ショートカット・スウィートケーキ

 鏡に映った浴衣姿の先輩に、私は一瞬驚きとときめきで魂が抜けそうになってしまった。
 かっこいい。先輩、自分で着付けしたってことなのかな? 背が高くて色白の先輩に、濃紺の生地はとてもよく似合っている。仕事に真剣に向き合う先輩の顔だけじゃなく、浴衣姿の内海先輩まで見られるなんて、なんて今日はラッキーな一日……って、見惚れてる場合じゃなくて……!

「ど、どうして、先輩、浴衣着て……?」
「宵宮に行くからだけど?」

 なにを当たり前のことを? というような表情で先輩は鏡越しに私を見る。
 ああ、だから浴衣を。と、私はひとり困惑しながらも納得して頷いた。
 そっか。先輩は今日、宵宮に行く予定があったんだ。
 よかった、変に誘ったりする前で……。
 そう胸を撫で下ろしたとき。

「じゃあ、行くぞ」

 と、不意に私の腕を掴んだ。ぐいっとそのまま椅子から引き起こされる。予想していなかった動きで、私は勢い余ってたたらを踏んだ。

「え、行くって? 先輩、宵宮行くんじゃないんですか?」
「うん、行く」
「うん? でも、なんで私の腕掴んでるんですか? お友達、待ってるんじゃ――」
「俺は、最初から翠と行くつもりだった」

 私の言葉を遮るように先輩が言う。軽く顔を近付けられて、私は思わず顎を引いた。
 翠と。
 先輩のその言葉が、私の頭の中で何度も繰り返される。

「翠って……?」
「俺が知ってる翠は、目の前にいる網倉翠しかいませんが?」

 数秒の間のあと、私が「え!?」と素っ頓狂な声を上げるのと、先輩が「ぶはっ」と吹き出すのはほぼ同時だった。

 今日も意地悪に口角が上がる先輩の顔。息を呑んだ私の喉が小さく鳴った。心臓がバクバクとうるさくて、空調が効いている部屋なのに顔がひどく熱い。内海先輩に掴まれたままの腕も熱くて、逆上せてしまいそうだ。

「でも、私、行くなんて一言も言ってないですし……!」
「予定ないって言ってたじゃん」
「た、確かにそう言いましたけど……!」

 後片付けをしていた奈々子さんが、私たちの会話を聞いていたらしく「えー!?」と声を上げた。

「なに、澄春。あんた、翠ちゃんのことちゃんと誘ってなかったわけ!? てっきり私は、一緒に宵宮行く約束してて、でも翠ちゃんが浴衣持ってないからウチにあるやつ着せてあげてってあんたが頼んできたのかと……!」

 最低―! と、奈々子さんは内海先輩の頭を軽く小突いた。

「痛っ!」
「相手の了承も得ずに、いきなりデートに連れ出すバカがどこにいますか!」

 そんな息子に育てた覚えはありませんよ! と奈々子さんが内海先輩を叱る。

「いや、別にデートってわけじゃ……っ」

 内海先輩は何かを奈々子さんに言い返そうとして、それから私のほうを見る。先輩は一瞬ハッとした表情をして、すぐに唇をぎゅっと引き結んだ。そして、視線が斜め下に落とされるように逸らされた。私の腕を掴んでいた先輩の手が、パッと離される。
 内海先輩は小さく息を吐き出すと、私のほうを向き直って頭を下げた。

「勝手なことして、ごめん。翠が行きたくないなら、行かない」

 深く頭を下げたまま先輩が言う。その顔は見えないけれど、声のトーンはいつもより少しだけ重い。

「俺が勝手に決めたことだし、普通に断ってくれていい」

 先輩に掴まれていた腕には、まだじんわりと内海先輩の体温が残っているような気がする。

「……」

 さっきまでの、ちょっと強引で、いつものように調子よく私をからかうような雰囲気の先輩はいなくて。
 私から、文化祭の実行委員に千昭がいると聞いたときもそうだった。真剣な目になって、「無理するな」と言ってくれたときと一緒。私の気持ちと向き合ってくれるときは、一旦からかうのをやめて、ちゃんと真剣に聞いてくれる。
 私は自分の胸の前で手をぎゅっと握った。

「……行きたいです、先輩と」

 ひとつ息を吸って、そう返した言葉は、自分が思っていたよりも小さくなってしまった。勢いよく顔を上げた先輩とバチッと音がしそうなほどの勢いで目が合う。
 急速にまた自分の体温が上昇するのを感じて、私は自分の顔の前で両手をブンブンと振った。

「いや、違くって……! ほ、ほら、ちょうど予定もなかったですし!」

「それに」と早口でまくし立てる。

「こんなに可愛い浴衣と髪型を奈々子さんにセットしてもらったのに、ただ家に帰るだけなんて勿体ないじゃないですか!」

 頭の中で色んな感情がぐるぐると巡る。
 先輩の誘い方が強引だったとはいえ、まさか一緒に行けることになるなんて思っていなかった。私からはとても誘えなかったし、単純に嬉しい。
 ただ、先輩が誘ってくれた理由に何か意味を見つけようとしてしまっている自分がいて、必死にそれを押さえつける。

 そうじゃないと、私――。

 不意に、先輩が「はぁぁ」と大きなため息を吐くのが聞こえた。うるさかった私の思考が止まり、焦点がしっかりと先輩に合う。目の前の内海先輩は、口元を手の甲で隠し、私から顔ごと視線を逸らした。

「先輩……?」
「……行きたいって言ってくれて、安心した」

 先輩から初めて聞く、どこかホッとしたような声色。
 そして、先輩の横顔から、少しだけ横髪のかかった耳が覗いている。その耳がほんのりと赤いように見えたのは、私の気のせいだろうか。