中間テストが終わった。そのころになると制服は衣替えの時期になり、花も合服から半袖のセーラー服を纏うようになった。
間もなく梅雨がやって来るのだろう。帰りのホームルームが終わるころ、雨粒が教室の窓をポツポツと叩いた。
予報では降らないと言っていたから、花は傘を持って来なかった。折り畳み傘も今日に限って家に忘れてきてしまっていた。
放課後、部活に行く愛里と乃愛と別れ、花は下駄箱から外の様子を窺っていた。時間が経てば止むだろうか。それともバス停まで走るべきか。
どうしようか、と悩みながら、下駄箱の中のローファーの踵に指を引っ掛けたとき、ふと一つ上の段に目がいった。
出席番号一番のシールが貼られた下駄箱には、まだ靴がある。
まだ、ユキは学校に残っている。きっと部活に行っているのだろう。ほんの少しの葛藤があって、僅差で欲が勝った。
花は脱ぎかけた上履きを履き直し、美術室へと続く道を進んだ。
放課後の美術室に来るのは、あの課題の残りをやりに来たとき以来だった。
ユキに会えるのではないか。そんな欲だけで来たけれど、いざ美術室の扉を前にすると、花は怖気づいた。
部外者が何を理由に、ユキに会いに来たと言えばいいのだろうか。
誰もが納得する理由なんて思いつかなくて、扉へと伸ばしかけた手で、肩に掛かったスクールバッグの持ち手を握り込む。
誰かに見つかる前に帰ろう。そう踵を返そうとしたときだ。
「美術室に用事?」
目の前の扉が、内側から開かれる。目を見開いた花は、肩をキュッと縮こませた。引き戸が開くとともに、ユキが現れた。
「あの、雨で、傘なくて。雨宿りしようかなって……」
「そうなんだ」
入る? と、ユキは体を少し横にズラして、花が入れるようにスペースを作ってくれる。
ここに来る理由にもなっていない理由を、ユキは特に気にする様子なく受け入れたようだった。花は拍子抜けしながらも、心の中でホッと胸を撫で下ろした。
「でも、今、部活中じゃないの?」
「雨だからみんな帰ったみたいで、今日は俺しかいなかった」
ユキは自嘲気味に言う。ユキの言う通り、美術室には誰もいなくて、伽藍としていた。
「あ、そうだ。ちょっと待っててくれる?」
手を叩いて美術準備室のほうへ短い距離であるにも関わらず小走りで駆けていくユキの背中に、花は「うん」と頷いた。
数分もしない内に、ユキは紙が張られた大きな木製パネルを持ってくる。それを一度教卓に置くと、今度は綺麗に整列している机を動かす。教室の中央が空くように机を移動させると、今度は美術室の一番後ろにあったイーゼルを一脚、空いた場所に立てかけた。
それからそのイーゼルに、教卓の上に置いていた木製パネルを丁寧に置く。
「よし……」
ユキは静かにそう言うと、そっと手を離した。手を離した先には、コンクール用にユキが描いていた海の絵があった。
白波は、前見せてもらったときよりもさらに細部まで描かれ、空も海もその色に一層の深みが増している。
「完成したから、天野さんに一番に見てもらいたかったんだ」
ユキは照れくさそうに小首を傾げて笑う。
「近くで見てもいい?」
「どうぞ」
息を吹きかけただけで壊れてしまいそうなものに近付くように、花はユキが描いた海の絵の前にそっと立った。
水彩絵の具の滲みが、美しく混ざり合っている。
花は、いっぱいになった胸を和らげるように息を、ほぅ、と吐きだした。「やっぱり、好きだな」
ぽつり、零すように花は言った。初めてこの絵を見たときの、ユキとの間にある縮められない時間への寂しさが塗り替えられたわけではない。しかし、この海を見てきたユキの時間と、花が生きてきた十七年間は、この絵の具のように混ざり合うことは決して出来なくても、花の心を強く揺さぶった。初めて、絵画教室に行ったとき、豊乃の油絵を見たときの衝撃と感動に似ていると、花が吐く息は微かに震えた。
ふと、絵の右下隅に目が行く。碧色の中に、同系色の色で小さく何かが書かれているのが分かった。花は目を凝らす。そこには『幸』と書かれていた。
「サチ……? しあわせ……?」
どういう意味? と、花は首を傾げた。なんのことを言っているのだろう、とユキも同じように首を傾げて、花と同じように絵に目を凝らす。それから、すぐに合点がいったように「ああ」と声を上げた。
「それ、俺の名前」
「でも、なんで、幸せの幸の字?」
「俺の名前、『幸』って書いて、『ユキ』って読むんだよ」
嘘、と言って勢いよくユキを振り向く花に、ユキは豪快な笑い声を上げた。
「こんなことで嘘つかないよ」
「私、てっきり……」
「天気の『雪』だと思ってた?」
気まずそうに頷く花に、ユキは「よく言われる」と言いながら、黒板前の教卓に向かった。それから、そこに『藍沢幸』と名前を白いチョークで書いて、花を振り返る。ユキは教卓に頬杖をついて、そのまま目を細めた。ジトッとした不満そうな目だ。
「いやー、非常に残念ですねぇ」
「ごめんなさい」
「俺は、天野さんの名前、ちゃんと知ってるのになぁ」
そうして今度は、ユキの名前の隣に、『天野花』と白いチョークで書いた。合ってるでしょ、と、次は、自信ありといった様子で目を細める。ふふん、と鼻が鳴っていそうな笑みだ。
少し丸みを帯びる癖はあるものの、丁寧に書かれた花の名前。たったそれだけのことが、花の指先まで熱く痺れさせた。
「……雨、まだ降ってるね」
ユキから目も話も逸らすように、花は窓の外へ顔を向けた。このままユキを見ていたら、色々なものが溢れてしまいそうだった。
今すぐに逃げ出したい衝動と、いつまでもここにいたい気持ちが混ざり合っている。
ただ、もう少しだけこの雨が降り続けばいいなと、明るい西の空に気付き、願っていた。ここに留まる言い訳を、まだ失いたくなかった。
間もなく梅雨がやって来るのだろう。帰りのホームルームが終わるころ、雨粒が教室の窓をポツポツと叩いた。
予報では降らないと言っていたから、花は傘を持って来なかった。折り畳み傘も今日に限って家に忘れてきてしまっていた。
放課後、部活に行く愛里と乃愛と別れ、花は下駄箱から外の様子を窺っていた。時間が経てば止むだろうか。それともバス停まで走るべきか。
どうしようか、と悩みながら、下駄箱の中のローファーの踵に指を引っ掛けたとき、ふと一つ上の段に目がいった。
出席番号一番のシールが貼られた下駄箱には、まだ靴がある。
まだ、ユキは学校に残っている。きっと部活に行っているのだろう。ほんの少しの葛藤があって、僅差で欲が勝った。
花は脱ぎかけた上履きを履き直し、美術室へと続く道を進んだ。
放課後の美術室に来るのは、あの課題の残りをやりに来たとき以来だった。
ユキに会えるのではないか。そんな欲だけで来たけれど、いざ美術室の扉を前にすると、花は怖気づいた。
部外者が何を理由に、ユキに会いに来たと言えばいいのだろうか。
誰もが納得する理由なんて思いつかなくて、扉へと伸ばしかけた手で、肩に掛かったスクールバッグの持ち手を握り込む。
誰かに見つかる前に帰ろう。そう踵を返そうとしたときだ。
「美術室に用事?」
目の前の扉が、内側から開かれる。目を見開いた花は、肩をキュッと縮こませた。引き戸が開くとともに、ユキが現れた。
「あの、雨で、傘なくて。雨宿りしようかなって……」
「そうなんだ」
入る? と、ユキは体を少し横にズラして、花が入れるようにスペースを作ってくれる。
ここに来る理由にもなっていない理由を、ユキは特に気にする様子なく受け入れたようだった。花は拍子抜けしながらも、心の中でホッと胸を撫で下ろした。
「でも、今、部活中じゃないの?」
「雨だからみんな帰ったみたいで、今日は俺しかいなかった」
ユキは自嘲気味に言う。ユキの言う通り、美術室には誰もいなくて、伽藍としていた。
「あ、そうだ。ちょっと待っててくれる?」
手を叩いて美術準備室のほうへ短い距離であるにも関わらず小走りで駆けていくユキの背中に、花は「うん」と頷いた。
数分もしない内に、ユキは紙が張られた大きな木製パネルを持ってくる。それを一度教卓に置くと、今度は綺麗に整列している机を動かす。教室の中央が空くように机を移動させると、今度は美術室の一番後ろにあったイーゼルを一脚、空いた場所に立てかけた。
それからそのイーゼルに、教卓の上に置いていた木製パネルを丁寧に置く。
「よし……」
ユキは静かにそう言うと、そっと手を離した。手を離した先には、コンクール用にユキが描いていた海の絵があった。
白波は、前見せてもらったときよりもさらに細部まで描かれ、空も海もその色に一層の深みが増している。
「完成したから、天野さんに一番に見てもらいたかったんだ」
ユキは照れくさそうに小首を傾げて笑う。
「近くで見てもいい?」
「どうぞ」
息を吹きかけただけで壊れてしまいそうなものに近付くように、花はユキが描いた海の絵の前にそっと立った。
水彩絵の具の滲みが、美しく混ざり合っている。
花は、いっぱいになった胸を和らげるように息を、ほぅ、と吐きだした。「やっぱり、好きだな」
ぽつり、零すように花は言った。初めてこの絵を見たときの、ユキとの間にある縮められない時間への寂しさが塗り替えられたわけではない。しかし、この海を見てきたユキの時間と、花が生きてきた十七年間は、この絵の具のように混ざり合うことは決して出来なくても、花の心を強く揺さぶった。初めて、絵画教室に行ったとき、豊乃の油絵を見たときの衝撃と感動に似ていると、花が吐く息は微かに震えた。
ふと、絵の右下隅に目が行く。碧色の中に、同系色の色で小さく何かが書かれているのが分かった。花は目を凝らす。そこには『幸』と書かれていた。
「サチ……? しあわせ……?」
どういう意味? と、花は首を傾げた。なんのことを言っているのだろう、とユキも同じように首を傾げて、花と同じように絵に目を凝らす。それから、すぐに合点がいったように「ああ」と声を上げた。
「それ、俺の名前」
「でも、なんで、幸せの幸の字?」
「俺の名前、『幸』って書いて、『ユキ』って読むんだよ」
嘘、と言って勢いよくユキを振り向く花に、ユキは豪快な笑い声を上げた。
「こんなことで嘘つかないよ」
「私、てっきり……」
「天気の『雪』だと思ってた?」
気まずそうに頷く花に、ユキは「よく言われる」と言いながら、黒板前の教卓に向かった。それから、そこに『藍沢幸』と名前を白いチョークで書いて、花を振り返る。ユキは教卓に頬杖をついて、そのまま目を細めた。ジトッとした不満そうな目だ。
「いやー、非常に残念ですねぇ」
「ごめんなさい」
「俺は、天野さんの名前、ちゃんと知ってるのになぁ」
そうして今度は、ユキの名前の隣に、『天野花』と白いチョークで書いた。合ってるでしょ、と、次は、自信ありといった様子で目を細める。ふふん、と鼻が鳴っていそうな笑みだ。
少し丸みを帯びる癖はあるものの、丁寧に書かれた花の名前。たったそれだけのことが、花の指先まで熱く痺れさせた。
「……雨、まだ降ってるね」
ユキから目も話も逸らすように、花は窓の外へ顔を向けた。このままユキを見ていたら、色々なものが溢れてしまいそうだった。
今すぐに逃げ出したい衝動と、いつまでもここにいたい気持ちが混ざり合っている。
ただ、もう少しだけこの雨が降り続けばいいなと、明るい西の空に気付き、願っていた。ここに留まる言い訳を、まだ失いたくなかった。


