「今日の帰り、海、見に行かない?」
そうユキに誘われたのは、金曜日の昼休みだった。
梅雨の合間の貴重な晴れ間。夏の顔をした陽射しが照り付ける日だった。
放課後、学校前のバス停で待ち合わせをして、二人はバスに乗り込まずに海沿いへ続く道を歩いた。
波の音が近付いてくる。
海沿いの道から、海岸に下りられる石階段がある。花とユキはそれを下って、白い砂浜を踏んだ。
波打つ柔らかい砂の上を歩くのは一苦労だ。ローファーの中に入り込んでくる細かい砂がうざったい。
砂浜と海の間に、線を引いたように海藻や流木が落ちている。潮が満ちると、この辺りまで海が上がってくるのだろう。
その上を跨いで、波打ち際までやって来る。ひんやりと冷たい波が、靴を脱いだ花の素足を冷やした。
「小松さんと仲直りしたみたいで安心した」
ユキは波の上でぱちゃぱちゃと足を踏む。ふっと笑うユキに、花は「ごめんね」と頭を下げた。
「どうして天野さんが謝るの?」
花は口を閉じる。なんと言葉にすればいいのか分からなかった。
あんな会話を聞かせてしまったこと。
ユキが自分のせいだと思ってしまっているのではないかと、気にしていたこと。
どの気持ちも、どんな風に言葉にしても、ユキを不必要に傷つけてしまう気がした。
花は、項垂れるように俯く。足の先が、砂に埋まっている。波が引くたびに、周りの砂を少しずつ攫って行く。
「天野さん、もう絵は描かないの?」
しばらくの沈黙のあと。何も言わない花に痺れを切らしたというよりは、むしろそちらが本題というような話し出しだった。花は顔を上げて、ユキを見る。ユキはしゃがみ込んで、小さな青いシーグラスを空に翳すように覗き込んでいた。
「……絵は、辞めたの」
「どうして?」
ユキは花を見ずに問いかける。
花は、お腹の前で、自分の左手を包み込むように指を組んだ。
「……小学六年生のとき、絵画コンクールに参加したの」
花は、海に水滴を落とすように、ぽつりと吐き出した。
中学受験を控えている夏だった。勉強もちゃんと頑張るから、と両親を説得して参加したものだった。
描いた海の絵は渾身の出来だった。けれど、金賞はおろか佳作として入賞することすら出来なかった。そして、その冬の中学受験も上手くいかなかった。絵も受験も、全て自分がしたいと望んだことだったのに、そのすべてが何も残らない結果になってしまった。
「絵画教室の先生みたいになりたかったの。楽しく、キラキラと絵を描く人に。でも、鏡で見た自分の顔は違ったな」
それで辞めちゃった、と花は、自分自身に呆れ笑うように波を蹴とばす。水飛沫が太陽の光を反射しながら大きく舞った。
「絵を描くこと、嫌いになった?」
ユキがしゃがみ込んだまま、花を見上げる。その質問に、花は唇をキュっと結んで答えなかった。答えてしまったら、絵画教室を辞めたあとの今日までの日々が無駄になってしまうような気がした。
「天野さんの本当の気持ちは分かんないけど、課題やってるときの天野さん、楽しそうだったよ。だから俺、あの絵が好きなんだと思う」
ユキは、波で濡れてしまうことのないように自分の後ろに置いていた黒のトートバッグの中から、スケッチブックを取り出した。適当にめくって、そこからひとつ、何も描かれていないページを切り離すと花に差し出した。
「一緒に描こうよ、今から」
花は惑う。ユキは、花が受け取るまで紙を差し出したまま、じっと花を見つめている。花は、ぎこちなく手を伸ばした。指先に紙が触れる。
受け取った紙の表面を、花は指の腹で撫でた。ざらざらとした感触。絵の具と埃が混ざった絵画教室の香りも好きだったけれど、この紙の感触も花は大好きだった。
「俺、色鉛筆も持ってる」
ユキがスケッチブックを広げて、湿っていない砂の上に座り込む。花も同じように、ユキの隣に腰を下ろした。温かい砂の上、海で冷やされた足が温もっていく。
ユキはトートバッグの中から出した、二十四色入りの色鉛筆のケースを開ける。花はその中から水色を取った。スクールバッグの中から適当なノートを取り出して、それを下敷きにして、真っ白な紙にひとつ線を引いた。隣からはユキが色鉛筆を走らせる音が聴こえてくる。波に音に混じるその音が、とても心地良かった。
強張っていた肩の力が抜ける。目の前には、視界に収まりきらないほどの大きな海が広がっている。
穏やかな海は、キラキラと水面を反射させていた。魚を掴まえに来た海鳥が、海に刺さるように急降下して、そして一瞬のうちにまた空高く飛び立った。その嘴には、銀色に光る魚がくわえられていた。
「藍沢くんは、どうして、海の絵を描いたの?」
ユキがコンクールに出した海の絵について問う。ユキは、海とスケッチブックに交互に目をやりながら、「好きだったから」と答えた。
「あの海、ここなんだよ。灯台は取り壊されているみたいで、もうないけど」
ユキのその横顔を見る。ユキは描いていた手を止めて、溜息を吐くように肩で深く息をした。
「治療を受ける前、友達と一緒に何回も来た場所なんだ。だから、描きたかった」
ユキが花を見る。眉を下げて、彼は困ったように笑った。
「でも、怖くなっただけだった。俺には数日前のことが、本当は十七年も時間が経っていて、色褪せているほうが当たり前だってことが」
あまりにユキが悲しそうに笑うから、花は言葉を失ってしまった。「そうなんだ」と頷くことさえ憚られた。
「でも、天野さんが、あの絵を好きだって言ってくれたから、救われた」
ユキが笑う。またスケッチブックに視線を落として、色鉛筆で色をつけていく。
花は、ちらりとそれを覗いた。そこには、今、目の前に広がる海が描かれていた。
花が見ているものと同じ形の雲がぷっかりと浮かんでいる。見ているものと同じ場所に船が佇んでいる。
そこに描かれているものは、ユキが十七年前に見た海とは違う。
同じ時間、同じ場所。同じ空気を感じて、同じ時間を生きている。
それはどうしようもなく、花の心を嬉しくさせるというのに。
波が繰り返し寄せては返していくようだ。
一緒にお弁当を食べても。ユキという名前が『幸』と書くことを知っても。袖が触れ合うくらい近くに座って、笑い合っても。
……同じ海を眺めていても。
どれほどユキに近付いても、彼はすぐに遠くに行ってしまう。
ひと際大きな潮風が吹く。舞う砂埃に目を細める。
バサバサと音がして、体育座りをしていたユキの腿からスケッチブックが落ちていった。裏返されたそこには、美術室で偶然見てしまった女性の絵が描かれている。
切れ長の凛とした瞳。口元には緊張が滲む、ぎこちない笑み。そのアンバランスさが愛らしい。
「その人、藍沢くんの友達?」
スケッチブックを拾い上げて、砂を落とすユキに花は首を傾げる。
「そう、同じ美術部だった人」
柔らかな笑顔で頷くユキに、この人と海を見に行ったのだろうなと花は察した。
「好きなんでしょ、その人のこと」
「えっ」
ユキが濁った声を上げて、その目を大袈裟に左右に揺らす。花はそれににんまりと笑みを作って、「分かりやすい」とからかった。
「内緒な、内緒」
しー、と人差し指を唇の前に立てるユキに、花は「言わないよ」と笑う。
ユキとの間にある越えられない壁の正体に気付いてしまった。ユキの目線の先には、いつも十七年前の景色がある。そこに、ユキはずっと恋焦がれている。
好きな人は今、何をしているの?
その人とはもう再会したの?
ユキを現実に引き戻す言葉はいくらでも思いつく。
けれど花は、その全てを飲み込んで、心の中の引き出しに蓋をして仕舞った。
自分の隣にいるときくらいは『十七歳』のユキでいてほしいと、じくじくと痛む胸の中で思った。それでもいいから、ユキの隣にいたかった。
ユキが見ているこの景色があまりに残酷だと知り、この行動は彼の寂しさにつけ込むことだと分かっていても、ユキの隣で彼の柔らかな笑みを見ていたかった。彼と同じ時間が流れる、この世界で。
そうユキに誘われたのは、金曜日の昼休みだった。
梅雨の合間の貴重な晴れ間。夏の顔をした陽射しが照り付ける日だった。
放課後、学校前のバス停で待ち合わせをして、二人はバスに乗り込まずに海沿いへ続く道を歩いた。
波の音が近付いてくる。
海沿いの道から、海岸に下りられる石階段がある。花とユキはそれを下って、白い砂浜を踏んだ。
波打つ柔らかい砂の上を歩くのは一苦労だ。ローファーの中に入り込んでくる細かい砂がうざったい。
砂浜と海の間に、線を引いたように海藻や流木が落ちている。潮が満ちると、この辺りまで海が上がってくるのだろう。
その上を跨いで、波打ち際までやって来る。ひんやりと冷たい波が、靴を脱いだ花の素足を冷やした。
「小松さんと仲直りしたみたいで安心した」
ユキは波の上でぱちゃぱちゃと足を踏む。ふっと笑うユキに、花は「ごめんね」と頭を下げた。
「どうして天野さんが謝るの?」
花は口を閉じる。なんと言葉にすればいいのか分からなかった。
あんな会話を聞かせてしまったこと。
ユキが自分のせいだと思ってしまっているのではないかと、気にしていたこと。
どの気持ちも、どんな風に言葉にしても、ユキを不必要に傷つけてしまう気がした。
花は、項垂れるように俯く。足の先が、砂に埋まっている。波が引くたびに、周りの砂を少しずつ攫って行く。
「天野さん、もう絵は描かないの?」
しばらくの沈黙のあと。何も言わない花に痺れを切らしたというよりは、むしろそちらが本題というような話し出しだった。花は顔を上げて、ユキを見る。ユキはしゃがみ込んで、小さな青いシーグラスを空に翳すように覗き込んでいた。
「……絵は、辞めたの」
「どうして?」
ユキは花を見ずに問いかける。
花は、お腹の前で、自分の左手を包み込むように指を組んだ。
「……小学六年生のとき、絵画コンクールに参加したの」
花は、海に水滴を落とすように、ぽつりと吐き出した。
中学受験を控えている夏だった。勉強もちゃんと頑張るから、と両親を説得して参加したものだった。
描いた海の絵は渾身の出来だった。けれど、金賞はおろか佳作として入賞することすら出来なかった。そして、その冬の中学受験も上手くいかなかった。絵も受験も、全て自分がしたいと望んだことだったのに、そのすべてが何も残らない結果になってしまった。
「絵画教室の先生みたいになりたかったの。楽しく、キラキラと絵を描く人に。でも、鏡で見た自分の顔は違ったな」
それで辞めちゃった、と花は、自分自身に呆れ笑うように波を蹴とばす。水飛沫が太陽の光を反射しながら大きく舞った。
「絵を描くこと、嫌いになった?」
ユキがしゃがみ込んだまま、花を見上げる。その質問に、花は唇をキュっと結んで答えなかった。答えてしまったら、絵画教室を辞めたあとの今日までの日々が無駄になってしまうような気がした。
「天野さんの本当の気持ちは分かんないけど、課題やってるときの天野さん、楽しそうだったよ。だから俺、あの絵が好きなんだと思う」
ユキは、波で濡れてしまうことのないように自分の後ろに置いていた黒のトートバッグの中から、スケッチブックを取り出した。適当にめくって、そこからひとつ、何も描かれていないページを切り離すと花に差し出した。
「一緒に描こうよ、今から」
花は惑う。ユキは、花が受け取るまで紙を差し出したまま、じっと花を見つめている。花は、ぎこちなく手を伸ばした。指先に紙が触れる。
受け取った紙の表面を、花は指の腹で撫でた。ざらざらとした感触。絵の具と埃が混ざった絵画教室の香りも好きだったけれど、この紙の感触も花は大好きだった。
「俺、色鉛筆も持ってる」
ユキがスケッチブックを広げて、湿っていない砂の上に座り込む。花も同じように、ユキの隣に腰を下ろした。温かい砂の上、海で冷やされた足が温もっていく。
ユキはトートバッグの中から出した、二十四色入りの色鉛筆のケースを開ける。花はその中から水色を取った。スクールバッグの中から適当なノートを取り出して、それを下敷きにして、真っ白な紙にひとつ線を引いた。隣からはユキが色鉛筆を走らせる音が聴こえてくる。波に音に混じるその音が、とても心地良かった。
強張っていた肩の力が抜ける。目の前には、視界に収まりきらないほどの大きな海が広がっている。
穏やかな海は、キラキラと水面を反射させていた。魚を掴まえに来た海鳥が、海に刺さるように急降下して、そして一瞬のうちにまた空高く飛び立った。その嘴には、銀色に光る魚がくわえられていた。
「藍沢くんは、どうして、海の絵を描いたの?」
ユキがコンクールに出した海の絵について問う。ユキは、海とスケッチブックに交互に目をやりながら、「好きだったから」と答えた。
「あの海、ここなんだよ。灯台は取り壊されているみたいで、もうないけど」
ユキのその横顔を見る。ユキは描いていた手を止めて、溜息を吐くように肩で深く息をした。
「治療を受ける前、友達と一緒に何回も来た場所なんだ。だから、描きたかった」
ユキが花を見る。眉を下げて、彼は困ったように笑った。
「でも、怖くなっただけだった。俺には数日前のことが、本当は十七年も時間が経っていて、色褪せているほうが当たり前だってことが」
あまりにユキが悲しそうに笑うから、花は言葉を失ってしまった。「そうなんだ」と頷くことさえ憚られた。
「でも、天野さんが、あの絵を好きだって言ってくれたから、救われた」
ユキが笑う。またスケッチブックに視線を落として、色鉛筆で色をつけていく。
花は、ちらりとそれを覗いた。そこには、今、目の前に広がる海が描かれていた。
花が見ているものと同じ形の雲がぷっかりと浮かんでいる。見ているものと同じ場所に船が佇んでいる。
そこに描かれているものは、ユキが十七年前に見た海とは違う。
同じ時間、同じ場所。同じ空気を感じて、同じ時間を生きている。
それはどうしようもなく、花の心を嬉しくさせるというのに。
波が繰り返し寄せては返していくようだ。
一緒にお弁当を食べても。ユキという名前が『幸』と書くことを知っても。袖が触れ合うくらい近くに座って、笑い合っても。
……同じ海を眺めていても。
どれほどユキに近付いても、彼はすぐに遠くに行ってしまう。
ひと際大きな潮風が吹く。舞う砂埃に目を細める。
バサバサと音がして、体育座りをしていたユキの腿からスケッチブックが落ちていった。裏返されたそこには、美術室で偶然見てしまった女性の絵が描かれている。
切れ長の凛とした瞳。口元には緊張が滲む、ぎこちない笑み。そのアンバランスさが愛らしい。
「その人、藍沢くんの友達?」
スケッチブックを拾い上げて、砂を落とすユキに花は首を傾げる。
「そう、同じ美術部だった人」
柔らかな笑顔で頷くユキに、この人と海を見に行ったのだろうなと花は察した。
「好きなんでしょ、その人のこと」
「えっ」
ユキが濁った声を上げて、その目を大袈裟に左右に揺らす。花はそれににんまりと笑みを作って、「分かりやすい」とからかった。
「内緒な、内緒」
しー、と人差し指を唇の前に立てるユキに、花は「言わないよ」と笑う。
ユキとの間にある越えられない壁の正体に気付いてしまった。ユキの目線の先には、いつも十七年前の景色がある。そこに、ユキはずっと恋焦がれている。
好きな人は今、何をしているの?
その人とはもう再会したの?
ユキを現実に引き戻す言葉はいくらでも思いつく。
けれど花は、その全てを飲み込んで、心の中の引き出しに蓋をして仕舞った。
自分の隣にいるときくらいは『十七歳』のユキでいてほしいと、じくじくと痛む胸の中で思った。それでもいいから、ユキの隣にいたかった。
ユキが見ているこの景色があまりに残酷だと知り、この行動は彼の寂しさにつけ込むことだと分かっていても、ユキの隣で彼の柔らかな笑みを見ていたかった。彼と同じ時間が流れる、この世界で。


