君の隣。 〜一番愛した人の裏切り、泥沼のモラハラ彼氏。傷だらけの私を最後に救ったのは、出会って10年、ずっと私だけを思い続けてくれた「親友の元彼」でした〜

あの日、柊の部屋で理不尽な暴力を振るわれ、無理やり身体を重ねられたあの絶望の夜から数日。

柊は何事もなかったかのように、平然とした声で私に連絡を寄越していた。
『お前も本当はドレス着られて嬉しいだろ?』
電話の向こうで機嫌よく、上から目線で言い放つ彼の言葉。

私の心からは、彼に対する情も未練も、すでに跡形もなく消え去っていた。
けれど、下手に拒絶して機嫌を損ねれば、またあの恐ろしい暴力を振るわれる。

表面上は顔色を窺い、従順な彼女を演じながらも、私の頭の中では、この泥沼から安全に抜け出すタイミングをただ静かに模索し続けていた。

ーーーーーーーーーー

そして迎えた当日。
私は鉛のように重い足取りで、親友の明里が働くブライダル式場へと足を踏み入れた。

ロビーに入ると、進行準備をしていた明里がパッと顔を輝かせて駆け寄ってきた。

「柚那! 柊くん! 今日は急な依頼なのに、本当にありがとう!」

心から感謝を伝えてくれる親友に挨拶を済ませると、柊はスタッフに案内されて一足先に男性用の控え室へと向かっていった。
明里と私だけになったその瞬間。私の伏し目がちな表情に気づいた明里が、こっそりと顔を寄せてきた。

「……柚那? なんだか顔色、悪くない……?」

明里の瞳に、心配そうな疑問と違和感が宿る。

「……ううん! 全然平気だよ、ちょっと緊張してるだけ」

必死に口角を持ち上げて笑ってみせると、明里は「……そっか」と、どこか引っかかるような視線を向けながらも、私を女性用の控え室へ案内してくれた。
親友の顔に泥を塗るわけにはいかない。絶対に迷惑をかけないと胸に言い聞かせ、私は必死で崩れそうな感情を押し殺した。

ーーーーーーーーーー

控え室に入り、スタッフの手によって純白のウェディングドレスを着付けられていく。

ドレスから覗く、あの部屋で押し付けられてできた肩や背中の薄い打撲痕。明里が来る前に、スタッフさんがボディファンデーションで手早く綺麗に隠してくれた。これならきっと、誰も傷痕には気づかないし、明里に余計な心配をかけることもないはず。

「わぁ……柚那、すごく綺麗! 本当のモデルさんみたい!」

完成したドレス姿を見た明里が、パッと手を叩いて感嘆の声を上げた。

鏡の中に映る、華やかな刺繍と繊細なレースに包まれた自分の姿。
頭に飾られた透き通るベール。
かつてなら、大好きな人と迎える未来を夢見て胸を躍らせたはずの衣装。
けれど今の私には、自分を死ぬまで逃がさないように縛りつける、冷たい鎖にしか見えなかった。

「うわ、めちゃくちゃ似合ってんじゃん! さすが俺の彼女だな」

仕立ての良いタキシードに身を包んだ柊がドアを開けて入ってくるなり、鏡越しの私を見て満足げに鼻を鳴らした。
ご満悦な様子で、私の肩に慣々しく手を回してくる。

その手が触れた瞬間、肌にさっと鳥肌が立ち、猛烈な寒気と拒絶感が全身を駆け抜けた。
あの日、無理やり服をはだけ取られた時の恐怖が鮮明に蘇る。けれど、ここで取り乱すわけにはいかず、私は必死で奥歯を噛み締めた。

コンコン、と控え室のドアがノックされる。

「——お時間です。それではチャペルへご移動いただき、事前のリハーサルと写真撮影をお願いいたします」

スタッフの案内の声に、柊は機嫌よく返事をして私の腕を引いた。

「ほら、行くぞ。……今日のお前、マジで綺麗だから。俺の自慢の奥さんとして、みんなに思いっきり見せびらかしてやるよ」

私を自分を飾るトロフィーか何かのように思い込み、耳元で甘く囁いてくる彼。
その無自覚な勘違いと自己中心的な愛情に、胃の奥から込み上げる吐き気を必死に飲み込んだ。

見学客が到着する前に行われた、チャペルでの事前の写真撮影。
カメラマンの指示を受けるたび、柊は強引に私を抱きしめてきた。拒絶することもできず、柊の腕の中で私の身体は石のように硬直し、瞳からは静かに光が消えていく。

やがて、いよいよチャペルに見学客たちが通されていった。

『皆様、本日はようこそお越しくださいました。ただいまより、当式場の挙式の様子を、モデルのお二人による模擬挙式にてお見せいたします』

アナウンスが響き、パイプオルガンの荘厳な音色がチャペル内に満ちる。

重厚な扉が開き、見学客たちの温かい拍手と視線を浴びながら、私は柊と並んでヴァージンロードを歩き出した。
こんな男と結婚なんて、考えるだけでも吐き気がする。今すぐこのドレスを破り捨てて逃げ出したい。

心の中で悲鳴を上げているのに、ここで波風を立てるわけにはいかない一心で、私は隣の柊に歩幅を揃え、引きつる唇で微笑みを貼りつけるしかなかった。

やがて、祭壇の前で立ち止まる。

「——汝、健やかなるときも、病める時も、この者を愛し、敬い、慰め、助け……愛の誓いを立てますか」

「はい、誓います」

隣で、柊が爽やかで誇らしげな声を返した。

(……誓うわけない……。こんな男と、生涯を共にするなんて……っ)

逃げ場のない屈辱感に胸が押しつぶされそうになりながらも、私は震える声をどうにか絞り出した。

「……はい、誓います」

自分の口から出た偽りの誓い。
ひんやりとした金属の指輪が薬指にはめられるたび、重い手枷をはめられたような感覚に襲われた。

「それでは、ベールを上げて、誓いのキスを」

司式者の促しに、柊がゆっくりと私の方へ向き直る。
大きな手が伸びてきて、私の頭を覆っていた透き通るベールがゆっくりと持ち上げられていく。

視界を遮っていたベールが頭の後ろへ払われ、逃げ場のない生の柊の顔が目の前に現れた。
指先が耳元にかすめるだけでも、寒気と屈辱で肌が逆立つ。
見学客たちが見守る中、柊は当然のように私の唇を奪おうと顔を近づけてきた。

(嫌……っ!)

あの夜、暴力とともに覆いかぶさってきた男の影と体温がフラッシュバックする。
猛烈な生理的拒絶感から、私はとっさに、ほんのわずかだけ顔を横へ背けた。

触れたのは、唇ではなく、私の冷え切った頬の端。

見学客たちからは「照れて恥ずかしがっている新婦」のように見えたかもしれない。けれど、私を抱きしめる柊の腕が、一瞬だけ不満そうに固くなったのを肌で感じた。

割れんばかりの拍手が湧き起こる中、ヴァージンロードの脇で演出を見守っていた明里と、ふと視線が重なった。

(あぁ……見抜かれてる……)

痛いほど突き刺さる明里の視線が、私にすべてを物語っていた。
強ばった私の歩調も、誓いの言葉を口にした時の震える声も、ベールを上げられた瞬間に光を失っていた瞳も。
ずっと私の微細な変化を見てきた親友の目を、誤魔化せるはずがなかったのだ。

明里の瞳には、明らかな困惑と、鋭い追及の光が宿っている。

(……明里、お願い……今は何も聞かないで……)

私はすがるように親友から目を逸らし、ただ冷めた仮面の笑顔を貼りつづけることしかできなかった——。