「おかえり、翠」
自宅に帰ると、お母さんが出迎えてくれた。
「素敵な浴衣ねぇ。宵宮行って来たんでしょう?」
神社に着く前にお母さんにメッセージを送っていたことを思い出して、私は「うん」と頷いた。
「奈々子さんのところ? お礼を用意しておくわね」
美味しいゼリーもいただいたし、とお母さんはニコニコと微笑む。
「明日の午後、浴衣を返しに行く予定にしてる」
「そう。じゃあ、それまでに用意をしておくから持って行って」
「分かった。お風呂入ってくるね」
いってらっしゃい、と見送られ、私は脱衣所に入った。浴衣を脱ぎ、セットしてもらった髪を解く。ヘアピンや髪飾りは無くさないように小箱にしまう。浴衣はまとめてクリーニングに出すから洗濯しなくていいと奈々子さんに言われていて、せめて皺がつかないように帯と一緒にハンガーにかけた。
浴室へと入り、湯船に入る前に髪と体を洗う。泡を丁寧に流してから、乳白色の入浴剤が入った湯船へとそっと足先から浸かる。
毛先から落ちた雫が、ぽちゃん、ぽちゃんと音を鳴らして水面を打つ。湯船の中で膝を抱え、ゆっくりと体を温めていた私は――。
「……『可愛い』って言った……?」
ぽつりと呟いた言葉が、浴室の中に静かに響いた。
花火が上がって、先輩に教えなきゃって振り返って、そうしたら目が合って。
――……可愛い。
花火の音とまわりの歓声で、うまく声は聞き取れなかったけれど。確かに先輩の口がそう動いたような気がした。
動揺しすぎて、その後のことをあまり覚えていないまま家まで帰ってきてしまったし。
私は頭を抱える。口元まで一気にお湯の中に体を沈めた。ぶくぶくと泡が上がる。
……一体、何に対して?
……もしかして……。
心臓が、大きな音を立てて途端に速くなる。
た、確かに目は合っていたけれど。
いや、でも、そんなまさか。
だって、先輩が私に対して「可愛い」なんて言う理由が見つからない。そうだ、そんなわけない。もしかしたら、奈々子さんが用意してくれた浴衣に言ったとか。私と目が合ったと思ったけれど、それも今思えば薄暗かったから確定ではないし……! ハッ! 奈々子さんのヘアアレンジについて言ったのかもしれない! だって、先輩は将来美容師さんになりたいわけだし……! 「ショートカットのヘアアレンジってこうやってやるんだぁ」って観察していただけかも!? そのタイミングで私が偶然振り返っちゃっただけで!
あー、そう思ったら、近くに射的のところにあった大きなクマのぬいぐるみを持っていた人もいたような気がしてきた……!
そ、そうだ。そうに違いない。先輩が私のことをからかうことはあっても、「可愛い」なんて言うはずない。言われる理由がないもの。
「……あぶない。勘違いしちゃうところだった」
私は頭を抱えていた手を外して、お湯をそっと掌で掬った。そして、頭と心の中にあるざわめきを落ち着かせるために顔へとかける。
明日、浴衣を返しにいかなくちゃいけないから……。平静に戻れ、翠。
ゆっくりと温かい湿気のあるお風呂の空気を吸い込んで、吐き出した。千昭のときみたいなことになって、先輩と気まずい距離ができることだけは避けたい。
だって、今日、先輩に話してしまったから。
千昭への気持ちが、もう吹っ切れてしまっていること。髪を切ってもらう理由がなくなってしまったこと。内海先輩と会う理由も、言い訳も、全部全部なくなってしまった。これからは、『失恋を癒す人と癒される人』じゃない。ただの、同じ高校に通う『先輩と後輩』。
「浴衣を返したら……接点、なくなっちゃうな」
話したことは、何一つ後悔していないけれど……。
水面から少しだけ出た膝の上に頬を預ける。今日一日で見た先輩の色んな顔を忘れないように、そっと目を閉じた。ぬるいお湯が揺蕩い、私の頬をそっと撫でていく。
内海先輩に会える明日が、楽しみなような、そうじゃないような。複雑に気持ちが絡んで、重たくなる胸の空気を抜くように、私は小さく溜息を吐いた。
自宅に帰ると、お母さんが出迎えてくれた。
「素敵な浴衣ねぇ。宵宮行って来たんでしょう?」
神社に着く前にお母さんにメッセージを送っていたことを思い出して、私は「うん」と頷いた。
「奈々子さんのところ? お礼を用意しておくわね」
美味しいゼリーもいただいたし、とお母さんはニコニコと微笑む。
「明日の午後、浴衣を返しに行く予定にしてる」
「そう。じゃあ、それまでに用意をしておくから持って行って」
「分かった。お風呂入ってくるね」
いってらっしゃい、と見送られ、私は脱衣所に入った。浴衣を脱ぎ、セットしてもらった髪を解く。ヘアピンや髪飾りは無くさないように小箱にしまう。浴衣はまとめてクリーニングに出すから洗濯しなくていいと奈々子さんに言われていて、せめて皺がつかないように帯と一緒にハンガーにかけた。
浴室へと入り、湯船に入る前に髪と体を洗う。泡を丁寧に流してから、乳白色の入浴剤が入った湯船へとそっと足先から浸かる。
毛先から落ちた雫が、ぽちゃん、ぽちゃんと音を鳴らして水面を打つ。湯船の中で膝を抱え、ゆっくりと体を温めていた私は――。
「……『可愛い』って言った……?」
ぽつりと呟いた言葉が、浴室の中に静かに響いた。
花火が上がって、先輩に教えなきゃって振り返って、そうしたら目が合って。
――……可愛い。
花火の音とまわりの歓声で、うまく声は聞き取れなかったけれど。確かに先輩の口がそう動いたような気がした。
動揺しすぎて、その後のことをあまり覚えていないまま家まで帰ってきてしまったし。
私は頭を抱える。口元まで一気にお湯の中に体を沈めた。ぶくぶくと泡が上がる。
……一体、何に対して?
……もしかして……。
心臓が、大きな音を立てて途端に速くなる。
た、確かに目は合っていたけれど。
いや、でも、そんなまさか。
だって、先輩が私に対して「可愛い」なんて言う理由が見つからない。そうだ、そんなわけない。もしかしたら、奈々子さんが用意してくれた浴衣に言ったとか。私と目が合ったと思ったけれど、それも今思えば薄暗かったから確定ではないし……! ハッ! 奈々子さんのヘアアレンジについて言ったのかもしれない! だって、先輩は将来美容師さんになりたいわけだし……! 「ショートカットのヘアアレンジってこうやってやるんだぁ」って観察していただけかも!? そのタイミングで私が偶然振り返っちゃっただけで!
あー、そう思ったら、近くに射的のところにあった大きなクマのぬいぐるみを持っていた人もいたような気がしてきた……!
そ、そうだ。そうに違いない。先輩が私のことをからかうことはあっても、「可愛い」なんて言うはずない。言われる理由がないもの。
「……あぶない。勘違いしちゃうところだった」
私は頭を抱えていた手を外して、お湯をそっと掌で掬った。そして、頭と心の中にあるざわめきを落ち着かせるために顔へとかける。
明日、浴衣を返しにいかなくちゃいけないから……。平静に戻れ、翠。
ゆっくりと温かい湿気のあるお風呂の空気を吸い込んで、吐き出した。千昭のときみたいなことになって、先輩と気まずい距離ができることだけは避けたい。
だって、今日、先輩に話してしまったから。
千昭への気持ちが、もう吹っ切れてしまっていること。髪を切ってもらう理由がなくなってしまったこと。内海先輩と会う理由も、言い訳も、全部全部なくなってしまった。これからは、『失恋を癒す人と癒される人』じゃない。ただの、同じ高校に通う『先輩と後輩』。
「浴衣を返したら……接点、なくなっちゃうな」
話したことは、何一つ後悔していないけれど……。
水面から少しだけ出た膝の上に頬を預ける。今日一日で見た先輩の色んな顔を忘れないように、そっと目を閉じた。ぬるいお湯が揺蕩い、私の頬をそっと撫でていく。
内海先輩に会える明日が、楽しみなような、そうじゃないような。複雑に気持ちが絡んで、重たくなる胸の空気を抜くように、私は小さく溜息を吐いた。


