次の日の朝。いつも通り、同じ時間のバスに花は乗り込んだ。
そして、いつもと同じように後ろのほうの席に座るユキを見つける。
混雑する車内。人の間を縫うように、花はユキを見た。
ユキはまた今日も、窓の外を流れる景色を退屈そうに眺めていた。
海街医療研究センター前のバス停で停まる。今日も、コールドスリープ治療の宣伝が流れていた。窓の外を見ていたユキは、そっと目を閉じた。花は、そんな些細な仕草が胸に引っかかった。まるでユキが、その場所から目を逸らしているように見えたからかもしれない。
明るい未来を連想させる宣伝と、今のユキの姿は、正反対の位置にあるもののように花には思えた。
「次は、第一東高校前。第一東高校前」
学校最寄りの停留所のアナウンスが流れる。いつもの花ならここでユキから視線を外すのだけれど、今日の花はそのまま彼を見続けていた。
ユキの目が前を向く。その先に花がいることに気付くと、ユキは「あ」と僅かに目を丸くさせてから、小さく花に手を振った。
肩にかけたスクールバッグの、その持ち手を握る花の手に力が入る。自分だろうか、と花は左右を見て、それから自分以外に対象の相手はいなさそうだと判断して、ぎこちなく頭を下げた。ユキはそんな花を見て、可笑しそうに肩を揺らして笑った。
そのユキの笑顔に、上がりそうになる口角を、唇を噛んで花は隠す。
今日はどこかで期待していた。いつもは目が合わないようにと気を付けているけれど、今日は目が合ったら良いなって思っていた。
――ユキの様子が気になっていたせいで、目を逸らすタイミングを失ってしまった。
そう、心の中で自分自身に言い訳をしながら。
昼休み。昨日の内になんとか完成させた美術の課題に、花は名前を書くのを忘れていたことを思い出した。食べかけのお弁当を片付けて、一緒に昼食を食べていた愛里に事情を説明する。「一緒に行こうか」と言ってくれた愛里に「大丈夫」と返して、花は美術室へと急いだ。
美術室の扉に手をかけて、「あ、鍵」と花は溜息とともに呟いた。美術室や技術室、化学室は授業や部活以外の時間は鍵がかかっていることが多い。美術の先生に借りに行かなければ、と、ここまで来ないと気付かなかった自分に憤りを感じながら、引き帰ろうとしたときだ。試しに、と横にスライドさせた扉は、いとも簡単に開いた。すでに鍵は開いていたのだ。
そっと中の様子を覗き見る。
窓際の席。開けた窓から入る風に、髪を靡かせる男子生徒がひとり。
陽を浴びて茶色く見える髪は、それだけでその髪の柔らかさを感じさせる。
その後ろ姿を、花は見間違えるはずなかった。毎日、それこそ、ひとつ前の時間にも見ていた後ろ姿だ。
「藍沢さん」
そっとその名前を口にする。
小さな花の声が届いたのだろう。ぴくりと肩が動いて、驚いたような顔をしてその人は花を振り返った。
「こんにちは」
今朝のバスの中と同じように、花はぎこちなく頭を下げる。
「どうしたの?」
ユキはお弁当を食べていたようで、お弁当箱と箸を手に持っていた。
「昨日の課題に、名前、書き忘れちゃってて」
「ああ、そうだったんだ」
美術室の奥にある扉からしか入れない準備室に入って、乾燥棚から自分が書いた課題を持って、何となくユキの前の席に絵を置いた。
そこで花は、筆記用具を教室から持ってくるのを忘れていたことに気付いた。セーラー服の胸ポケットやスカートのポケットを、叩くようにして何かないか探る。先生がいつも立つ教卓には何かあるだろうかと、黒板のほうを見やる。
「ボールペンで良い?」
花の様子から察したのだろう。ユキは自分のスクールバッグからペンケースを取り出すと、それを花に手渡した。
「あ、ありがとう、ございます」
シンプルな黒のボールペンを受け取って、花は画用紙の裏に『天野花』と自分の名前を小さく書き記す。
「天野さんって、朝は、いつもあのバスなの?」
ちょうど名前を書き終わったタイミングで話しかけられた花は、慌てて「はい」と頷いた。その声は、少しだけ上擦った。
「俺もいつもあのバスなんだ。あ、もしかして、天野さんは知ってた?」
「いや、いえ、私も今日の朝、初めて藍沢さんと一緒だって知りました!」
花は、嘘をついた。本当はずっと前から知っていたけれど、そうだとは言えなかった。もし理由を聞かれたときに、どう答えていいのか、花には分からなかった。何をどう繕っても、その奥に『十七歳年上の同い年の彼』に対する『興味心』が滲むような気がした。花はそれを、ユキには絶対に知られたくなかった。
花の嘘にユキは気付くことはなく、「びっくりだよね」と言いながら、ペンケースの中に返って来たボールペンを入れた。
「お昼、いつもここで食べているんですか?」
ペンケースのジッパーを閉める音が響く。ユキは「あー」と言葉を濁して、それから「うん」と眉を下げて笑った。
「ひとりのほうが落ち着くから」
ユキはそう、小さく肩をすくめた。
「あっ、ごめんなさい。すぐに出ます」
「えっ、あ、いや、そういう意味じゃなくて。天野さんのこと邪魔って言ってるわけじゃない」
そうじゃなくて、とユキは窓の外へ目をやった。眩しそうにユキの目は細められる。花もつられるように、窓の外を見た。初夏を感じさせる爽やかな青が広がっている。
「天野さん、あのさ」
「はい」
「敬語、やめない?」
振り向いた花は、ふっと笑ったユキと目が合う。目が合ったのは一瞬で、ユキはすぐに目を逸らすように俯いた。
「俺たち、同い年なんだし。別に俺、先輩でも何でもないから」
少しの沈黙も気まずさに感じてしまうのだろう。ユキは誤魔化すように、指先のささくれをカリカリと爪先でいじる。嫌ならいいけど、と柔らかな笑顔は苦笑いに変わってしまった。
「ひとりのほうが落ち着く」とユキが言ったのは、寂しさの裏返しだったのだろう。クラスメイトとの壁や距離を、賑やかな昼休みの教室ではより強く鮮明に感じてしまうのかもしれない。花の胸の奥が、その寂しさを感じ取って、チクリと痛んだ。
太陽が雲に隠れる。蛍光灯のついていない美術室は暗く陰り、ひんやりと涼しくなった気がした。
花は、ユキの前の席の椅子を引いた。椅子の前後をひっくり返して、ユキと向かい合うように腰を下ろす。
テーブルの上には、食べかけのユキのお弁当が置いてあった。綺麗に巻かれた黄色い卵焼きを、花は指差した。
「藍沢くんのお弁当、美味しそうだね」
え、と小さな声とともにユキが顔を上げる。花は、「美味しそう」ともう一度言って、目を丸くさせるユキに笑顔を見せた。
「嫌じゃ、ないよ」
言って、照れくさくなって、花は目を逸らした。頬が熱い気がして、顔周りの髪を指で梳きながら隠す。
しばらくの沈黙があって、それからユキが、小さく、そして柔らかく笑った声が聞こえた。
暖かな日差しが、窓辺から差し込む。黒色の花のスカートを照らして、じんわりと温もらせる。
昼休みの終わりを予告する、五分前の予鈴が校舎内に鳴り響いた。「あ、」と花とユキは顔を見合わせて、お弁当に視線を落とす。
「やばい、まだ食べ終わってない」
「大変」
ユキは慌てて、卵焼きを口の中に放り込み、ふりかけの掛かった白ご飯も掻き込んだ。「ごちそうさま」と両手を合わせて、ユキがお弁当箱を片付け終わったのは本鈴が鳴る一分前だ。
花とユキは急いで美術室を飛び出す。二人の上履きが、塩ビ樹脂の白い廊下を騒がしくバタバタと鳴らした。
教室までの道のり。少し前を走るユキの背中を、花は追いかける。足が速いんだな、とか、意外と肩幅が広いんだな、とか、本鈴がもう鳴り響いているのに、花の思考は呑気に、ユキにばかり気を取られている。
授業への遅刻に焦る姿は、自分たちと同じ十七歳。自分たちと何も変わらない存在だと、儚く脆いものだと思っていたユキの輪郭が、花にはハッキリと形を帯びていくように見えた。
「天野さん、急げ」
ユキは走る足は止めないまま、そう花を振り返った。明るい声が響く。 うん、と頷いた花は、唇をキュッと噛みしめた。乱れる前髪を手で押さえつける。
(心臓が、うるさい……)
それは一生懸命走っているせいでは、きっとない。
そして、いつもと同じように後ろのほうの席に座るユキを見つける。
混雑する車内。人の間を縫うように、花はユキを見た。
ユキはまた今日も、窓の外を流れる景色を退屈そうに眺めていた。
海街医療研究センター前のバス停で停まる。今日も、コールドスリープ治療の宣伝が流れていた。窓の外を見ていたユキは、そっと目を閉じた。花は、そんな些細な仕草が胸に引っかかった。まるでユキが、その場所から目を逸らしているように見えたからかもしれない。
明るい未来を連想させる宣伝と、今のユキの姿は、正反対の位置にあるもののように花には思えた。
「次は、第一東高校前。第一東高校前」
学校最寄りの停留所のアナウンスが流れる。いつもの花ならここでユキから視線を外すのだけれど、今日の花はそのまま彼を見続けていた。
ユキの目が前を向く。その先に花がいることに気付くと、ユキは「あ」と僅かに目を丸くさせてから、小さく花に手を振った。
肩にかけたスクールバッグの、その持ち手を握る花の手に力が入る。自分だろうか、と花は左右を見て、それから自分以外に対象の相手はいなさそうだと判断して、ぎこちなく頭を下げた。ユキはそんな花を見て、可笑しそうに肩を揺らして笑った。
そのユキの笑顔に、上がりそうになる口角を、唇を噛んで花は隠す。
今日はどこかで期待していた。いつもは目が合わないようにと気を付けているけれど、今日は目が合ったら良いなって思っていた。
――ユキの様子が気になっていたせいで、目を逸らすタイミングを失ってしまった。
そう、心の中で自分自身に言い訳をしながら。
昼休み。昨日の内になんとか完成させた美術の課題に、花は名前を書くのを忘れていたことを思い出した。食べかけのお弁当を片付けて、一緒に昼食を食べていた愛里に事情を説明する。「一緒に行こうか」と言ってくれた愛里に「大丈夫」と返して、花は美術室へと急いだ。
美術室の扉に手をかけて、「あ、鍵」と花は溜息とともに呟いた。美術室や技術室、化学室は授業や部活以外の時間は鍵がかかっていることが多い。美術の先生に借りに行かなければ、と、ここまで来ないと気付かなかった自分に憤りを感じながら、引き帰ろうとしたときだ。試しに、と横にスライドさせた扉は、いとも簡単に開いた。すでに鍵は開いていたのだ。
そっと中の様子を覗き見る。
窓際の席。開けた窓から入る風に、髪を靡かせる男子生徒がひとり。
陽を浴びて茶色く見える髪は、それだけでその髪の柔らかさを感じさせる。
その後ろ姿を、花は見間違えるはずなかった。毎日、それこそ、ひとつ前の時間にも見ていた後ろ姿だ。
「藍沢さん」
そっとその名前を口にする。
小さな花の声が届いたのだろう。ぴくりと肩が動いて、驚いたような顔をしてその人は花を振り返った。
「こんにちは」
今朝のバスの中と同じように、花はぎこちなく頭を下げる。
「どうしたの?」
ユキはお弁当を食べていたようで、お弁当箱と箸を手に持っていた。
「昨日の課題に、名前、書き忘れちゃってて」
「ああ、そうだったんだ」
美術室の奥にある扉からしか入れない準備室に入って、乾燥棚から自分が書いた課題を持って、何となくユキの前の席に絵を置いた。
そこで花は、筆記用具を教室から持ってくるのを忘れていたことに気付いた。セーラー服の胸ポケットやスカートのポケットを、叩くようにして何かないか探る。先生がいつも立つ教卓には何かあるだろうかと、黒板のほうを見やる。
「ボールペンで良い?」
花の様子から察したのだろう。ユキは自分のスクールバッグからペンケースを取り出すと、それを花に手渡した。
「あ、ありがとう、ございます」
シンプルな黒のボールペンを受け取って、花は画用紙の裏に『天野花』と自分の名前を小さく書き記す。
「天野さんって、朝は、いつもあのバスなの?」
ちょうど名前を書き終わったタイミングで話しかけられた花は、慌てて「はい」と頷いた。その声は、少しだけ上擦った。
「俺もいつもあのバスなんだ。あ、もしかして、天野さんは知ってた?」
「いや、いえ、私も今日の朝、初めて藍沢さんと一緒だって知りました!」
花は、嘘をついた。本当はずっと前から知っていたけれど、そうだとは言えなかった。もし理由を聞かれたときに、どう答えていいのか、花には分からなかった。何をどう繕っても、その奥に『十七歳年上の同い年の彼』に対する『興味心』が滲むような気がした。花はそれを、ユキには絶対に知られたくなかった。
花の嘘にユキは気付くことはなく、「びっくりだよね」と言いながら、ペンケースの中に返って来たボールペンを入れた。
「お昼、いつもここで食べているんですか?」
ペンケースのジッパーを閉める音が響く。ユキは「あー」と言葉を濁して、それから「うん」と眉を下げて笑った。
「ひとりのほうが落ち着くから」
ユキはそう、小さく肩をすくめた。
「あっ、ごめんなさい。すぐに出ます」
「えっ、あ、いや、そういう意味じゃなくて。天野さんのこと邪魔って言ってるわけじゃない」
そうじゃなくて、とユキは窓の外へ目をやった。眩しそうにユキの目は細められる。花もつられるように、窓の外を見た。初夏を感じさせる爽やかな青が広がっている。
「天野さん、あのさ」
「はい」
「敬語、やめない?」
振り向いた花は、ふっと笑ったユキと目が合う。目が合ったのは一瞬で、ユキはすぐに目を逸らすように俯いた。
「俺たち、同い年なんだし。別に俺、先輩でも何でもないから」
少しの沈黙も気まずさに感じてしまうのだろう。ユキは誤魔化すように、指先のささくれをカリカリと爪先でいじる。嫌ならいいけど、と柔らかな笑顔は苦笑いに変わってしまった。
「ひとりのほうが落ち着く」とユキが言ったのは、寂しさの裏返しだったのだろう。クラスメイトとの壁や距離を、賑やかな昼休みの教室ではより強く鮮明に感じてしまうのかもしれない。花の胸の奥が、その寂しさを感じ取って、チクリと痛んだ。
太陽が雲に隠れる。蛍光灯のついていない美術室は暗く陰り、ひんやりと涼しくなった気がした。
花は、ユキの前の席の椅子を引いた。椅子の前後をひっくり返して、ユキと向かい合うように腰を下ろす。
テーブルの上には、食べかけのユキのお弁当が置いてあった。綺麗に巻かれた黄色い卵焼きを、花は指差した。
「藍沢くんのお弁当、美味しそうだね」
え、と小さな声とともにユキが顔を上げる。花は、「美味しそう」ともう一度言って、目を丸くさせるユキに笑顔を見せた。
「嫌じゃ、ないよ」
言って、照れくさくなって、花は目を逸らした。頬が熱い気がして、顔周りの髪を指で梳きながら隠す。
しばらくの沈黙があって、それからユキが、小さく、そして柔らかく笑った声が聞こえた。
暖かな日差しが、窓辺から差し込む。黒色の花のスカートを照らして、じんわりと温もらせる。
昼休みの終わりを予告する、五分前の予鈴が校舎内に鳴り響いた。「あ、」と花とユキは顔を見合わせて、お弁当に視線を落とす。
「やばい、まだ食べ終わってない」
「大変」
ユキは慌てて、卵焼きを口の中に放り込み、ふりかけの掛かった白ご飯も掻き込んだ。「ごちそうさま」と両手を合わせて、ユキがお弁当箱を片付け終わったのは本鈴が鳴る一分前だ。
花とユキは急いで美術室を飛び出す。二人の上履きが、塩ビ樹脂の白い廊下を騒がしくバタバタと鳴らした。
教室までの道のり。少し前を走るユキの背中を、花は追いかける。足が速いんだな、とか、意外と肩幅が広いんだな、とか、本鈴がもう鳴り響いているのに、花の思考は呑気に、ユキにばかり気を取られている。
授業への遅刻に焦る姿は、自分たちと同じ十七歳。自分たちと何も変わらない存在だと、儚く脆いものだと思っていたユキの輪郭が、花にはハッキリと形を帯びていくように見えた。
「天野さん、急げ」
ユキは走る足は止めないまま、そう花を振り返った。明るい声が響く。 うん、と頷いた花は、唇をキュッと噛みしめた。乱れる前髪を手で押さえつける。
(心臓が、うるさい……)
それは一生懸命走っているせいでは、きっとない。


