同じ海を見ている

 結局、花の食欲は戻らず、お弁当は三分の一ほど残してしまった。帰ったらお母さんに何か言われるかもしれない。食欲がなかったと言えば心配をかけてしまうだろうから、今のうちに適当な言い訳を考えておこうと、帰りのバスの中で思考を巡らせる。
 どうしてこんなに落ち込んでしまっているのか。いまいちコントロールの効かない心に溜息を吐きながら、自宅最寄りのバス停で花は降車した。
 住宅が並ぶ町並みは、濃いオレンジに染められている。バス停から家までは十分もない。

「花ちゃん?」

 少し低めな女性の声が、後ろから花の耳に届いた。足元を見て歩いていた花が振り返れば、西日が眩しいのか手で庇を作っている女性が、「やっぱり」と声を弾ませた。

豊乃(とよの)さん」
「久しぶり、元気にしてた?」

 二人は互いに駆け寄り合って、手を取り合う。豊乃の、ネイビーカラーのロングワンピースの裾がふわりとひらめいた。

「学校の帰り?」
「そうです」

 花は頷き返す。

「お疲れ。私も打ち合わせが終わって、帰るところなの。あ、花ちゃん、今から時間ある? ちょっとだけうちに寄って行かない?」
「いいんですか?」
「もちろん」

 すぐそこだし、と豊乃は笑って、握ったままの花の手を引いた。豊乃が言う通り、彼女の家は目と鼻の先で、豊乃は、草花が装飾されたロートアイアンの門扉を開けて、花を招き入れた。
 住宅地の中でも豊乃の家は、特別上品で高級感がある。門扉と同じ、重厚感を感じるブラックの玄関扉から中に入った。「ただいま」と家の中に声をかける豊乃に続いて、花も「お邪魔します」と挨拶をした。

「まぁ今、誰もいないんだけどね」
「そうなんですか?」
「うん。誰もいなくても、癖で言っちゃうのよね」

 自嘲気味に笑いながら、豊乃は、「どうぞ」と上がり框に来客用のスリッパを揃えて置く。お礼を言って、花は足を通す。普段、家ではスリッパを履かない花は、その丁寧さになんだか足の先がむずむずとした。

「お茶を淹れるから、アトリエのほうで待ってて」
「はい」

 豊乃に言われた通り、花はアトリエのほうへと向かう。その道のりは、花にとってとても懐かしいものだった。
 『美郷(みさと)絵画教室』と書かれた、絵の具のパレットを象った木製のプレートが白いドアに掛けられている。花はその扉のドアノブを回して、部屋の中へと一歩、足を踏み入れた。
 絵の具と、埃が少し混ざった香り。花は、それを肺いっぱいに取り込むように、息を大きく吸い込んだ。白いレースのカーテンの隙間から、西日が差し込んで、キラキラと埃が舞っているのが見える。
 並べられた椅子の前には、イーゼルが立っている。
 美郷絵画教室は、花が昔、父親に連れてきてもらった絵画教室だった。花が通い出したころは、豊乃の祖父が学長を務めていた。当時、豊乃は芸術大学に通う学生で、臨時講師として時々いる先生だった。
 小学六年生の冬、花はこの絵画教室を辞めた。それから豊乃に会うことは、家が近所であるにも関わらずほとんどなかった。風の噂で、豊乃が祖父の跡を継いで学長をやっていることは知っていた。

「何年ぶり?」
「四年か五年ぶり、くらいです」

 懐かしい、と花は、ティーカップを載せたトレイを持ってきた豊乃に応えた。

「もうそんなに経つんだね」
「……はい」

 俯くように目を逸らした花に、豊乃は優しい笑みを崩さなかった。適当に座って、と花に言うと、教室の隅に寄せてあった机を持ってくる。花は一番近くにあったイーゼルの前の椅子に座ると、豊乃はその近くに机を置いた。その上に、ティーカップと丸皿に乗ったクッキーを並べる。星形の口金で絞られたクッキーの真ん中には、いちごジャムが宝石のようにツヤツヤと輝いていた。
 白磁のティーカップには、ターコイズブルーの太いボーダーラインが入っている。それはソーサーのほうにも同じように施されていて、花はサーカスのテントのようだとぼんやり考えていた。ティーカップの中には、透き通った琥珀色が揺らめいている。スッキリとした苦い香りに、花は「良い香り」と呟いた。ホッと心が解けていくようだ。

「花ちゃん、なんだか雰囲気変わったね」
「え?」

 花が首を傾げて豊乃を見る。豊乃は紅茶を一口啜った。

「恋人でも出来た?」
「え!?」と、今度は大きな声で言った花の手元から、お皿から取ったばかりのクッキーが落ちる。ごめんなさい、と慌てながら拾う花を、豊乃は微笑ましく眺めていた。

「違った?」

 花は落ちたクッキーを、机の隅に広げたティッシュの上に置いた。もぞもぞとお尻の位置を正すように、花は座り直す。

「違う……というか」

 豊乃からの質問に、花の頭の中に浮かんだのはユキの顔だった。

「まだ好きかどうかも、分からないっていうか……」
「気になる人がいるんだ」

 一番楽しい時期だね、と豊乃はニマニマと口元を緩ませる。渦中にいる花にとってそれは、いまいちピンと来ない表現だった。ただ、「気になる人」という言葉は、花にとってユキを表現するにはピッタリの言葉だと思った。「同級生? それとも、先輩?」


「……たぶん、同級生」
「たぶん? 同じ学校の人じゃないの?」
「いえ、同じ学校の人です。同じクラス」

 豊乃は花の返答にパチパチと瞳を瞬かせる。それから、クッキーを一口で頬張ると、「複雑なのねぇ」と興味深そうに相槌を打った。
 ユキがコールドスリープ治療を受けていた人というのは、軽々しく言えるものではないような気がして、花は、ユキの素性について曖昧に笑って頷くだけに留めた。

「最近、仲良くなったんです。でも、どうしても越えられない壁があるっていうか、私には踏み込めない場所があるような気がしてて……」

 何言ってるんだろう、と花は苦く笑った。こんなことを豊乃に話しても、困らせてしまうだけだ。久しぶりに再会した人に話す内容でもない。ただ、今日、ユキと話して感じた寂しさが溢れ出してしまった。花は、これ以上余計なことを話さないようにと唇を引き結ぶ。

「距離が縮められなくて、もどかしいんだ」

 豊乃は、花に共感するように静かにそう言った。目を伏せたその表情は、慈悲深く美しい。

「そうだ」

 豊乃は良いことを思いついたように手を叩くと、席を立つ。アトリエの角に置かれたチェストボックスを開けると、そこから何かを持って戻って来た。
 そしてそれを花へと差し出す。

「私、今度、個展を開くの。その子と一緒に、どうかな」

 『美郷豊乃 個展』と大きく書かれたリーフレットと、その間に二枚チケットが挟まっている。そこには、豊乃の代表作である油絵の作品がデザインとして施されていた。

「開催は七月の終わりだから、まだもうちょっと先なんだけど。その子と夏休みにも会えるチャンスとして利用してよ」

 夏休みは理由がないと会えないでしょ、と豊乃は切れ長の瞳を細めて、イタズラっぽく笑う。

「ありがとうございます。その人、美術部だから、きっと喜ぶ」

 花の顔に、ようやく柔らかい笑みが広がった。豊乃は安心したように頷いた。

「そう、美術部の人なのね」

 花ちゃん、と豊乃が続けて口を開こうとしたときだ。アトリエの扉が開く。花と豊乃が振り返れば、ひとりの男性がこちらを見ていた。

「ごめん、来客中だった?」

 その人は申し訳なさそうに眉を下げて豊乃に言う。豊乃はそれに対して、「大丈夫よ」と優しく答えて、その男性を招き入れた。花は、初めて見る人だった。

「いい機会だし、花ちゃんに紹介するわね」

 豊乃が椅子から立ち上がる。男性は、豊乃さんの隣に立つと、背筋を伸ばした。そして、花に柔らかく微笑む。

風見清吾(かざみせいご)さん。私の、婚約者」

 そう長い指を添えて、紹介するように手を彼のほうに差し出す豊乃は、頬を薄っすらと赤く染めて、照れたように口角を上げた。絹のように柔らかな、豊乃の肩口で切りそろえられた髪が、彼女が肩を竦めると静かに揺れた。
 花にとって、豊乃は憧れの人だった。恋をするように絵を描く人で、花や同じころに教室に通っている生徒たち全てに優しかった記憶がある。凛とした瞳は強く、真っ直ぐで、たまに今日のように照れた笑みを浮かべる姿が好きだった。
 幼いころの花にとって、当時の豊乃はとても大人な存在だった。現在、三十代半ばを迎えているであろう豊乃が、そのころよりもさらに大人な雰囲気を纏っているように花には見えた。好きな人が『いる』、『いない』を越えて、豊乃は『結婚』というものを意識する年齢なのだと、花は小さなショックを受けた。

「おめでとうございます」

 ひとり、溢れんばかりの拍手を花は豊乃と清吾に贈る。二人は顔を見合わせて、嬉しそうに微笑んだ。幸せが、確かに二人を包んでいるようだった。 豊乃のような人に、花はなりたかったのだと、ふと思い出した。
 けれど、それは、絵を辞めたころに、そのことも諦めてしまったのだったと、同じように思い出していた。