第1話 – 10ページ目:語られなかった言葉
午前9時47分。
秋の光が黄色く色づいた木々の間をすり抜け、歩道に柔らかな影と光の模様を描いていた。空気は少し冷たいが、陽射しはまだ穏やかな温もりを残している。
カフェは開いたばかりだった。
挽きたてのコーヒーの香りが店内に広がり、半開きのドアから外へと流れ出ている。
イロはカウンターの中に立ち、カップを並べていた。スピーカーからは、静かなピアノの調べが流れている。
ドアが開いた。
小さなベルが軽やかに鳴る。
イロが顔を上げる。
一人の少女が入ってきた。制服を着て、カバンをしっかりと胸に抱えている。
あの日、廊下で泣いていた少女だった。
顔にはまだ少し曇りが残っている…しかし、今日は泣いていなかった。
イロは微笑んだ。
「おはよう。」
少女はうつむき加減に、小さな声で返した。
「おはようございます…」
彼女は窓際の席へと向かった。ミヤがいつも座る、あの場所だった。
イロは何も聞かずに、ホットカフェラテを淹れた。
カップをそっと彼女の前に置く。
「飲んで…温まるよ。」
少女は両手でカップを包み込んだ。しばらくの間、立ち上る湯気をただ見つめていた。
そして、とても静かな声で言った。
「あの…ミヤ先輩…今日は来ないんですか?」
イロは首を振った。
「いや…まだ来てないね。」
少女は唇を噛んだ。何か言いたげだったが、言葉が見つからないようだった。
イロは何も言わなかった。ただ、彼女の向かいに腰を下ろした。近すぎず、遠すぎない距離に。
少女は窓の外を見た。陽射しが彼女の顔に優しく降り注いでいる。
ぽつりと言った。
「あの日…ミヤ先輩に、言われたことがあって…」
イロはただ、耳を傾けた。
「私、学校に慣れなくて…友達もいなくて…ずっと一人で本を読んでたんです…」
声は少し震えていたが、彼女は続けた。
「そしたら先輩が来て、こう言ったんです…
“そんなに本が好きなら、なんで教室に来るの?”って…」
沈黙。
イロは何も判断せずに、ただ彼女を見つめた。
そして尋ねた。
「それだけ?」
少女はうつむいた。
「はい…それだけです…でも…その時すごく怖くて…
理由もなく嫌われてるんだって思って…」
しばらくの沈黙が流れた。
イロが静かに言った。
「ミヤは…君のことを嫌ってなんかないよ。」
少女が顔を上げた。
「どうしてわかるんですか?」
イロは微笑んだ。
「わからないよ…でも、もし本当に嫌ってたら、近づきもしない。無視するはずだ。」
少女は考え込んだ。そして、ぽつりと言った。
「聞いたんです…昔は、こんなじゃなかったって…」
イロは黙って聞いていた。
「優しかったって…でも何かがあって…変わっちゃったんだって…」
沈黙。
窓の外で、一枚の黄葉が枝から離れ、風に舞い、そして静かに地面へと落ちた。
イロはそれを見つめた。そして再び少女に向き直った。
「人は…変わるよ。」
少女が尋ねた。
「じゃあ…また変わることもできるんですか?」
イロはしばらく自分のカップを見つめていた。そして、静かに言った。
「わからない…
でも…変わろうとしている人を、知っている。」
少女は何も言わなかった。ただ、カフェラテを一口、また一口と飲んだ。
しばらくして、彼女は立ち上がった。
「ありがとうございました…なんだか、少し楽になりました。」
イロも立ち上がった。
「またおいで。コーヒーはいつでも待ってるよ。」
少女は初めて笑った。小さな、短い、しかし確かな笑顔だった。
そして彼女は去っていった。ベルの音が再び響く。
イロは朝の光の中に一人残された。少女が座っていた席を見つめる。まだ湯気を立てているカップを見つめる。
彼自身の言葉が、頭の中で繰り返される。
「変わろうとしている人を、知っている」
彼はそっと呟いた。
「ミヤ…」
「君は、本当に変わり始めているんだな。」
小さな微笑みを浮かべ、彼はカウンターへと戻っていった。
秋の陽射しは、まだ窓の外から静かに差し込んでいた。
