バスに揺られる。花とユキは、バスの後ろから二列目、二人掛けの席に座っていた。
道路の凹凸で揺れるたびに、微かに二人の肩は触れ合った。
雨上がりの町は、鮮やかな茜色に染められている。バスで隣同士座ることも、帰りのバスに一緒に乗り込むことも、二人にとって初めてのことだった。
「俺、嬉しかったんだよね」
朝と同じように、ユキは窓の外を眺めていた。
「うん?」
脈絡のない、突然切り出されたユキの気持ちに、花は首を傾げた。
「天野さんが、小松さんたちに言ってくれたこと」
「……愛里?」
「うん。『藍沢さんも、戸惑っているのかも』って、言ってくれたこと」
あ、と花は思い出す。放課後、課題の残りをやるために美術室へ向かう途中。愛里と乃愛の会話に、居たたまれなくなって言った言葉だ。「聞いてたの?」と花は恐る恐る返す。あの会話を、ユキが耳にしてしまっていたと思うと、胸が重くなった。
「ごめんね」
「どうして謝るの? 俺、嬉しかったんだ。あのとき。クラスで、みんなが俺にすげぇ気を遣ってるのは知ってたし、俺もどう距離を縮めていいのか分かんなかったし」
こんな境遇だからさ、とユキが笑う。その声は、困っているような、それとも諦めているような、乾いたものだった。ユキは窓の外を見たまま話すから、その表情は花からは見えなかった。
「その気持ちを、天野さんは分かってくれてるのかなって嬉しかった」
花は何も言えず、口を噤む。自分だって、純粋な気持ちだけでユキを見ているとは言い難く、頷くこともできなかった。
「そのあと美術室に行ったら天野さんがいて、話しかけようか迷ってた。そのとき、天野さんが描いた絵が目に飛び込んできてさ」
ユキが花を振り向く。
「俺、あの絵、すげぇ好きだった」
逆光の中でも分かる、パッと花が咲いたようなユキの笑顔に、花の息は詰まった。時間が止まるような感覚。高鳴る自分の心臓の音だけが聴こえてくるようだ。ユキとの距離が近くて、苦しい。
何か言わなきゃ、と思考がその中でも焦るのを感じる。何を言っていいのか分からないのに「あ、」と花が口を微かに開いたのと、バスのアナウンスが流れるのは同時だった。
「次は、海街医療研究センター前。海街医療研究センター前。お降りの方は……」
花を見ていたユキの目が小さく揺れる。ひくついたユキの口元が、緩やかに口角を下げていく。
「藍沢くん」
ユキの気を引くためだった。膝の上に置かれたユキの手に、花は自分の掌を重ねた。ユキの手は、もう暖かい季節だというのに、指先まで冷えている。この手を離したら、ユキが、自分の知らない過去に行ってしまう気がして、花は指に力を込めた。
「夏休み、一緒に個展、見に行かない?」
脈絡も何もないことは、花自身が良く分かっていた。ここに、ユキを繋ぎ止めておきたかった。咄嗟に思いついたものが、これだった。これしか、花には出せる手札がなかった。
ユキの指が、花の手の下でぴくりと小さく動いた。
もっと順序を追って誘うつもりだったのにと、ユキの瞳が花を映してから、小さな後悔が襲う。
ユキが小さく息をついた。こくりと唾を飲み込んだのか、ユキの喉仏が上下する。
なんて強引な誘いだったかと後悔はしても、花はその目を、いつものようにユキから逸らすことはしなかった。
「……いいよ、誰の個展?」
強張っていたものを解くように、ユキは笑って頷いた。その表情に、花も張っていた肩の力が抜けて、表情を和らげる。
「昔、通っていた絵画教室の先生。素敵な絵を描く人だよ。きっと、藍沢くんも好きだと思う」
海街医療研究センター前のバス停から、再びバスはゆっくりと動き出す。
「楽しみ」
そして、信号を左折した。太陽が差し込む向きが変わる。逆光で暗かったユキの顔を、西日が眩しく照らす。眩しい、と花とユキは同時にサッと顔を俯かせる。同じタイミングで同じ行動をしてしまったことが可笑しくて、二人でくすくすと肩を揺らした。触れ合う半袖の袖が、布擦れの音を鳴らしている。その可笑しさに気を取られて、いつまでも重なったままの手に、花もユキも気が付かなかった。
漂っていた緊張感は、いつの間にか溶けてなくなっていた。
道路の凹凸で揺れるたびに、微かに二人の肩は触れ合った。
雨上がりの町は、鮮やかな茜色に染められている。バスで隣同士座ることも、帰りのバスに一緒に乗り込むことも、二人にとって初めてのことだった。
「俺、嬉しかったんだよね」
朝と同じように、ユキは窓の外を眺めていた。
「うん?」
脈絡のない、突然切り出されたユキの気持ちに、花は首を傾げた。
「天野さんが、小松さんたちに言ってくれたこと」
「……愛里?」
「うん。『藍沢さんも、戸惑っているのかも』って、言ってくれたこと」
あ、と花は思い出す。放課後、課題の残りをやるために美術室へ向かう途中。愛里と乃愛の会話に、居たたまれなくなって言った言葉だ。「聞いてたの?」と花は恐る恐る返す。あの会話を、ユキが耳にしてしまっていたと思うと、胸が重くなった。
「ごめんね」
「どうして謝るの? 俺、嬉しかったんだ。あのとき。クラスで、みんなが俺にすげぇ気を遣ってるのは知ってたし、俺もどう距離を縮めていいのか分かんなかったし」
こんな境遇だからさ、とユキが笑う。その声は、困っているような、それとも諦めているような、乾いたものだった。ユキは窓の外を見たまま話すから、その表情は花からは見えなかった。
「その気持ちを、天野さんは分かってくれてるのかなって嬉しかった」
花は何も言えず、口を噤む。自分だって、純粋な気持ちだけでユキを見ているとは言い難く、頷くこともできなかった。
「そのあと美術室に行ったら天野さんがいて、話しかけようか迷ってた。そのとき、天野さんが描いた絵が目に飛び込んできてさ」
ユキが花を振り向く。
「俺、あの絵、すげぇ好きだった」
逆光の中でも分かる、パッと花が咲いたようなユキの笑顔に、花の息は詰まった。時間が止まるような感覚。高鳴る自分の心臓の音だけが聴こえてくるようだ。ユキとの距離が近くて、苦しい。
何か言わなきゃ、と思考がその中でも焦るのを感じる。何を言っていいのか分からないのに「あ、」と花が口を微かに開いたのと、バスのアナウンスが流れるのは同時だった。
「次は、海街医療研究センター前。海街医療研究センター前。お降りの方は……」
花を見ていたユキの目が小さく揺れる。ひくついたユキの口元が、緩やかに口角を下げていく。
「藍沢くん」
ユキの気を引くためだった。膝の上に置かれたユキの手に、花は自分の掌を重ねた。ユキの手は、もう暖かい季節だというのに、指先まで冷えている。この手を離したら、ユキが、自分の知らない過去に行ってしまう気がして、花は指に力を込めた。
「夏休み、一緒に個展、見に行かない?」
脈絡も何もないことは、花自身が良く分かっていた。ここに、ユキを繋ぎ止めておきたかった。咄嗟に思いついたものが、これだった。これしか、花には出せる手札がなかった。
ユキの指が、花の手の下でぴくりと小さく動いた。
もっと順序を追って誘うつもりだったのにと、ユキの瞳が花を映してから、小さな後悔が襲う。
ユキが小さく息をついた。こくりと唾を飲み込んだのか、ユキの喉仏が上下する。
なんて強引な誘いだったかと後悔はしても、花はその目を、いつものようにユキから逸らすことはしなかった。
「……いいよ、誰の個展?」
強張っていたものを解くように、ユキは笑って頷いた。その表情に、花も張っていた肩の力が抜けて、表情を和らげる。
「昔、通っていた絵画教室の先生。素敵な絵を描く人だよ。きっと、藍沢くんも好きだと思う」
海街医療研究センター前のバス停から、再びバスはゆっくりと動き出す。
「楽しみ」
そして、信号を左折した。太陽が差し込む向きが変わる。逆光で暗かったユキの顔を、西日が眩しく照らす。眩しい、と花とユキは同時にサッと顔を俯かせる。同じタイミングで同じ行動をしてしまったことが可笑しくて、二人でくすくすと肩を揺らした。触れ合う半袖の袖が、布擦れの音を鳴らしている。その可笑しさに気を取られて、いつまでも重なったままの手に、花もユキも気が付かなかった。
漂っていた緊張感は、いつの間にか溶けてなくなっていた。


