ショートカット・スウィートケーキ

 『サロン・ド・レーヴ』の扉を開けると、ひんやりとした空調の風が私の頬を撫でた。奈々子さんの「いらっしゃい」って声に出迎えられて、私も「こんにちは」と挨拶をする。

「今日、学校だったんでしょー? ごめんね、暑いのに寄ってもらっちゃって」
「いえ、全然」
「涼しくて生き返ります」と返せば、奈々子さんはお客さん用のカラー剤をカウンターで用意しながら「いくらでも涼んでいって」と笑ってくれた。
「澄春に渡して欲しいもの預けてあるから、二階上がってくれる?」
「はい。お邪魔します」

 私は軽く頭を下げて、店の奥へと足を進めた。初めのころは、「良い」と言われても、こうやってお店の中を通って居住スペースのほうへ行くことに気が引けていた。しかし人間、二年も経てば慣れてしまうのだから不思議なものだ……。もちろん、内海先輩や奈々子さんがあまりにも気さくに「入っていい」と言い続けてくれたからというのが一番大きいのだけれど。
 居住スペースへと続く扉を開け、目の前の階段をのぼっていく。そして、階段をのぼり切った先にある扉を私は軽くノックした。中から先輩の「入って良い」と言う声が聞こえてくる。
「お邪魔します」と挨拶をしながらリビングに入ると、キッチンカウンターの前に立っていた先輩は「お疲れ」と右手を挙げた。

「今、お茶淹れるから、適当に座ってて」
「ありがとうございます」

 ソファに汗がついてしまうのが申し訳なくて、涼やかさを感じる、い草のラグの上に座った。
 先輩のほうをちらりと窺うと、氷がたっぷり入ったグラスにフリーザーポットから麦茶を注いでいるところだった。先輩はそれをふたつ用意すると、私の隣に座りながらひとつを私に差し出す。

「外、暑かった?」
「とっても」

 私はお礼の言葉を続けながら両手でグラスを受け取る。外から来たばかりの私にはちょうどいいくらいの冷たさ。一口飲めば、熱のこもった体を一気に冷ましてくれる感覚に小さく息を吐いた。

「あ、そういえば。奈々子さんからのお裾分けってなんですか?」
「ゼリー。お客さんとか取引先の人からお中元でいっぱいもらったんだよ」
「いくつかもらってくれって母さんが言ってた」と内海先輩は続けた。そして、テーブルの上に置いてあった紙袋を手に取って、私の傍に置く。
「こんなにもらっていいんですか?」
「いいよ。まだ他にもいっぱいあって、俺ん家だけじゃ食べきれないし」

 あ、と先輩は何かを思いついたように立ち上がると、冷蔵庫のほうへ向かった。私が目で追いかけると、内海先輩はゼリーをふたつ持ち帰ってくる。

「せっかくだから今から一緒に食べよう」
「わ、美味しそう。夏みかんですか?」
「うん」

 先輩はゼリーの蓋に書かれた文字を見ながら頷いた。ゼリーと一緒に差し出されたスプーンを受け取る。

「いただきます」

 私たちの声が揃う。果肉がたっぷり入った夏みかんのゼリーは、蓋を開けただけで甘酸っぱい爽やかな香りが舞った。

「今日、どうだった?」

 ゼリーを一口頬張り、柑橘の味と香りを楽しみながら、口を開いた先輩を見る。実行委員の集まりについて聞かれているのだと分かり、私は「んー」と今日のことを思い出しながら言葉を頭の中で整理する。

「今日は自己紹介したくらいだったので、特に何も」
「ふぅん。他クラスの知り合いは増えた?」
「あ、はい! 同じ一年生で、とっても可愛くて、とっても優しい女の子と知り合いになりました!」

 もっと話したかったんですけど、帰りは時間合わなくて、と続ける。

「あと、千昭も同じ実行委員だったみたいで……」

 そう、何気なく口にしてしまった瞬間。隣から「ゴフッ」と先輩が盛大に咽た音が聞こえてきた。驚いて振り返れば、先輩はお茶を飲もうとしていたのか、慌ててグラスをテーブルの上に置くと、ティッシュを数枚抜き取って口に当てた。

「は? 千昭って、あの加納千昭?」
「……はい。あの、加納千昭です」
「翠が中二のときに自爆して告った?」
「うっ、そ、そうですけど……っ」

 何も今そこまで掘り返さなくてもいいのに!

「……で、話したの?」
「ま、まぁ。学校行ってすぐ鉢合っちゃって……。向こうから声、かけてくれたので……」
「へぇ」

 先輩はティッシュを適当に丸めると、それを近くにあったゴミ箱に捨てた。それから、私の顔を覗き込んでくる。顔が近い。落とされたトーンで、「翠」と名前を呼ばれて、私は少し顎を引きながら「はい」と小さく返事をした。

「無理すんなよ」

 少し眉を寄せた先輩の目に、息を呑む私が映っていた。
 心配、してくれている。私の喉が小さく音を鳴らした。ずき、と小さく胸の奥が痛む。
 私が、ちゃんと千昭についての自分の気持ちを話さないから、先輩にこんな顔をさせてしまっている。先輩の中では、私はまだ千昭のことを引きずっているままだから――。
 それを隠して私は、内海先輩の傍にい続けようとしている。先輩の優しさを利用して……。
 なんて自分はズルイんだろう。
 私はスカートの裾をぎゅっと握り込んだ。

「あ、あの……先輩……」

 そう、口を開いたときだ。

「澄春、そろそろ来てー!」

 下の美容室のほうから奈々子さんの先輩を呼ぶ声が響いて、私は慌てて口を引き結んだ。内海先輩は、扉のほうを見て「あー、そうだった」と苦く笑った。

「俺、これから店の手伝いあるんだよ」
「あ、そうなんですね。じゃあ、私はこれで帰ります」

 食べ終わったゼリーの容器を片付けて、お裾分けが入った袋を手に持つ。忘れ物がないかを確認しながら立ち上がり、先輩と一緒にリビングを出た。

(やっぱり、そろそろちゃんと話をしないと……)

 私が千昭と関わったという話をするだけで、まさか先輩があんなにも心配そうな目をするなんて思ってもいなかった。
 階段を先に下りていく先輩の背中を見つめながら、私は小さく息を吐いた。