店舗のほうへ下りると、店内は満席でとても賑わっていた。
「わっ……お客さんいっぱいですね」
「ああ、ほら。今日、宵宮だから」
先輩は、お客さんに出すためのドリンクを用意しながら、レジ近くの壁に貼られているポスターチラシを指した。
「あ……。宵宮、今日でしたっけ」
お客さんたちをよく見れば、浴衣を着ている人や、浴衣に合わせた華やかなヘアアレンジをしてもらっている人たちばかりだった。
そろそろその時期だなとは思っていたけれど、すっかり頭から抜け落ちてしまっていた。そういえば何日か前、友達同士のグループトークで「今年の宵宮、みんなどうする?」って投げてくれたクラスメイトがいた。けれど、みんな「彼氏と行く」とか「家族旅行が入っている」とかで、誰かと一緒に行く予定も立たなかったから、余計にどこか他人事のような感覚だった。昨年は、千昭のことを思い出したくなくて、受験前というのを言い訳に勉強を詰めていたし、宵宮を意識する余裕もなかったなと、ポスターを見ながらぼんやりと考える。
「翠は?」
不意の問いかけに私は慌てて顔を先輩の方へと戻した。先輩はドリンクを用意し終えて、グラスがいくつか乗ったトレイを両手で慎重に持ち上げながら、私を見た。
「今日の宵宮、どうすんの? 行くなら、髪、うちでやってく?」
奈々子さんも「翠ちゃん、やってあげるわよ」とコームを持っているほうの手を私に振った。私は首を横に振る。
「私は今年、行く予定なくて。正直、忘れてたので」
そう眉を下げると、先輩は「ふぅん」と頷き返しただけだった。そして、カラーやパーマをしているお客さんや、待っているお客さんに「どうぞ」とドリンクを渡しにいってしまう。
――先輩は、どうするんですか?
そう私からも聞きたかったけれど、そのままその言葉は飲み込んだ。千昭とのことを思い出して、ちくりと胸が痛む。
もし、先輩から、女の子と一緒に行くって言われたら……。
そう思うと、とてもじゃないけれど聞けない。私はそっと自分のスカートの裾を握り込んだ。空調が効いていて涼しいのに、じわりと掌に汗が滲む。
それにそれを聞いて、もし、誰とも行かないって言われても、「私と一緒に行きましょう」なんて言えるだろうか。先輩と行きたい気持ちはあるけれど……。今、先輩が私に予定を聞いて何も言わなかったってことは、先輩は私とは行く気はないのだろうし。
高校に入学してからの先輩の距離の近さを考えると、私と行きたい気持ちがあるなら、誘ってくると思うんだよな……。なんて、自分が一歩踏み出せないことを、先輩のせいにしているみたいな思考をしてしまって嫌だ。私は、その考えを振り払うように頭を軽く振った。
店内を見渡す。奈々子さんと、他のスタッフさんたち総出で、今日、宵宮に出掛ける女の子たちを可愛く仕上げている。先輩も、お客さんに聞かれたことに答えたり、床に落ちた髪を箒で集めたり、電話番をしたりと忙しそうだ。ヘアアレンジやカットに参加できるわけじゃない。それでも先輩の顔は、とても真剣で、そしてとても楽しそうだった。
私は小さく息を吐いた。宵宮へ行くよりも、先輩のその横顔を見れたことのほうが、嬉しいかも……。
「それじゃあ、私、帰ります」
満ち足りた心で、店の扉に手をかけたそのとき。
「翠、十六時」
先輩の声が、私の背中に当たった。
「え?」
振り返れば、先輩は柄の長い箒で床を掃きながら、
「十六時にもう一回来て」
と、私を見ずに言った。
その言葉の意味が分からず、首を傾げる。
「予定、ないんだろ。今日」
「ない、ですけど」
「じゃあ、決まり」
なにが?
なにが今、勝手に決まった?
からんころん、と店の扉が軽やかなベルの音を鳴らして開く。
「あ、すみません……」
扉の前にいた私は入ってくるお客さんの邪魔になっていて、入って来たお客さんと入れ違うように店の外に出た。
眩しい陽射しに目を細める。もわっとした熱気が、空調で冷やされていた私の肌を一気に温めていく。
店の中を覗く。またお客さんが増えた店内。言われた言葉の意味を先輩に尋ねたかったけれど、先輩はすぐに接客に入ってしまって、とても聞ける雰囲気ではなくなってしまった。
「十六時に、もう一回」
私は一方的に交わされた約束を、忘れないように呟く。
大きな雲が太陽を隠し、大きな影が落ちる。私は空を見上げた。真っ青な空に、大きくて柔らかそうな入道雲が浮かんでいた。
「わっ……お客さんいっぱいですね」
「ああ、ほら。今日、宵宮だから」
先輩は、お客さんに出すためのドリンクを用意しながら、レジ近くの壁に貼られているポスターチラシを指した。
「あ……。宵宮、今日でしたっけ」
お客さんたちをよく見れば、浴衣を着ている人や、浴衣に合わせた華やかなヘアアレンジをしてもらっている人たちばかりだった。
そろそろその時期だなとは思っていたけれど、すっかり頭から抜け落ちてしまっていた。そういえば何日か前、友達同士のグループトークで「今年の宵宮、みんなどうする?」って投げてくれたクラスメイトがいた。けれど、みんな「彼氏と行く」とか「家族旅行が入っている」とかで、誰かと一緒に行く予定も立たなかったから、余計にどこか他人事のような感覚だった。昨年は、千昭のことを思い出したくなくて、受験前というのを言い訳に勉強を詰めていたし、宵宮を意識する余裕もなかったなと、ポスターを見ながらぼんやりと考える。
「翠は?」
不意の問いかけに私は慌てて顔を先輩の方へと戻した。先輩はドリンクを用意し終えて、グラスがいくつか乗ったトレイを両手で慎重に持ち上げながら、私を見た。
「今日の宵宮、どうすんの? 行くなら、髪、うちでやってく?」
奈々子さんも「翠ちゃん、やってあげるわよ」とコームを持っているほうの手を私に振った。私は首を横に振る。
「私は今年、行く予定なくて。正直、忘れてたので」
そう眉を下げると、先輩は「ふぅん」と頷き返しただけだった。そして、カラーやパーマをしているお客さんや、待っているお客さんに「どうぞ」とドリンクを渡しにいってしまう。
――先輩は、どうするんですか?
そう私からも聞きたかったけれど、そのままその言葉は飲み込んだ。千昭とのことを思い出して、ちくりと胸が痛む。
もし、先輩から、女の子と一緒に行くって言われたら……。
そう思うと、とてもじゃないけれど聞けない。私はそっと自分のスカートの裾を握り込んだ。空調が効いていて涼しいのに、じわりと掌に汗が滲む。
それにそれを聞いて、もし、誰とも行かないって言われても、「私と一緒に行きましょう」なんて言えるだろうか。先輩と行きたい気持ちはあるけれど……。今、先輩が私に予定を聞いて何も言わなかったってことは、先輩は私とは行く気はないのだろうし。
高校に入学してからの先輩の距離の近さを考えると、私と行きたい気持ちがあるなら、誘ってくると思うんだよな……。なんて、自分が一歩踏み出せないことを、先輩のせいにしているみたいな思考をしてしまって嫌だ。私は、その考えを振り払うように頭を軽く振った。
店内を見渡す。奈々子さんと、他のスタッフさんたち総出で、今日、宵宮に出掛ける女の子たちを可愛く仕上げている。先輩も、お客さんに聞かれたことに答えたり、床に落ちた髪を箒で集めたり、電話番をしたりと忙しそうだ。ヘアアレンジやカットに参加できるわけじゃない。それでも先輩の顔は、とても真剣で、そしてとても楽しそうだった。
私は小さく息を吐いた。宵宮へ行くよりも、先輩のその横顔を見れたことのほうが、嬉しいかも……。
「それじゃあ、私、帰ります」
満ち足りた心で、店の扉に手をかけたそのとき。
「翠、十六時」
先輩の声が、私の背中に当たった。
「え?」
振り返れば、先輩は柄の長い箒で床を掃きながら、
「十六時にもう一回来て」
と、私を見ずに言った。
その言葉の意味が分からず、首を傾げる。
「予定、ないんだろ。今日」
「ない、ですけど」
「じゃあ、決まり」
なにが?
なにが今、勝手に決まった?
からんころん、と店の扉が軽やかなベルの音を鳴らして開く。
「あ、すみません……」
扉の前にいた私は入ってくるお客さんの邪魔になっていて、入って来たお客さんと入れ違うように店の外に出た。
眩しい陽射しに目を細める。もわっとした熱気が、空調で冷やされていた私の肌を一気に温めていく。
店の中を覗く。またお客さんが増えた店内。言われた言葉の意味を先輩に尋ねたかったけれど、先輩はすぐに接客に入ってしまって、とても聞ける雰囲気ではなくなってしまった。
「十六時に、もう一回」
私は一方的に交わされた約束を、忘れないように呟く。
大きな雲が太陽を隠し、大きな影が落ちる。私は空を見上げた。真っ青な空に、大きくて柔らかそうな入道雲が浮かんでいた。


