第1話 – 7ページ目:隅田川のほとりで
午後11時27分。
隅田川は、岸辺の街灯の光を映しながら静かに流れていた。遠くでは東京のネオンが煌めいている。しかしここ、水辺には――ただ静けさと、川の微かなささやきだけがあった。
イロは川辺の石段に腰を下ろしていた。コーヒーカップを傍らに置き、その温もりをシャツの布地ごと感じている。
彼の視線は、水面に映る光の揺らぎに注がれていた。捉えどころなく、かすかに震え、まるで掴もうとしても決して届かない何かのように。
「ミヤ…」
無意識に、その名を呟いた。
声は夜の中へ消え、川は――答えでもするかのように、さざ波を立てて彼の足元に寄せては返した。
あの少女のことを思い出していた。あの冷たい眼差し。誇りという名の防壁。
あの日、廊下で彼女に告げた言葉。
「中身がゼロだ」
後悔はしていなかった。あれは真実だった。
しかし――あの瞬間、彼の言葉が彼女に届いた時、彼女の瞳の奥で、何かが砕けた。
イロは石を一つ拾い上げ、手の中で弄んでから、水へと投げ入れた。小さな波紋が広がり、やがて消えた。
「もし…」
もし、いつか彼女が気づくことがあるなら。
あの言葉が、ただの侮辱ではなかったのだと。
彼は手を膝の上に置いた。夜風が、彼の髪を静かに揺らす。
胸の内に、何かが渦巻いていた。恋ではない。憐れみでもない。
ただ、奇妙な気がかりだった。
誰かが無事でいるかどうかを、たとえ何もしてやれなくても、確かめずにはいられない――そんな感覚。
彼は目を閉じた。
再び開けた時、水面に映る白い光の線を見つめていた。
そして、川に語りかけるように、静かに一句を詠んだ。
星もなく
川は照らす
君の影
沈黙。
聞こえるのは水の音だけ。遠く、橋を渡る車の音だけ。
数分が過ぎた。あるいは、それ以上だったかもしれない。
イロはコーヒーカップを手に取った。冷めていた。一口も飲まず、再び傍らに置く。
石を投げ入れた場所を見つめる。波紋は完全に消え去り、まるで何も起きなかったかのようだった。
しかし、胸の奥底には――何かが残っていた。
「ミヤ…」
「お前は、何を隠しているんだ?」
彼は立ち上がり、カップを手に、カフェへと戻っていった。
背後の川は、変わらず流れ続ける。
何かを語りかけるように、しかし誰にも届かないままに。
