ざわざわとした一組の喧騒が、足を進めるごとに、また少しずつ耳に戻ってくる。
新太の前に立ち、少しの躊躇いのあと、私は自分から声をかけた。
「……新太、写真撮ろうよ」
これが高校生活の最後。そして、彼と交わす最後の言葉になる。そう直感したからだった。
私たちの会話に気づいて、周囲が一瞬ざわつき、好奇の視線が集まるのを感じた。
でも、不思議ともう何も気にならなかった。
「いいよ、撮ろう」
新太は一瞬驚いたような顔をして、それから静かに微笑んだ。
私は明里にスマホを預け、新太の隣に並んだ。
かつて、新太の部屋や沖縄の満天の星空の下で、誰よりも近くで触れ合っていた、あの愛おしかった彼の体温。
それを知っている私だからこそ、隣に並んだ瞬間に感じる「明確な隙間」が、痛いほど冷たく、切なく伝わってきた。
肩が触れ合わないように、お互いにほんの数センチだけ体を引いている。
その埋まらない隙間が、まるで三月の冷たい風のように、私の肌をすり抜けていった。
ただの同級生としての、自然で、少しよそよそしい距離感。
パシャリ、とシャッター音が鳴る。
「うん、綺麗に撮れたよ!」
明里は私のスマホの画面をこちらに向けて見せてくれた。
写真の中の私たちは、たしかに笑っていた。
けれど、そこにはもう恋人の空気は1ミリもなくて、たしかに『ただの過去』だった。
「あ、明里ー! こっち来て写真撮ろ!」
「あ、うん、今行く! 柚那、はいスマホ!」
近くにいた1組のクラスの友達から声が掛かり、明里は私の手にスマホをぽんと返すと、そそくさとそちらへ向かっていった。
明里が去り、スマホを握りしめた瞬間、不意に視界がじんわりと滲んだ。
未練があるわけじゃない。新太をまだ好きだとか、そんなことでは決してない。
ただ、あんなに毎日新太のことで泣き、執着して、心が壊れるほど彼を好きだった日々が、本当に、本当に終わってしまったのだと実感して、どうしようもなく涙がこみ上げてきた。
涙がこぼれ落ちてしまわないように、私は表情が崩れるのを必死に堪えた。
うつむいたまま、震える声をどうにか押し殺して、新太に「ありがとう」とだけ伝えた。
これで、終わり。
私はくるりと踵を返し、その場を去ろうとした。
その時だった。
スッ、と私の手首を、新太の大きな手が優しく掴んで引き留めた。
「……っ」
驚いて立ち止まる。
肌に伝わる、新太のよく知っている手のひらの温度。
かつて誰よりも近くにいて、私のすべてだった彼の、最後の温もり。
周囲のクラスメイトたちの賑やかな笑い声や歓声が、その瞬間、まるで水の中に沈んだように遠くでこもって聞こえた。
「……ごめんな」
周りの喧騒に紛れてしまうくらい、小さくて、不器用な声だった。
顔を上げて彼と向き合うこともできず、ただ小さく頷くことしかできなかった。
手首を掴んでいた新太の指の力が、ふっと優しくほどけて、私の肌から離れていく。
私は、彼を振り返ることなく、ただ静かに前を向いてそのまま一組の教室を後にした。
新太が言った「ごめんな」という言葉にどんな想いを込めていたのかはわからない。
けれど、その声を聞いた瞬間、胸の奥にひっそりと残っていた最後のわだかまりが、すーっと優しく溶けて消えていく感覚があった。
ずっと私を縛り付けていた目に見えない鎖が解け、私はようやく、本当の意味で新太を許そうと思えた。
廊下を歩き出すと、張り詰めていた糸がふっと切れたように、深く長い息がこぼれた。
前を向いて歩き始めた私の背中を追って、駆け寄ってきた明里が声をかけてきた。
「柚那……大丈夫?」
振り返ると、心配そうな顔で私の顔をのぞき込む明里に、私は涙を拭ってパッと顔を上げた。
「うん! 大丈夫だよ!」
無理をして作った笑顔じゃなかった。自分でも驚くほど、心が晴れやかだった。
私の表情を見て安心したのか、明里はホッと胸を撫でおろし、パッと明るい笑顔になった。
「よかった! じゃあ次、どこのクラスに行くー?」
「6組行こうよ! まだ真美たちと撮ってないし!」
弾む声で笑い合いながら、私たちは再び賑やかな教室へと戻っていった。
その後、他のクラスの友人たちとも涙や笑顔を交えながら写真撮影を終えた。
黒板に書かれた寄せ書きや、飾り付けられた教室を最後にしっかりと目に焼き付け、私たちは荷物をまとめて下駄箱へ向かった。
祭りのあとのような、少し寂しげな空気が漂う昇降口。
人影もまばらになったその場所でローファーに履き替えていると、隣に立った明里が声をかけてきた。
「ねえ柚那、このあとどうする? どこか寄ってく?」
「あ……ごめんね。私、このあとちょっと用事があって……」
勇斗との約束のことは、なんだか上手く言えなかった。
けれど明里は、深く追及することもなく、嫌な顔ひとつせず明るく笑ってくれた。
「そっか! じゃあ柚那、次は卒業旅行でね!」
「うん! 楽しみにしてる!」
手を振って立ち去る明里の後ろ姿を見送り、私はふうっと小さく息を吐いた。
一人で下駄箱を後にし、校舎の外へと足を踏み出す。
少し傾きかけた太陽が、校庭に長い影を落していた。深く息を吸い込むと、まだ冷たさの残る空気の中に、ほんの少しだけあたたかい春の匂いが混じっている気がした。
今日で、本当に高校生活が終わるんだ。
そんな感傷に浸りかけたその時――制服のポケットの中で、スマホが短く震えた。
ドキリと心臓が跳ねる。
慌てて画面を開くと、一件のLINEが届いていた。
『柚那、今どこ?』
表示された名前は、勇斗だった。
新太の前に立ち、少しの躊躇いのあと、私は自分から声をかけた。
「……新太、写真撮ろうよ」
これが高校生活の最後。そして、彼と交わす最後の言葉になる。そう直感したからだった。
私たちの会話に気づいて、周囲が一瞬ざわつき、好奇の視線が集まるのを感じた。
でも、不思議ともう何も気にならなかった。
「いいよ、撮ろう」
新太は一瞬驚いたような顔をして、それから静かに微笑んだ。
私は明里にスマホを預け、新太の隣に並んだ。
かつて、新太の部屋や沖縄の満天の星空の下で、誰よりも近くで触れ合っていた、あの愛おしかった彼の体温。
それを知っている私だからこそ、隣に並んだ瞬間に感じる「明確な隙間」が、痛いほど冷たく、切なく伝わってきた。
肩が触れ合わないように、お互いにほんの数センチだけ体を引いている。
その埋まらない隙間が、まるで三月の冷たい風のように、私の肌をすり抜けていった。
ただの同級生としての、自然で、少しよそよそしい距離感。
パシャリ、とシャッター音が鳴る。
「うん、綺麗に撮れたよ!」
明里は私のスマホの画面をこちらに向けて見せてくれた。
写真の中の私たちは、たしかに笑っていた。
けれど、そこにはもう恋人の空気は1ミリもなくて、たしかに『ただの過去』だった。
「あ、明里ー! こっち来て写真撮ろ!」
「あ、うん、今行く! 柚那、はいスマホ!」
近くにいた1組のクラスの友達から声が掛かり、明里は私の手にスマホをぽんと返すと、そそくさとそちらへ向かっていった。
明里が去り、スマホを握りしめた瞬間、不意に視界がじんわりと滲んだ。
未練があるわけじゃない。新太をまだ好きだとか、そんなことでは決してない。
ただ、あんなに毎日新太のことで泣き、執着して、心が壊れるほど彼を好きだった日々が、本当に、本当に終わってしまったのだと実感して、どうしようもなく涙がこみ上げてきた。
涙がこぼれ落ちてしまわないように、私は表情が崩れるのを必死に堪えた。
うつむいたまま、震える声をどうにか押し殺して、新太に「ありがとう」とだけ伝えた。
これで、終わり。
私はくるりと踵を返し、その場を去ろうとした。
その時だった。
スッ、と私の手首を、新太の大きな手が優しく掴んで引き留めた。
「……っ」
驚いて立ち止まる。
肌に伝わる、新太のよく知っている手のひらの温度。
かつて誰よりも近くにいて、私のすべてだった彼の、最後の温もり。
周囲のクラスメイトたちの賑やかな笑い声や歓声が、その瞬間、まるで水の中に沈んだように遠くでこもって聞こえた。
「……ごめんな」
周りの喧騒に紛れてしまうくらい、小さくて、不器用な声だった。
顔を上げて彼と向き合うこともできず、ただ小さく頷くことしかできなかった。
手首を掴んでいた新太の指の力が、ふっと優しくほどけて、私の肌から離れていく。
私は、彼を振り返ることなく、ただ静かに前を向いてそのまま一組の教室を後にした。
新太が言った「ごめんな」という言葉にどんな想いを込めていたのかはわからない。
けれど、その声を聞いた瞬間、胸の奥にひっそりと残っていた最後のわだかまりが、すーっと優しく溶けて消えていく感覚があった。
ずっと私を縛り付けていた目に見えない鎖が解け、私はようやく、本当の意味で新太を許そうと思えた。
廊下を歩き出すと、張り詰めていた糸がふっと切れたように、深く長い息がこぼれた。
前を向いて歩き始めた私の背中を追って、駆け寄ってきた明里が声をかけてきた。
「柚那……大丈夫?」
振り返ると、心配そうな顔で私の顔をのぞき込む明里に、私は涙を拭ってパッと顔を上げた。
「うん! 大丈夫だよ!」
無理をして作った笑顔じゃなかった。自分でも驚くほど、心が晴れやかだった。
私の表情を見て安心したのか、明里はホッと胸を撫でおろし、パッと明るい笑顔になった。
「よかった! じゃあ次、どこのクラスに行くー?」
「6組行こうよ! まだ真美たちと撮ってないし!」
弾む声で笑い合いながら、私たちは再び賑やかな教室へと戻っていった。
その後、他のクラスの友人たちとも涙や笑顔を交えながら写真撮影を終えた。
黒板に書かれた寄せ書きや、飾り付けられた教室を最後にしっかりと目に焼き付け、私たちは荷物をまとめて下駄箱へ向かった。
祭りのあとのような、少し寂しげな空気が漂う昇降口。
人影もまばらになったその場所でローファーに履き替えていると、隣に立った明里が声をかけてきた。
「ねえ柚那、このあとどうする? どこか寄ってく?」
「あ……ごめんね。私、このあとちょっと用事があって……」
勇斗との約束のことは、なんだか上手く言えなかった。
けれど明里は、深く追及することもなく、嫌な顔ひとつせず明るく笑ってくれた。
「そっか! じゃあ柚那、次は卒業旅行でね!」
「うん! 楽しみにしてる!」
手を振って立ち去る明里の後ろ姿を見送り、私はふうっと小さく息を吐いた。
一人で下駄箱を後にし、校舎の外へと足を踏み出す。
少し傾きかけた太陽が、校庭に長い影を落していた。深く息を吸い込むと、まだ冷たさの残る空気の中に、ほんの少しだけあたたかい春の匂いが混じっている気がした。
今日で、本当に高校生活が終わるんだ。
そんな感傷に浸りかけたその時――制服のポケットの中で、スマホが短く震えた。
ドキリと心臓が跳ねる。
慌てて画面を開くと、一件のLINEが届いていた。
『柚那、今どこ?』
表示された名前は、勇斗だった。
