることも難しい。せめて、昨日のお礼くらいは伝えてから帰りたいと、いつも通りを装って「先輩」と声をかけたときだ。
「翠、次、いつ暇?」
カウンター越し。私の顔を覗き込むようにかけられた、先輩からの思いがけない言葉に、私はただその場で目を丸くすることしかできなかった。


