章 迷宮
四月。桜の花びらが舞い散る中、私は社会人としての新しい一歩を踏み出していた。
専門学校を卒業し、内定をもらっていた自宅近くのクリニックでの勤務。
患者様への丁寧な対応や聞き慣れない医療用語、先輩の方々のテキパキとした動きに必死についていく日々。
(頑張らなきゃ……早く一人前になりたいな)
クタクタになりながら仕事を終え、自分の車に乗り込むと、どっと深い疲れが肩にのしかかる。
けれど、仕事をやり遂げた達成感と「社会人になったんだ」という少し大人になった誇らしさが、胸の奥を静かに満たしていた。
一方で、柊も大きめのクリニックで勤務を開始していた。
お互いに新生活が始まったばかりで覚えることが多く、学生時代のように頻繁に顔を合わせることは難しくなっていた。
ーーーーーーーーーー
社会人になってニ人で会うはじめての週末。
私は自分の車を走らせ、柊に呼ばれて四月から一人暮らしを始めた彼の新居へと向かっていた。
「柚那、おつかれ。仕事、どう?」
ドアを開けて出迎えてくれた柊は、どこか少し誇らしげで、大人びた表情を浮かべていた。
部屋に入り、二人でソファに腰を下ろす。
(どこかカフェとか……人目のある場所に誘うタイミングを見計らおう……)
そう考えている時だった。
柊がポケットから一本の鍵を取り出し、私の手元へ差し出してきた。
「前に約束しただろ? 俺の部屋の合鍵。柚那にあげる」
まっすぐ私を見つめて、少し照れくさそうに微笑む柊。
(……どうしよう……)
内心に激しい困惑が広がる。もう心は離れていて、別れを決意しているのだ。
「……ごめん、合鍵はもらえな——」
断ろうと口を開かけた、その瞬間。
「……え?」
柊の笑顔がすーっと消え、声のトーンが低く冷たく跳ね上がった。
不機嫌を隠そうともしない、威圧的な目線。
「……ううん、なんでもない。……ありがとう、柊」
私はその威圧感に押され、言いかけた言葉をごまかして鍵を握りしめるしかなかった。
すると、柊は満足そうに口角を上げ、「買い出しとか掃除も頼むわ」と当然のように言ってきた。
やがて、柊が私の肩を抱き寄せ、顔を近づけてくる。
「久しぶりだしさ、いいだろ?」
甘い声で身体を求めてくる彼に、拒絶感が込み上げた。
「……ごめん、生理になっちゃって……」
必死についた嘘。
すると、柊はあからさまに嫌そうな顔をし、私の肩を乱暴に振り払った。
「は? なんだよそれ。タイミング悪すぎだろ」
吐き捨てるように言うと、彼は私に背を向けてベッドに潜り込み、そのままふて寝してしまった。
気まずい空気の中、しばらく壁の時計の針が進む音だけが響く。
「……柊、そろそろ私、帰るね?」
声をかけながらそっと肩を揺すった、次の瞬間。
「うるっせえな!! 疲れてんだから話しかけんなよ!!」
不機嫌になった柊が飛び起き、枕元にあったティッシュ箱を思い切り私に向かって投げつけてきた。
バサッと音を立てて胸に当たり、床に転がるティッシュ箱。
(……ああ、もうダメだ……)
胸の痛みとともに、頭の中がすーっと冷え切っていくのが分かった。
自分の思い通りにならないと怒鳴り散らし、物に当たる。
悲しさや悔しさを通り越して、ただただ呆れと虚しさが込み上げてくる。
私は床に転がったティッシュ箱を一瞥し、上着とバッグをひっつかむと、静かに部屋を出た。
ーーーーーーーーーー
アパートを出て車に乗り込んだものの、そのまま自宅へ帰る気にはなれなかった。
『今日は柊の部屋で過ごすね』と言って家を出てきた手前、こんな早い時間に帰ればお母さんに余計な心配をかけてしまう。
せっかくの休日を台無しにされた惨めさを抱えたまま、私は近くにある大きなショッピングモールへと車を走らせた。
館内の文具店で、仕事で使うメモ帳やボールペンを選び、会計を済ませる。
買い物を終え、吹き抜けのエスカレーター横にあるベンチに腰を下ろした。
買物袋を膝の上に抱え、ふと息をついて周りを見渡す。
休日を楽しむ家族連れや、手をつないで楽しそうに笑い合うカップルたち。
(……私はなにをやっているんだろう…)
張り詰めていた気がプツリと切れ、胸の奥から溢れ出す感情を抑えきれなくなる。
膝の上の買物袋をきゅっと握りしめると、ぽろりと涙が零れ落ちて、ジーンズに小さなシミを作った。
俯いたまま静かに涙を拭い、バッグの中で冷たく収まっている合鍵に触れる。
(……次に会う機会ができたら……ふたりきりでも絶対に、そこで別れを告げて、この鍵も返して終わりにしよう)
今度こそ絶対に引かないと、心の中で静かに誓った。
自宅へ帰り着いた直後、スマホが震えた。
柊からのLINEだった。ティッシュ箱を投げつけたことへの謝罪も気遣いもなく、ただ一言。
『うちの院長が柚那に会いたがってるから。いつ空いてる?なるべく早く教えて』
画面を見つめたまま、私は冷え切った吐息をそっと漏らした——。
四月。桜の花びらが舞い散る中、私は社会人としての新しい一歩を踏み出していた。
専門学校を卒業し、内定をもらっていた自宅近くのクリニックでの勤務。
患者様への丁寧な対応や聞き慣れない医療用語、先輩の方々のテキパキとした動きに必死についていく日々。
(頑張らなきゃ……早く一人前になりたいな)
クタクタになりながら仕事を終え、自分の車に乗り込むと、どっと深い疲れが肩にのしかかる。
けれど、仕事をやり遂げた達成感と「社会人になったんだ」という少し大人になった誇らしさが、胸の奥を静かに満たしていた。
一方で、柊も大きめのクリニックで勤務を開始していた。
お互いに新生活が始まったばかりで覚えることが多く、学生時代のように頻繁に顔を合わせることは難しくなっていた。
ーーーーーーーーーー
社会人になってニ人で会うはじめての週末。
私は自分の車を走らせ、柊に呼ばれて四月から一人暮らしを始めた彼の新居へと向かっていた。
「柚那、おつかれ。仕事、どう?」
ドアを開けて出迎えてくれた柊は、どこか少し誇らしげで、大人びた表情を浮かべていた。
部屋に入り、二人でソファに腰を下ろす。
(どこかカフェとか……人目のある場所に誘うタイミングを見計らおう……)
そう考えている時だった。
柊がポケットから一本の鍵を取り出し、私の手元へ差し出してきた。
「前に約束しただろ? 俺の部屋の合鍵。柚那にあげる」
まっすぐ私を見つめて、少し照れくさそうに微笑む柊。
(……どうしよう……)
内心に激しい困惑が広がる。もう心は離れていて、別れを決意しているのだ。
「……ごめん、合鍵はもらえな——」
断ろうと口を開かけた、その瞬間。
「……え?」
柊の笑顔がすーっと消え、声のトーンが低く冷たく跳ね上がった。
不機嫌を隠そうともしない、威圧的な目線。
「……ううん、なんでもない。……ありがとう、柊」
私はその威圧感に押され、言いかけた言葉をごまかして鍵を握りしめるしかなかった。
すると、柊は満足そうに口角を上げ、「買い出しとか掃除も頼むわ」と当然のように言ってきた。
やがて、柊が私の肩を抱き寄せ、顔を近づけてくる。
「久しぶりだしさ、いいだろ?」
甘い声で身体を求めてくる彼に、拒絶感が込み上げた。
「……ごめん、生理になっちゃって……」
必死についた嘘。
すると、柊はあからさまに嫌そうな顔をし、私の肩を乱暴に振り払った。
「は? なんだよそれ。タイミング悪すぎだろ」
吐き捨てるように言うと、彼は私に背を向けてベッドに潜り込み、そのままふて寝してしまった。
気まずい空気の中、しばらく壁の時計の針が進む音だけが響く。
「……柊、そろそろ私、帰るね?」
声をかけながらそっと肩を揺すった、次の瞬間。
「うるっせえな!! 疲れてんだから話しかけんなよ!!」
不機嫌になった柊が飛び起き、枕元にあったティッシュ箱を思い切り私に向かって投げつけてきた。
バサッと音を立てて胸に当たり、床に転がるティッシュ箱。
(……ああ、もうダメだ……)
胸の痛みとともに、頭の中がすーっと冷え切っていくのが分かった。
自分の思い通りにならないと怒鳴り散らし、物に当たる。
悲しさや悔しさを通り越して、ただただ呆れと虚しさが込み上げてくる。
私は床に転がったティッシュ箱を一瞥し、上着とバッグをひっつかむと、静かに部屋を出た。
ーーーーーーーーーー
アパートを出て車に乗り込んだものの、そのまま自宅へ帰る気にはなれなかった。
『今日は柊の部屋で過ごすね』と言って家を出てきた手前、こんな早い時間に帰ればお母さんに余計な心配をかけてしまう。
せっかくの休日を台無しにされた惨めさを抱えたまま、私は近くにある大きなショッピングモールへと車を走らせた。
館内の文具店で、仕事で使うメモ帳やボールペンを選び、会計を済ませる。
買い物を終え、吹き抜けのエスカレーター横にあるベンチに腰を下ろした。
買物袋を膝の上に抱え、ふと息をついて周りを見渡す。
休日を楽しむ家族連れや、手をつないで楽しそうに笑い合うカップルたち。
(……私はなにをやっているんだろう…)
張り詰めていた気がプツリと切れ、胸の奥から溢れ出す感情を抑えきれなくなる。
膝の上の買物袋をきゅっと握りしめると、ぽろりと涙が零れ落ちて、ジーンズに小さなシミを作った。
俯いたまま静かに涙を拭い、バッグの中で冷たく収まっている合鍵に触れる。
(……次に会う機会ができたら……ふたりきりでも絶対に、そこで別れを告げて、この鍵も返して終わりにしよう)
今度こそ絶対に引かないと、心の中で静かに誓った。
自宅へ帰り着いた直後、スマホが震えた。
柊からのLINEだった。ティッシュ箱を投げつけたことへの謝罪も気遣いもなく、ただ一言。
『うちの院長が柚那に会いたがってるから。いつ空いてる?なるべく早く教えて』
画面を見つめたまま、私は冷え切った吐息をそっと漏らした——。
