六月もあと数日で終わる。雨の湿気と、夏へと近づく暑さが、ねっとりと半袖から伸びた腕に絡みつく。
放課後の廊下を、いつものように花は、乃愛と愛里と歩いていた。
「愛里たちのクラス、やっと席替えしたんだ」
「そう。やっとだよ、やっと」
ピンクの色付きリップを塗った愛らしい唇を愛里は歪ませる。遅すぎだと乃愛は笑った。
今日の六限目のロングホームルームの時間に、先生お手製のくじ引きで席替えが行われた。
「花は? どこの席になったの?」
乃愛が愛里を挟んで、花の顔を覗き込む。
「私は前と一緒」
「え、マジ?」
乃愛は今日も豪快に手を叩いて笑った。
「奇跡じゃん」
「そんな奇跡いらないよ」
花はわざと肩を落とす仕草をする。「せっかくなら違う場所がいいよね」と憐れむように言う愛里に、花は頷いてみせたけれど、ガッカリしている理由はそれだけじゃない。
ユキとまた席が近くなることを、花はひそかに望んでいた。けれど、そこに奇跡は起きることはなく、ユキは真反対の位置へと移動してしまった。
教室での花とユキは、美術室での交流が嘘のように会話はほとんどなかった。プリントが前から送られてくるときに、目が合ったユキが微かに微笑んでくれる程度。孤立しているユキと関わることが、前向きな方向に行けばいいが、花が話しかけることで余計に浮いてしまうことも予想できた。だからこそ、花はユキに迂闊に声をかけることができていなかった。
だからこそ、ユキが近くの席であるだけで花は嬉しかった。それが今回はこんな結果になってしまって、花は心の中では大きく落ち込んでいた。
「愛里は? 席替え、どんな?」
「聞いてよ、最悪だから」
乃愛に話を振られ、愛里は「待ってました」と言わんばかりの食いつきを見せる。乃愛もその勢いに、思わず「おお」と声を上げた。
「藍沢さんが隣の席なの! グループワークとか絶対一緒になるじゃん、最悪」
絶対話せない、と愛里が顔を顰める。乃愛が「あー」と同情するような声を上げた。
花の胸は、ずきんと痛む。
「バイト先に三十四歳の人いるんだけど、全然話し合わないもん。藍沢さんとも絶対無理」
「違う」
花の足が止まる。一歩、二歩、先を進んだ愛里と乃愛が、花を振り返った。怪訝そうな目が、花を見ている。
「藍沢くんは、違う」
息が震える。花は、ゆっくりと言葉を紡いだ。
愛里の言葉に悪意がないことも理解している。本当に彼女は、他のクラスメイトと同じようにユキの扱いに困っているだけなのだ。
でも、花はどうしてもそれ以上、言って欲しくなかった。
強く言葉にしようとすればするほど、その声は上手く吐き出せなかった。
「藍沢くんは、三十四歳じゃない。生まれたのは確かに私たちより早いかもしれない。でも、違うよ」
何日も日が経ったのに、未だユキと重なった余韻が残る手で、スカートの裾をギュッと握り込んだ。
「藍沢くんは、私たちと同じ、十七歳だよ」
その言葉は、愛里たちに言っているようで、花本人にも言い聞かせているようだった。そして、この場所にいないユキにも。
沈黙が広がっていく。
続く廊下の先。体育館へと続く渡り廊下の屋根。雨どいから水滴が落ちて、ポタポタと音を鳴らしている。
「花、なんで泣いてるの?」
愛里が困ったような笑い声とともに吐き出した。泣いてない、と花は言い返して、俯いた。上靴のビニール生地に雫が落ちて、一瞬玉を作って、すぐに流れ落ちて行った。
「あ、」と乃愛が掠れた声を上げる。
「私たち、部活行くね。花、またね。ごめんね」
乃愛にしては珍しく、その声には気まずさと焦りが滲んでいる。行こう愛里、と乃愛が愛里の腕を引っ張ったのが、花の視界の端に映って、足音とともに見えなくなった。
別の足音が、花の後ろから聴こえてくる。それは、花の近くまで来ると、静かに止まった。
「俺、やっぱり好きだな」
ユキの声だ。柔らかで、穏やかな声色で、見なくてもその口元には笑みが広がっているのだろうと花には分かった。
乃愛の反応から、きっとユキはさっきのやり取りを見ていた。それは花にも予想ができた。それでも、ユキは一切、そのことに触れるつもりはないようだった。
花は手で払うように、目元の涙を拭った。
「なにが、好きなの?」
笑顔を作って振り返れば、ユキが廊下の校内掲示板を見ていた。そこには、絵が一枚掲示してあった。その上には『今月の絵』と手書きの見出しが書かれた紙が貼ってある。
海の絵だ。それは、花が、美術の授業の課題で書いたものだった。名前は表からは見えない裏側に書いてあるだけ。どこにも、花の名前は書いていない。それでも、ユキは、それが花の絵であると確信を持っているようだった。
「天野さんが描いたこの絵、好きだよ。優しくて、でも力強くて」
ユキは、花に対して頷くようにゆっくりと瞬きをして、それから肩を竦めて、優しく微笑んだ。その姿はまるで、「気にしないで」と言っているようだった。
その日の夜、花のスマートフォンに愛里から「ごめんね」と短く綴られたメッセージが届いた。花もそれに、「私もごめんね」と短く返した。
翌日、花の下駄箱の前に愛里は立っていた。花と目が合うと、彼女はぎこちなく「おはよう」と笑った。花もいつも通りを心掛けて「おはよう」とできる限りの笑顔で返す。愛里は花から挨拶が返ってきたことに安心したのか、その表情からようやく不安の色が消えていった。
「花が、いつの間にか藍沢さんと仲良くなってるなんて知らなかった」
上履きに履き替える花に、愛里はいつもの調子を取り戻した様子でニヤニヤとしている。口元に手で衝立を作って、小声なところは、一応周囲に配慮しているつもりらしい。
「えっ、別に、私と藍沢くんは、」
「いつの間にか藍沢『くん』って呼ぶようになってるのに?」
隠し事はなしだよ、と愛里は花の肩を軽く腕で押した。
「これは昼休みに乃愛も呼んで会議だな」
と愛里はイタズラっ子のように笑う。
「会議ってなに」
花も思わず吹き出してしまった。人が賑わう朝の廊下に、花と愛里の笑い声も混ざって溶けあっていく。
放課後の廊下を、いつものように花は、乃愛と愛里と歩いていた。
「愛里たちのクラス、やっと席替えしたんだ」
「そう。やっとだよ、やっと」
ピンクの色付きリップを塗った愛らしい唇を愛里は歪ませる。遅すぎだと乃愛は笑った。
今日の六限目のロングホームルームの時間に、先生お手製のくじ引きで席替えが行われた。
「花は? どこの席になったの?」
乃愛が愛里を挟んで、花の顔を覗き込む。
「私は前と一緒」
「え、マジ?」
乃愛は今日も豪快に手を叩いて笑った。
「奇跡じゃん」
「そんな奇跡いらないよ」
花はわざと肩を落とす仕草をする。「せっかくなら違う場所がいいよね」と憐れむように言う愛里に、花は頷いてみせたけれど、ガッカリしている理由はそれだけじゃない。
ユキとまた席が近くなることを、花はひそかに望んでいた。けれど、そこに奇跡は起きることはなく、ユキは真反対の位置へと移動してしまった。
教室での花とユキは、美術室での交流が嘘のように会話はほとんどなかった。プリントが前から送られてくるときに、目が合ったユキが微かに微笑んでくれる程度。孤立しているユキと関わることが、前向きな方向に行けばいいが、花が話しかけることで余計に浮いてしまうことも予想できた。だからこそ、花はユキに迂闊に声をかけることができていなかった。
だからこそ、ユキが近くの席であるだけで花は嬉しかった。それが今回はこんな結果になってしまって、花は心の中では大きく落ち込んでいた。
「愛里は? 席替え、どんな?」
「聞いてよ、最悪だから」
乃愛に話を振られ、愛里は「待ってました」と言わんばかりの食いつきを見せる。乃愛もその勢いに、思わず「おお」と声を上げた。
「藍沢さんが隣の席なの! グループワークとか絶対一緒になるじゃん、最悪」
絶対話せない、と愛里が顔を顰める。乃愛が「あー」と同情するような声を上げた。
花の胸は、ずきんと痛む。
「バイト先に三十四歳の人いるんだけど、全然話し合わないもん。藍沢さんとも絶対無理」
「違う」
花の足が止まる。一歩、二歩、先を進んだ愛里と乃愛が、花を振り返った。怪訝そうな目が、花を見ている。
「藍沢くんは、違う」
息が震える。花は、ゆっくりと言葉を紡いだ。
愛里の言葉に悪意がないことも理解している。本当に彼女は、他のクラスメイトと同じようにユキの扱いに困っているだけなのだ。
でも、花はどうしてもそれ以上、言って欲しくなかった。
強く言葉にしようとすればするほど、その声は上手く吐き出せなかった。
「藍沢くんは、三十四歳じゃない。生まれたのは確かに私たちより早いかもしれない。でも、違うよ」
何日も日が経ったのに、未だユキと重なった余韻が残る手で、スカートの裾をギュッと握り込んだ。
「藍沢くんは、私たちと同じ、十七歳だよ」
その言葉は、愛里たちに言っているようで、花本人にも言い聞かせているようだった。そして、この場所にいないユキにも。
沈黙が広がっていく。
続く廊下の先。体育館へと続く渡り廊下の屋根。雨どいから水滴が落ちて、ポタポタと音を鳴らしている。
「花、なんで泣いてるの?」
愛里が困ったような笑い声とともに吐き出した。泣いてない、と花は言い返して、俯いた。上靴のビニール生地に雫が落ちて、一瞬玉を作って、すぐに流れ落ちて行った。
「あ、」と乃愛が掠れた声を上げる。
「私たち、部活行くね。花、またね。ごめんね」
乃愛にしては珍しく、その声には気まずさと焦りが滲んでいる。行こう愛里、と乃愛が愛里の腕を引っ張ったのが、花の視界の端に映って、足音とともに見えなくなった。
別の足音が、花の後ろから聴こえてくる。それは、花の近くまで来ると、静かに止まった。
「俺、やっぱり好きだな」
ユキの声だ。柔らかで、穏やかな声色で、見なくてもその口元には笑みが広がっているのだろうと花には分かった。
乃愛の反応から、きっとユキはさっきのやり取りを見ていた。それは花にも予想ができた。それでも、ユキは一切、そのことに触れるつもりはないようだった。
花は手で払うように、目元の涙を拭った。
「なにが、好きなの?」
笑顔を作って振り返れば、ユキが廊下の校内掲示板を見ていた。そこには、絵が一枚掲示してあった。その上には『今月の絵』と手書きの見出しが書かれた紙が貼ってある。
海の絵だ。それは、花が、美術の授業の課題で書いたものだった。名前は表からは見えない裏側に書いてあるだけ。どこにも、花の名前は書いていない。それでも、ユキは、それが花の絵であると確信を持っているようだった。
「天野さんが描いたこの絵、好きだよ。優しくて、でも力強くて」
ユキは、花に対して頷くようにゆっくりと瞬きをして、それから肩を竦めて、優しく微笑んだ。その姿はまるで、「気にしないで」と言っているようだった。
その日の夜、花のスマートフォンに愛里から「ごめんね」と短く綴られたメッセージが届いた。花もそれに、「私もごめんね」と短く返した。
翌日、花の下駄箱の前に愛里は立っていた。花と目が合うと、彼女はぎこちなく「おはよう」と笑った。花もいつも通りを心掛けて「おはよう」とできる限りの笑顔で返す。愛里は花から挨拶が返ってきたことに安心したのか、その表情からようやく不安の色が消えていった。
「花が、いつの間にか藍沢さんと仲良くなってるなんて知らなかった」
上履きに履き替える花に、愛里はいつもの調子を取り戻した様子でニヤニヤとしている。口元に手で衝立を作って、小声なところは、一応周囲に配慮しているつもりらしい。
「えっ、別に、私と藍沢くんは、」
「いつの間にか藍沢『くん』って呼ぶようになってるのに?」
隠し事はなしだよ、と愛里は花の肩を軽く腕で押した。
「これは昼休みに乃愛も呼んで会議だな」
と愛里はイタズラっ子のように笑う。
「会議ってなに」
花も思わず吹き出してしまった。人が賑わう朝の廊下に、花と愛里の笑い声も混ざって溶けあっていく。


