藍沢ユキと天野花。
クラスに慣れるまでは出席番号順で、という先生の意向で五月も間もなく終わるというのに未だに席替えはなく、廊下側の前から二番目に座る花の前の席はユキだった。
「藍沢さん」
休み時間、クラスメイトの誰かがユキに声をかけている声が聞こえて来て、友人と自分の席で話をしていた花は思わずそちらを振り向いてしまった。男子生徒がひとり、ユキの席の前に立っていた。
「数学のノート、もらっていいですか? 集めて提出しなきゃいけないんで」
「ああ、ごめん」
ユキは机の横に引っ掛けている藍色のスクールバッグの中からノートを取り出すと、「はい」と、それを目の前の男子生徒に渡した。それを受け取った男子生徒は「っす」と、空気が漏れるような声とともに頭を下げると、逃げるようにユキから離れていく。
「めっちゃ緊張したわ」
離れた場所にいた友達に、その男の子がそう言って笑っているのが、喧騒をすり抜けて花の耳に届いた。
花は、ユキの後ろ姿をそっと盗み見る。ユキの肩が、小さく、しかし深く、ゆっくりと上下した。
(溜息……?)
ずん、と花の鳩尾辺りが重たくなる。
そっと教室の中を見渡してみる。
女の子たちは、花と同じように仲良しの子たちでグループを作り談笑し、男の子たちはふざけてじゃれ合ったり、複数人で雑誌や漫画を囲んで読んでいる。
その中に、ユキが入っているのを花は一度も見たことがなかった。
クラスメイトたちは、今日のように何か用がなければユキには近付かない。見えない線で仕切られているように。透明な壁でもあるように。
花はずっと、その壁はユキ自身が作り出していると思っていた。
「藍沢さんって、どう関わったらいいか分かんなくない?」
放課後、花と一緒に教室を出た、同じクラスの愛里がそう零した。
愛里と花は一年生のころも同じクラスだった。それもあり、自然と一緒にいることが多くなった。
「え、でもかっこよくない?」
愛里の隣で乃愛が言った。
乃愛は二年生でクラスが離れてしまったけれど、愛里と同じバレーボール部に所属して、放課後は花たちのクラスまで毎日迎えに来る。
「かっこいいって……本当は三十四歳だよ? 無理、無理。しかも全然しゃべんないもん、あの人。私、科学のとき同じ班なんだけど、超気まずいよ」
「あー」と乃愛が愛里の言葉に相槌を打つ。
「ノリ悪い系だ」
乃愛が言う。
ノリって。
そう言葉になりそうになったそれを飲み込んで、花は苦く静かに笑った。
「原田先生は、仲良くしろよ、とか言ってたけど、向こうがする気ないでしょ。だって、藍沢さんからしたら、私たちめっちゃ子どもだよ」
「十七歳差? やば。下手したら親子じゃん」
お父さんには見えない、と乃愛と愛里が笑う。花は、ユキの、溜息を吐くように動いた肩を思い出した。思い出すと、とても二人と同じようには笑えなかった。
そして、自分自身がずっとユキに持っていた興味心にも苛立ちを覚えてくる。
「……藍沢さんも、戸惑ってるのかも」
「え?」
愛里と乃愛が花を見た。二人の視線が刺さるようで、花はへらりと笑った。目を逸らす。気まずさから頬を掻いた。
「いや、あの、十七年も眠っていたら、戸惑うだろうなって思って。急に周りが変わったら、びっくりじゃない?」
「あー」と、また乃愛は相槌を打つ。「たしかに、それはそうかも」
「私だったら耐えられない」
コールドスリープ怖すぎ、と愛里が自分で自分の体を抱きしめるようにして、両腕を摩る。怖い怖い、と乃愛もそれに便乗した。
体育館へ続く渡り廊下と美術室へ続く階段の分かれ道につく。
「私、こっち。二人とも部活頑張ってね」
花は階段を指差してから、愛里たちに手を振る。
「うん。花、また明日」
「またね」
愛里と乃愛も花に手を振った。体育館のほうへ向かう二人の笑い声を聞きながら、花は階段を上がっていく。いつからか力んでしまっていた体をほぐすように、花はゆっくりと息を吐き出した。
校舎の三階にまで上がる。三階まで上がって、廊下の突き当りまで行くと『美術室』と書かれたプレートが見えてくる。
選択授業の美術で出された課題の絵がまだ終わっていなくて、その作業をするために花は放課後の美術室に来ていた。
この時間は、他の部活と同様に美術部の活動時間だけれど、部室まで来ているのはいつも数人。花のように、美術部ではなくても授業の居残りで作業をしに来る生徒がたまにいるのか、花が美術室の扉を開けても、誰もそれを気に留める様子はなかった。
美術室と繋がっている美術準備室から、作業途中の画用紙を持ってくる。部活の邪魔にならない席を探しながら、花は美術室の香りを肺いっぱいに取り込んだ。
美術室独特の、埃と絵の具が混ざった香りが好きだった。小さいころ、お父さんに連れていってもらった絵画教室のアトリエを思い出して心がわくわくする。あの日、絵画に感じたときめきを思い出させてくれる。
窓際の一番後ろの席に、花は画用紙を置いた。床にスクールバッグを置いて、家から持ってきた水彩絵の具のセットを机の上に広げる。
絵を描くための準備をしている途中。
「天野さん?」
名前を呼ばれて、花は顔を上げた。目と目が合う。
驚いて息を吸い込んだ花の喉が、ひゅっと小さく変な音を鳴らした。
「藍沢さん、」
ユキと目が合った。話しかけられた。その驚きで、花の目は大きく見開かれた。
思わず一歩後ろに下がってしまった花の踵が、半端に後ろに引かれた椅子の脚にぶつかって大きな音を鳴らす。
「大丈夫?」
慌てる花がこれ以上どこかに体をぶつけることがないように、ユキは机を少しだけ前に動かした。
「は、はい」
花の声が裏返る。まさか、こんなところでユキに出会うなんて思ってもいなかった。さらに声をかけられるなんて、花には全く予想していなかったことで、心臓がバクバクと音を鳴らしている。
「天野さん、美術部だったんだね」
そう言いながら、ユキは花の前の席に荷物を置いた。
「あ、いや、私は違います」
花は、顔の前で否定の意味を込めて手をブンブンと振る。
「え、そうなの?」
今度はユキのほうが驚いたように目を丸くさせた。
「絵、上手だから。てっきり美術部なのかと思った」
それ、と机に置かれた絵をユキは差す。
花は「あ、」と声を上げて、それを見られないようにと、今更裏に返した。
「そんな、上手くないです。美術の授業の課題、終わってなくて。それ、やりに来ただけで、」
聞かれてもいないことを、花は早口で紡ぐ。ぎこちなく、左右に揺れ泳ぐ瞳。あはは、と愛想笑いをして、ふとユキと目が合って、花はギュッと口を閉じた。すみません、と小さく謝る。
「こっちこそごめん。勝手に見て、決めつけて」
「え、いや、全然。そんな、そんな」
勝手な暴走で空回っていた花は、まさかユキから謝られると思わなくて、また手を顔の前で激しく振った。
「あ、藍沢さんは、美術部なんですね」
何か話題を変えたくて、頭に浮かんだ当たり障りのない質問を花は吐き出す。ユキは、少しだけ花の顔色を窺い見るようにしてから、「うん」と頷いた。
「そう、美術部。一応、復部? って、形になるのかな。あんまり自覚、ないけど」
ユキも花と同じようにスクールバッグを床に置く。スケッチブックとペンケースを机の上に並べていく。花はそれを眺めながら、
「そうなんですね」と相槌を打つ。そこで、はたと気付いた。
「あの、私の名前、知ってたんですね……」
その気付きを口にすれば、ユキは「え?」と振り向いた。
「そりゃ、同じクラスなんだし。天野さんが俺の名前覚えてるのと一緒だと思うけど」
と、ユキが当たり前のように笑う。その表情はとても柔らかい。
いつも退屈そうに窓の外を見ているイメージがあった。静かに、ひとりで、座っているイメージがあった。
こんなにも柔らかく笑うことができる人だなんて、知らなかった。
花は、「そうですよね」と小さく頷いた。ただ、なぜだか上手く説明できないけれど、その顔を真っ直ぐに見ることができなかった。朝から寝癖で跳ねていた毛先が今更になって気になって、指の間で梳くように下に引っ張った。
クラスに慣れるまでは出席番号順で、という先生の意向で五月も間もなく終わるというのに未だに席替えはなく、廊下側の前から二番目に座る花の前の席はユキだった。
「藍沢さん」
休み時間、クラスメイトの誰かがユキに声をかけている声が聞こえて来て、友人と自分の席で話をしていた花は思わずそちらを振り向いてしまった。男子生徒がひとり、ユキの席の前に立っていた。
「数学のノート、もらっていいですか? 集めて提出しなきゃいけないんで」
「ああ、ごめん」
ユキは机の横に引っ掛けている藍色のスクールバッグの中からノートを取り出すと、「はい」と、それを目の前の男子生徒に渡した。それを受け取った男子生徒は「っす」と、空気が漏れるような声とともに頭を下げると、逃げるようにユキから離れていく。
「めっちゃ緊張したわ」
離れた場所にいた友達に、その男の子がそう言って笑っているのが、喧騒をすり抜けて花の耳に届いた。
花は、ユキの後ろ姿をそっと盗み見る。ユキの肩が、小さく、しかし深く、ゆっくりと上下した。
(溜息……?)
ずん、と花の鳩尾辺りが重たくなる。
そっと教室の中を見渡してみる。
女の子たちは、花と同じように仲良しの子たちでグループを作り談笑し、男の子たちはふざけてじゃれ合ったり、複数人で雑誌や漫画を囲んで読んでいる。
その中に、ユキが入っているのを花は一度も見たことがなかった。
クラスメイトたちは、今日のように何か用がなければユキには近付かない。見えない線で仕切られているように。透明な壁でもあるように。
花はずっと、その壁はユキ自身が作り出していると思っていた。
「藍沢さんって、どう関わったらいいか分かんなくない?」
放課後、花と一緒に教室を出た、同じクラスの愛里がそう零した。
愛里と花は一年生のころも同じクラスだった。それもあり、自然と一緒にいることが多くなった。
「え、でもかっこよくない?」
愛里の隣で乃愛が言った。
乃愛は二年生でクラスが離れてしまったけれど、愛里と同じバレーボール部に所属して、放課後は花たちのクラスまで毎日迎えに来る。
「かっこいいって……本当は三十四歳だよ? 無理、無理。しかも全然しゃべんないもん、あの人。私、科学のとき同じ班なんだけど、超気まずいよ」
「あー」と乃愛が愛里の言葉に相槌を打つ。
「ノリ悪い系だ」
乃愛が言う。
ノリって。
そう言葉になりそうになったそれを飲み込んで、花は苦く静かに笑った。
「原田先生は、仲良くしろよ、とか言ってたけど、向こうがする気ないでしょ。だって、藍沢さんからしたら、私たちめっちゃ子どもだよ」
「十七歳差? やば。下手したら親子じゃん」
お父さんには見えない、と乃愛と愛里が笑う。花は、ユキの、溜息を吐くように動いた肩を思い出した。思い出すと、とても二人と同じようには笑えなかった。
そして、自分自身がずっとユキに持っていた興味心にも苛立ちを覚えてくる。
「……藍沢さんも、戸惑ってるのかも」
「え?」
愛里と乃愛が花を見た。二人の視線が刺さるようで、花はへらりと笑った。目を逸らす。気まずさから頬を掻いた。
「いや、あの、十七年も眠っていたら、戸惑うだろうなって思って。急に周りが変わったら、びっくりじゃない?」
「あー」と、また乃愛は相槌を打つ。「たしかに、それはそうかも」
「私だったら耐えられない」
コールドスリープ怖すぎ、と愛里が自分で自分の体を抱きしめるようにして、両腕を摩る。怖い怖い、と乃愛もそれに便乗した。
体育館へ続く渡り廊下と美術室へ続く階段の分かれ道につく。
「私、こっち。二人とも部活頑張ってね」
花は階段を指差してから、愛里たちに手を振る。
「うん。花、また明日」
「またね」
愛里と乃愛も花に手を振った。体育館のほうへ向かう二人の笑い声を聞きながら、花は階段を上がっていく。いつからか力んでしまっていた体をほぐすように、花はゆっくりと息を吐き出した。
校舎の三階にまで上がる。三階まで上がって、廊下の突き当りまで行くと『美術室』と書かれたプレートが見えてくる。
選択授業の美術で出された課題の絵がまだ終わっていなくて、その作業をするために花は放課後の美術室に来ていた。
この時間は、他の部活と同様に美術部の活動時間だけれど、部室まで来ているのはいつも数人。花のように、美術部ではなくても授業の居残りで作業をしに来る生徒がたまにいるのか、花が美術室の扉を開けても、誰もそれを気に留める様子はなかった。
美術室と繋がっている美術準備室から、作業途中の画用紙を持ってくる。部活の邪魔にならない席を探しながら、花は美術室の香りを肺いっぱいに取り込んだ。
美術室独特の、埃と絵の具が混ざった香りが好きだった。小さいころ、お父さんに連れていってもらった絵画教室のアトリエを思い出して心がわくわくする。あの日、絵画に感じたときめきを思い出させてくれる。
窓際の一番後ろの席に、花は画用紙を置いた。床にスクールバッグを置いて、家から持ってきた水彩絵の具のセットを机の上に広げる。
絵を描くための準備をしている途中。
「天野さん?」
名前を呼ばれて、花は顔を上げた。目と目が合う。
驚いて息を吸い込んだ花の喉が、ひゅっと小さく変な音を鳴らした。
「藍沢さん、」
ユキと目が合った。話しかけられた。その驚きで、花の目は大きく見開かれた。
思わず一歩後ろに下がってしまった花の踵が、半端に後ろに引かれた椅子の脚にぶつかって大きな音を鳴らす。
「大丈夫?」
慌てる花がこれ以上どこかに体をぶつけることがないように、ユキは机を少しだけ前に動かした。
「は、はい」
花の声が裏返る。まさか、こんなところでユキに出会うなんて思ってもいなかった。さらに声をかけられるなんて、花には全く予想していなかったことで、心臓がバクバクと音を鳴らしている。
「天野さん、美術部だったんだね」
そう言いながら、ユキは花の前の席に荷物を置いた。
「あ、いや、私は違います」
花は、顔の前で否定の意味を込めて手をブンブンと振る。
「え、そうなの?」
今度はユキのほうが驚いたように目を丸くさせた。
「絵、上手だから。てっきり美術部なのかと思った」
それ、と机に置かれた絵をユキは差す。
花は「あ、」と声を上げて、それを見られないようにと、今更裏に返した。
「そんな、上手くないです。美術の授業の課題、終わってなくて。それ、やりに来ただけで、」
聞かれてもいないことを、花は早口で紡ぐ。ぎこちなく、左右に揺れ泳ぐ瞳。あはは、と愛想笑いをして、ふとユキと目が合って、花はギュッと口を閉じた。すみません、と小さく謝る。
「こっちこそごめん。勝手に見て、決めつけて」
「え、いや、全然。そんな、そんな」
勝手な暴走で空回っていた花は、まさかユキから謝られると思わなくて、また手を顔の前で激しく振った。
「あ、藍沢さんは、美術部なんですね」
何か話題を変えたくて、頭に浮かんだ当たり障りのない質問を花は吐き出す。ユキは、少しだけ花の顔色を窺い見るようにしてから、「うん」と頷いた。
「そう、美術部。一応、復部? って、形になるのかな。あんまり自覚、ないけど」
ユキも花と同じようにスクールバッグを床に置く。スケッチブックとペンケースを机の上に並べていく。花はそれを眺めながら、
「そうなんですね」と相槌を打つ。そこで、はたと気付いた。
「あの、私の名前、知ってたんですね……」
その気付きを口にすれば、ユキは「え?」と振り向いた。
「そりゃ、同じクラスなんだし。天野さんが俺の名前覚えてるのと一緒だと思うけど」
と、ユキが当たり前のように笑う。その表情はとても柔らかい。
いつも退屈そうに窓の外を見ているイメージがあった。静かに、ひとりで、座っているイメージがあった。
こんなにも柔らかく笑うことができる人だなんて、知らなかった。
花は、「そうですよね」と小さく頷いた。ただ、なぜだか上手く説明できないけれど、その顔を真っ直ぐに見ることができなかった。朝から寝癖で跳ねていた毛先が今更になって気になって、指の間で梳くように下に引っ張った。


