その日以降、花とユキは、朝、バスの車内で目が合えば、互いに手を振り合うようになった。
それから週に一回か二回、いつも花と昼食を食べている愛里が、部活のミーティングで昼休みに部室に行ってしまう日は、花も美術室を訪れて、ユキとともに昼休みの時間を過ごしていた。
いつもと同じ、美術室の窓際の席。教室の机よりも少しだけサイズの大きい机に二人は向かい合って座って、お弁当を広げる。
今日は、来週に迫った中間テストの話題を花からユキに振った。
「美術部って、テスト期間中も活動あるの?」
いつもお弁当に入っている黄色い卵焼きを頬張っていたユキは、それをしっかりと飲み込んでから「いや、」と小さく首を横に振った。
「いつもと同じ感じかな。来たい人は来てもいいし、そうじゃない人は帰ってもいいし」
「そうなんだ」
「俺はコンクールが近いし、普通に行くつもり」
「勉強は平気?」
「平気かどうかって聞かれると……」
気まずそうに言葉を濁すユキに、花は「平気じゃないの?」と笑った
「天野さんは? 真っ直ぐ家に帰る感じ?」
自分からの話題を逸らすように、ユキは質問し返す。ミートボールを口に入れようとしていた花は、それを口の前で止めて、「うーん」とゆっくり頷いた。
「塾の、自習室に行く、かな」
「塾行ってるんだ」
「うん」
何でもないように頷いたけれど、口元が少し引きつっていたかもしれない。花の胃は、少しだけチクチクと痛んだ。食べようとしていたミートボールを一度、お弁当箱のおかずカップの中に戻す。
「藍沢くんの絵、見たいな。コンクールに出すやつ」
今度は、花が話題を変えるようにユキに言った。
「見ても何も面白くないと思うけど」
話題が急に変えられたことを、ユキは特別、気にしている様子はなかった。
「面白いかどうかは私が決める」
「じゃあ、何かアドバイスしてよ」
せっかくコンクールに出すやつだし、とユキは立ち上がった。うん、と花は、美術準備室のほうへ向かうユキに頷いて見せた。
「言っとくけど、すげぇ途中描きだから」
美術準備室に入ったと思ったら、ユキはそう言いながら一度、扉から顔を覗かせる。「いいよ」と花は返事をした。「それならいいけど」とユキは顔を引っ込めた。数秒もしない内に、今度は「本当に見るの?」と、ユキの姿は見えないけれど大きめな声が準備室から響いてくる。花は、机に頬杖をついて「見るよ」と笑って返した。
開け放った窓から吹く初夏の青い風が、花の赤色のスカーフと髪を揺らす。もう半袖でも過ごせそうな気温。風の冷たさが心地良い。胃の痛みも紛れる気がすると、目を伏せたときだ。足元で何かが倒れる軽い音がした。花は机の下を覗き込む。ユキのものだろうか。黒いトートバッグが倒れていて、中身が飛び出している。
拾っておいてあげようと席を立ち、花は飛び出した中身を拾い上げる。画材が入っていたようだ。絵筆が入ったケースや水彩絵の具が入った箱は、日に焼けて色あせている。
それから、F4サイズのスケッチブックが半分ほどトートバッグから顔を覗かせていた。開いたページで折り畳み入れていたようだ。凛とした瞳と目が合った。花は導かれるように、それをバッグの中から丁寧に取り出した。
鉛筆で描かれた女性の絵。モノクロ写真のような絵は、息を飲むほど上手く、美しい。
スケッチブックの中の女性の、長く黒い艶やかな髪が、セーラー服の襟元を流れている。凛とした切れ長瞳とは対照的に、ぎこちなく愛らしい笑みを浮かべた唇が、繊細に描かれていた。
ユキが描いたものだろうか。襟元の校章バッジは、花が身に着けているものと同じだ。このスケッチブックのページも、他の画材と同様に、真新しい白ではなく、ほんの少しセピア色に変色していた。
「お待たせ」
ユキが大きな木製パネルにはめ込められた作品を持って戻って来た。花は慌ててトートバッグの中にスケッチブックを仕舞う。机の横に座り込む花をユキが不思議そうに見るから、花は「風で倒れたみたい」とバッグを掲げて説明した。中のことについては何も触れなかった。
「作品、見せて」
花は自分が座っていた席に戻り、お弁当箱を端へと避ける。ユキも同じように自分のお弁当箱を避けると、作品を花に見えるように置いた。
「どう?」
緊張しているのか、ユキは花の顔色を窺うように尋ねる。
「綺麗」
水彩絵の具で描かれた、白波が立つ海。水平線へ向かうほど、濃くなるブルー。遠くのほうに、真っ白な灯台が立っている。雲は太陽の光と海の青を反射して、真っ白なだけじゃない。オレンジや青が入り混じっている。
海の雄大さ、空の広さ、雲の柔らかさ。全てがバランスよく調和された絵に、花の心は震えた。
ユキは「まだ途中描き」だと言っていたけれど、花からしたら、もう充分に完成作品のように見える。
「アドバイスは?」
「アドバイスなんてないよ。私、この絵、すごく好きだな」
「そう?」
疑うような瞳で花を見ながら、ユキはようやく椅子に腰を下ろす。花はもう一度、「私は好き」と言い切った。
「藍沢くんは? あんまり気に入ってないの?」
「……そういうわけじゃ、ないけど」
淀むような言い方をするユキに、花は首を傾げた。ユキは「うーん」と小さく唸って、視線を泳がせる。それから花を見て、
「今の俺が見た海じゃないからさ」
と、へらりと笑った。
花はすぐにその言葉の意味を理解できなかった。
「俺にとっては、最近見た海なんだけど」
そうユキが続けて、ようやく、この画用紙に描かれた海が十七年前の海なのだと、花は理解できた。どう答えるのが正解なのだろう。花はただ、「そうなんだ」と当たり前のことのように頷くことしかできなかった。
ただ黙ったまま、その絵に視線を落とした。
花には、この海が十七年前の海だとは分からなかった。言われても、分からない。花にとっては何も変わらない海だけれど、ユキにとっては決定的に違う『何か』がきっとあるのだろう。だから「気に入っている」とユキは頷かず、曖昧に言葉を逃がしたのだろう。
花の心に薄っすらと靄が広がっていく。ユキが描いた海に心がときめくのと同時に、ユキが描いた中にある『何か』は、花にとって永遠に越えられない壁のように思えた。
ユキが見たこの海を、花は、何があっても見ることができないことに、拗ねてしまっているのかもしれない。
それから週に一回か二回、いつも花と昼食を食べている愛里が、部活のミーティングで昼休みに部室に行ってしまう日は、花も美術室を訪れて、ユキとともに昼休みの時間を過ごしていた。
いつもと同じ、美術室の窓際の席。教室の机よりも少しだけサイズの大きい机に二人は向かい合って座って、お弁当を広げる。
今日は、来週に迫った中間テストの話題を花からユキに振った。
「美術部って、テスト期間中も活動あるの?」
いつもお弁当に入っている黄色い卵焼きを頬張っていたユキは、それをしっかりと飲み込んでから「いや、」と小さく首を横に振った。
「いつもと同じ感じかな。来たい人は来てもいいし、そうじゃない人は帰ってもいいし」
「そうなんだ」
「俺はコンクールが近いし、普通に行くつもり」
「勉強は平気?」
「平気かどうかって聞かれると……」
気まずそうに言葉を濁すユキに、花は「平気じゃないの?」と笑った
「天野さんは? 真っ直ぐ家に帰る感じ?」
自分からの話題を逸らすように、ユキは質問し返す。ミートボールを口に入れようとしていた花は、それを口の前で止めて、「うーん」とゆっくり頷いた。
「塾の、自習室に行く、かな」
「塾行ってるんだ」
「うん」
何でもないように頷いたけれど、口元が少し引きつっていたかもしれない。花の胃は、少しだけチクチクと痛んだ。食べようとしていたミートボールを一度、お弁当箱のおかずカップの中に戻す。
「藍沢くんの絵、見たいな。コンクールに出すやつ」
今度は、花が話題を変えるようにユキに言った。
「見ても何も面白くないと思うけど」
話題が急に変えられたことを、ユキは特別、気にしている様子はなかった。
「面白いかどうかは私が決める」
「じゃあ、何かアドバイスしてよ」
せっかくコンクールに出すやつだし、とユキは立ち上がった。うん、と花は、美術準備室のほうへ向かうユキに頷いて見せた。
「言っとくけど、すげぇ途中描きだから」
美術準備室に入ったと思ったら、ユキはそう言いながら一度、扉から顔を覗かせる。「いいよ」と花は返事をした。「それならいいけど」とユキは顔を引っ込めた。数秒もしない内に、今度は「本当に見るの?」と、ユキの姿は見えないけれど大きめな声が準備室から響いてくる。花は、机に頬杖をついて「見るよ」と笑って返した。
開け放った窓から吹く初夏の青い風が、花の赤色のスカーフと髪を揺らす。もう半袖でも過ごせそうな気温。風の冷たさが心地良い。胃の痛みも紛れる気がすると、目を伏せたときだ。足元で何かが倒れる軽い音がした。花は机の下を覗き込む。ユキのものだろうか。黒いトートバッグが倒れていて、中身が飛び出している。
拾っておいてあげようと席を立ち、花は飛び出した中身を拾い上げる。画材が入っていたようだ。絵筆が入ったケースや水彩絵の具が入った箱は、日に焼けて色あせている。
それから、F4サイズのスケッチブックが半分ほどトートバッグから顔を覗かせていた。開いたページで折り畳み入れていたようだ。凛とした瞳と目が合った。花は導かれるように、それをバッグの中から丁寧に取り出した。
鉛筆で描かれた女性の絵。モノクロ写真のような絵は、息を飲むほど上手く、美しい。
スケッチブックの中の女性の、長く黒い艶やかな髪が、セーラー服の襟元を流れている。凛とした切れ長瞳とは対照的に、ぎこちなく愛らしい笑みを浮かべた唇が、繊細に描かれていた。
ユキが描いたものだろうか。襟元の校章バッジは、花が身に着けているものと同じだ。このスケッチブックのページも、他の画材と同様に、真新しい白ではなく、ほんの少しセピア色に変色していた。
「お待たせ」
ユキが大きな木製パネルにはめ込められた作品を持って戻って来た。花は慌ててトートバッグの中にスケッチブックを仕舞う。机の横に座り込む花をユキが不思議そうに見るから、花は「風で倒れたみたい」とバッグを掲げて説明した。中のことについては何も触れなかった。
「作品、見せて」
花は自分が座っていた席に戻り、お弁当箱を端へと避ける。ユキも同じように自分のお弁当箱を避けると、作品を花に見えるように置いた。
「どう?」
緊張しているのか、ユキは花の顔色を窺うように尋ねる。
「綺麗」
水彩絵の具で描かれた、白波が立つ海。水平線へ向かうほど、濃くなるブルー。遠くのほうに、真っ白な灯台が立っている。雲は太陽の光と海の青を反射して、真っ白なだけじゃない。オレンジや青が入り混じっている。
海の雄大さ、空の広さ、雲の柔らかさ。全てがバランスよく調和された絵に、花の心は震えた。
ユキは「まだ途中描き」だと言っていたけれど、花からしたら、もう充分に完成作品のように見える。
「アドバイスは?」
「アドバイスなんてないよ。私、この絵、すごく好きだな」
「そう?」
疑うような瞳で花を見ながら、ユキはようやく椅子に腰を下ろす。花はもう一度、「私は好き」と言い切った。
「藍沢くんは? あんまり気に入ってないの?」
「……そういうわけじゃ、ないけど」
淀むような言い方をするユキに、花は首を傾げた。ユキは「うーん」と小さく唸って、視線を泳がせる。それから花を見て、
「今の俺が見た海じゃないからさ」
と、へらりと笑った。
花はすぐにその言葉の意味を理解できなかった。
「俺にとっては、最近見た海なんだけど」
そうユキが続けて、ようやく、この画用紙に描かれた海が十七年前の海なのだと、花は理解できた。どう答えるのが正解なのだろう。花はただ、「そうなんだ」と当たり前のことのように頷くことしかできなかった。
ただ黙ったまま、その絵に視線を落とした。
花には、この海が十七年前の海だとは分からなかった。言われても、分からない。花にとっては何も変わらない海だけれど、ユキにとっては決定的に違う『何か』がきっとあるのだろう。だから「気に入っている」とユキは頷かず、曖昧に言葉を逃がしたのだろう。
花の心に薄っすらと靄が広がっていく。ユキが描いた海に心がときめくのと同時に、ユキが描いた中にある『何か』は、花にとって永遠に越えられない壁のように思えた。
ユキが見たこの海を、花は、何があっても見ることができないことに、拗ねてしまっているのかもしれない。


