あと五分ほどで十六時になるというころ。私は一度家に帰ってから、再び『サロン・ド・レーヴ』の前に来ていた。
お店の看板を見つめ、私はショルダーバッグの紐を握る。
内海先輩に「来い」と言われたから来たけれど、一体なんの用事だろう。
お店の手伝いとか……? それとも、まだ他にも渡したいものがあったとか?
……まさか、宵宮――。
「って……そんなわけないか」
勝手に期待しそうになって、無理やり思考に蓋をする。こういう期待が自爆に繋がるんだから。私はそれをもう千昭への片想いで経験しているんだから……! 同じ轍は踏まない!
夏の生温かい空気を深く吸い込んで、ゆっくりと吐き出す。私は「よし」と小さく呟いて気持ちを切り替え、『サロン・ド・レーヴ』の扉に手を掛けた。
お昼に来たときと同じように、軽やかなベルの音に出迎えられる。「こんにちは」と声をかける前に、奈々子さんが私に気付いてくれた。
「澄春、翠ちゃん来たわよー!」
奈々子さんは店の奥に向かって先輩の名前を呼んだ。店内は、数時間前のピークが過ぎたようで、お客さんもまばらになっていた。奈々子さんを含めスタッフさんたちの慌ただしさもなくて、穏やかなジャズミュージックと同じようにゆとりがある。
しばらくして、奥から物音がした。ドアが開く音がして、内海先輩がやって来る。先輩は私を見るなり、「よぉ」と軽く片手を挙げた。私もそれに「お疲れさまです」と頭を下げる。
「あの、先輩、今日って――」
「まだ時間あるな」
「じ、時間?」
壁にかけられたアナログ時計へと顔を向けた先輩の視線を追う。約束の十六時を少し過ぎたところを針で差していた。先輩はそのまま、私のほうは向かず、奈々子さんのほうを見る。
「じゃあ、母さん。お願い」
「はーい、分かったわ」
お客さんのお帰りを見送ったばかりの奈々子さんが私のほうを見る。そして――。
「さぁ、翠ちゃん。浴衣、着ましょっか」
と、満面の笑みで私の肩をガシッと掴んだ。
「ゆ、ユカタ……?」
まるで初めて耳にした言語のように繰り返してしまった自覚があった。状況についていけず、傾げた首がもげそう。
そして私の思考と理解だけが置いてかれている間に、あれよあれよという間に店の奥へと奈々子さんに連れていかれる。
「翠ちゃんに似合いそうな浴衣がちょうどあったのよぉ」
畳の部屋で、奈々子さんは姿見で私を見ながらニコニコと微笑んだ。そうして取り出されたのは、青みがかった緑色の生地の上を白色の金魚が優雅に泳いでいる浴衣。華やかで可愛い。
「でも、私、浴衣なんて着る必要なくって……」
今年は宵宮に行く予定もないし。それなのに、こんなに可愛い浴衣を着せてもらうなんて、勿体ない。
「いいから、いいから。さぁ、翠ちゃんは私に身を任せて」
相変わらず奈々子さんは楽しそうで。私も断り切れないまま、浴衣に袖を通してしまう。姿見には困惑している私と、手際の良い奈々子さんが映っていて、あっという間に綺麗に浴衣を着つけられてしまった。
そして今度はそのまま手を引かれ、表のほうに戻りスタイリングチェアへ座らせられる。さっきまでいたはずの内海先輩の姿はなく、本当に何が何だか分からない。
奈々子さんの手が私の髪に触れた。先輩に切ってもらったばかりで、肩にもつかない長さの髪を、奈々子さんは器用にサイドをねじるように編み込んでいく。そして、それを襟足とともにまとめ上げると、白い花の髪飾りを斜め後ろ側につけてくれた。柔らかい花びらが幾重にも重なり、垂れさがるパールビーズはまるで朝露をこぼしているようにキラキラと輝いている。
「わぁ……可愛い」
私は鏡を見ながら、そっと手で触れる。奈々子さんは「でしょ?」と小さく笑った。
「短くても、こんなふうにアレンジできるんですね」
「私は『プロ』ですから」
奈々子さんは冗談っぽく『プロ』の部分を強調した。鏡越しに顔を見合わせてくすくすと笑い合う。
「今度、簡単なヘアアレンジ教えてあげるわね」
「はい、ぜひ」
「じゃあ、あとは顔周りを軽くコテで巻いちゃうから、待っててね」
奈々子さんがコテを持って私の前に立つ。奈々子さんの体で鏡が見えなくなってしまったけれど、でもきっと、とっても上手にやってくれるのだろう。
宵宮に行く予定もないのに、こんなに可愛くしてもらってしまった。内海先輩は、私にこの浴衣を着せたくて呼んだだけなのかな?
それこそ、奈々子さんが私に着せたくて……?
あ! それとも、お祭りに行く予定がないって言った私を哀れんで……!? 「一緒に行く相手がいなくても、気持ちだけ上げていこ!」みたいな、そういうこと……!?
「やだ、翠ちゃん。熱かった?」
「いえ、違うんです。奈々子さんたちの優しさが胸に沁みて……」
「なに言ってんの?」
私が涙が滲んだ目を拭っていたそのとき。突然すぐ後ろから聞こえた先輩の呆れ声に、心臓が小さく跳ねた。いつの間に戻ってきたんだろう。振り返りたいけれど、奈々子さんがまだ私の前髪を整えていて、動くに動けない。
「母さん、終わった?」
「うん、ちょうど。はい、できた」
私の前髪をちょいちょいと指先で整えてくれた奈々子さんは、満足そうな顔をして鏡の前から横に動いた。
視界が開ける。そして私は……。
「……っ!?」
鏡に映し出された、綺麗にしてもらった自分の姿ではなくて――。
ネイビーカラーの浴衣を着こなす先輩と鏡越しに目があって、ドキリと心臓を高鳴らせながら、言葉を失ってしまった。
お店の看板を見つめ、私はショルダーバッグの紐を握る。
内海先輩に「来い」と言われたから来たけれど、一体なんの用事だろう。
お店の手伝いとか……? それとも、まだ他にも渡したいものがあったとか?
……まさか、宵宮――。
「って……そんなわけないか」
勝手に期待しそうになって、無理やり思考に蓋をする。こういう期待が自爆に繋がるんだから。私はそれをもう千昭への片想いで経験しているんだから……! 同じ轍は踏まない!
夏の生温かい空気を深く吸い込んで、ゆっくりと吐き出す。私は「よし」と小さく呟いて気持ちを切り替え、『サロン・ド・レーヴ』の扉に手を掛けた。
お昼に来たときと同じように、軽やかなベルの音に出迎えられる。「こんにちは」と声をかける前に、奈々子さんが私に気付いてくれた。
「澄春、翠ちゃん来たわよー!」
奈々子さんは店の奥に向かって先輩の名前を呼んだ。店内は、数時間前のピークが過ぎたようで、お客さんもまばらになっていた。奈々子さんを含めスタッフさんたちの慌ただしさもなくて、穏やかなジャズミュージックと同じようにゆとりがある。
しばらくして、奥から物音がした。ドアが開く音がして、内海先輩がやって来る。先輩は私を見るなり、「よぉ」と軽く片手を挙げた。私もそれに「お疲れさまです」と頭を下げる。
「あの、先輩、今日って――」
「まだ時間あるな」
「じ、時間?」
壁にかけられたアナログ時計へと顔を向けた先輩の視線を追う。約束の十六時を少し過ぎたところを針で差していた。先輩はそのまま、私のほうは向かず、奈々子さんのほうを見る。
「じゃあ、母さん。お願い」
「はーい、分かったわ」
お客さんのお帰りを見送ったばかりの奈々子さんが私のほうを見る。そして――。
「さぁ、翠ちゃん。浴衣、着ましょっか」
と、満面の笑みで私の肩をガシッと掴んだ。
「ゆ、ユカタ……?」
まるで初めて耳にした言語のように繰り返してしまった自覚があった。状況についていけず、傾げた首がもげそう。
そして私の思考と理解だけが置いてかれている間に、あれよあれよという間に店の奥へと奈々子さんに連れていかれる。
「翠ちゃんに似合いそうな浴衣がちょうどあったのよぉ」
畳の部屋で、奈々子さんは姿見で私を見ながらニコニコと微笑んだ。そうして取り出されたのは、青みがかった緑色の生地の上を白色の金魚が優雅に泳いでいる浴衣。華やかで可愛い。
「でも、私、浴衣なんて着る必要なくって……」
今年は宵宮に行く予定もないし。それなのに、こんなに可愛い浴衣を着せてもらうなんて、勿体ない。
「いいから、いいから。さぁ、翠ちゃんは私に身を任せて」
相変わらず奈々子さんは楽しそうで。私も断り切れないまま、浴衣に袖を通してしまう。姿見には困惑している私と、手際の良い奈々子さんが映っていて、あっという間に綺麗に浴衣を着つけられてしまった。
そして今度はそのまま手を引かれ、表のほうに戻りスタイリングチェアへ座らせられる。さっきまでいたはずの内海先輩の姿はなく、本当に何が何だか分からない。
奈々子さんの手が私の髪に触れた。先輩に切ってもらったばかりで、肩にもつかない長さの髪を、奈々子さんは器用にサイドをねじるように編み込んでいく。そして、それを襟足とともにまとめ上げると、白い花の髪飾りを斜め後ろ側につけてくれた。柔らかい花びらが幾重にも重なり、垂れさがるパールビーズはまるで朝露をこぼしているようにキラキラと輝いている。
「わぁ……可愛い」
私は鏡を見ながら、そっと手で触れる。奈々子さんは「でしょ?」と小さく笑った。
「短くても、こんなふうにアレンジできるんですね」
「私は『プロ』ですから」
奈々子さんは冗談っぽく『プロ』の部分を強調した。鏡越しに顔を見合わせてくすくすと笑い合う。
「今度、簡単なヘアアレンジ教えてあげるわね」
「はい、ぜひ」
「じゃあ、あとは顔周りを軽くコテで巻いちゃうから、待っててね」
奈々子さんがコテを持って私の前に立つ。奈々子さんの体で鏡が見えなくなってしまったけれど、でもきっと、とっても上手にやってくれるのだろう。
宵宮に行く予定もないのに、こんなに可愛くしてもらってしまった。内海先輩は、私にこの浴衣を着せたくて呼んだだけなのかな?
それこそ、奈々子さんが私に着せたくて……?
あ! それとも、お祭りに行く予定がないって言った私を哀れんで……!? 「一緒に行く相手がいなくても、気持ちだけ上げていこ!」みたいな、そういうこと……!?
「やだ、翠ちゃん。熱かった?」
「いえ、違うんです。奈々子さんたちの優しさが胸に沁みて……」
「なに言ってんの?」
私が涙が滲んだ目を拭っていたそのとき。突然すぐ後ろから聞こえた先輩の呆れ声に、心臓が小さく跳ねた。いつの間に戻ってきたんだろう。振り返りたいけれど、奈々子さんがまだ私の前髪を整えていて、動くに動けない。
「母さん、終わった?」
「うん、ちょうど。はい、できた」
私の前髪をちょいちょいと指先で整えてくれた奈々子さんは、満足そうな顔をして鏡の前から横に動いた。
視界が開ける。そして私は……。
「……っ!?」
鏡に映し出された、綺麗にしてもらった自分の姿ではなくて――。
ネイビーカラーの浴衣を着こなす先輩と鏡越しに目があって、ドキリと心臓を高鳴らせながら、言葉を失ってしまった。


