第1話 – 12ページ目:カフェの灯りの下で
午後9時15分。
カフェは静かだった。
隅の方で、ただ二人だけが穏やかに言葉を交わしている。スピーカーからは、柔らかなジャズが流れていた。ピアノの音が雨粒のように空間に漂い、そして溶けていく。
ミヤは両手をテーブルの上に置いていた。カフェラテのカップから立ち上る湯気が、黄色い灯りの下でゆらゆらと揺れ、消えていく。
数分間、誰も口を開かなかった。
イロはカウンターの中に立っていた。グラスを布で拭いている――特に目的もなく、ただ手を動かしていた。
ミヤは湯気を見つめていた。形を作り、ほどけていく輪郭を。
深く息を吸った。
ぽつりと、言った。
「あの日…」
声が震えた。
間。
イロの手が止まる。彼の視線が、彼女へと向かう。
ミヤはうつむいた。髪が顔にかかる…しかし、彼女の中で何かが砕けようとしているのは明らかだった。
彼女は言った。
「あの日、校庭で…私、ひどいことを言った。」
沈黙。
「傷つけるつもりじゃなかった…ただ、弱く見えたくなかっただけ。」
声が詰まった。まるで言葉の一つひとつを、胸の奥底から引きずり出しているかのように。
イロはしばらく彼女を見つめていた。そして、グラスをそっと脇に置いた。
一歩、近づく。近すぎず、しかし確かに、距離を縮めて。
静かに言った。
「自分を守りたいと思うのは…弱さじゃない。」
間を置いて。
「でも、強く見えるために誰かを傷つけるのは…違う。」
ミヤが顔を上げた。
目は潤んでいたが、涙はこぼれていなかった。その瞳には――いつもの誇りとは違う、何かがあった。
彼女は、静かに言った。
「…あなたの言う通りかもしれない。」
息を吐いた。長年抱えていた何かを、ようやく手放すように。
「私、ただ…もう昔みたいにはなりたくなかった。」
イロは黙っていた。ただ、彼女を見つめていた――憐れみではなく、理解をもって。
そして、言った。
「過去は、いつまでも消えない。」
間。
「でも、どうするかは自分次第だ――
傷のままで持つのか、それとも…意味を見つけるのか。」
ミヤは再び湯気を見つめた。
「どうして…ここはこんなに静かなの?」
そして、半分冗談めかして、半分真剣に。
「ただのバリスタなのに…どうしてそんなことが言えるの?」
雨が、また降り始めた。
雫が窓を伝い、ネオンの光を連れてゆく。
イロがカウンターの外へ出る。もう一歩、近づく――だが、それ以上はない。
彼は言った。
「コーヒーが冷めるよ…気難しいお嬢様。」
ミヤは微笑んだ。小さな、少し照れくさそうな笑みだった。
「今夜は…もうそういう気分じゃないかも。」
イロはしばらく彼女を見つめていた。そして、言った。
「じゃあ、コーヒーももっと甘くなるよ。砂糖なしでもな。」
ミヤはカップを手に取った。一口、含む。
コーヒーはまだ熱かった。苦い…
しかしその奥に――初めての味があった。
彼女は思う。
「これが…甘さってやつ?」
わからなかった。
しかし、ひとつだけ確かなことがあった――
生まれて初めて…
誰かが彼女を見た。
外側じゃない。
富でもない。
誇りでもない。
本当の彼女を。
