同じ海を見ている

 八月の、初め。
 あの日以降、花はユキに会っていなかった。
 学校も長期休みに入っている今、豊乃に言われた「夏休みは理由がないと会えない」というのは本当だった。ただ、仮にユキに会う理由ができたとしても、顔を合わせる勇気は、今の花にはないのだけれど。
 あの日はお互いに気まずくなって、別々のバスに乗って家まで帰った。連絡先も交換していない二人は、あの日のことに対する言い訳もなにもできないまま、ただ会わない時間だけが過ぎていた。
 新学期が始まったら、どうなるのだろう。もう一緒にお弁当を食べる昼休みもなくなって、同じバスに乗っても手を振り合わず、出会ったばかりのころのように目も合わない日々になるのかもしれない。
 ダイニングテーブルに花は頬をくっつけて突っ伏す。空調が、ごうんごうんと動いている音が、昼下がりの部屋に響いている。

「外に出て、絵でも描いてきたら?」

 花の向かいで雑誌を読んでいたお母さんは、ぼんやりとただ時間を過ごす花を見守っていたが、それが何日も続くものだから痺れを切らしたようだった。

「うーん」

 花は唸るように、煮え切らない返事をする。

「この前、珍しく海の絵を描いて帰ってきてたでしょ? ようやく、花の気持ちが絵に戻ってきたのかなって思って」
「え……?」

 花は頭をのっそりと上げた。お母さんは雑誌を閉じて、優しく目尻を下げる。

「お父さんと話してたの。また、楽しく絵を描いてる花が見たいねって」

 花は唇を噛んだ。そんな話をしていたなんて、知らなかった。お母さんは、ガラスのコップに麦茶を注ぐ。

「賞を取っても取らなくても、受験に失敗してもしなくても、お母さんもお父さんも、花が幸せでいてくれるなら、それでいいから」

 お母さんの優しい声に、鼻の奥がツンと痛む。目の奥が熱くなるような気がして、花は慌てて俯いた。「うん」と頷く。その花の頭を撫でるお母さんの手は、幼い子の頭を撫でるように優しかった。





 白いトートバッグの中に、本棚の隅に隠すように追いやっていたスケッチブックと、引き出しの中で眠ったままだった色鉛筆、それからいつも学校で使っているペンケースを入れた。

「行ってきます」
「行ってらっしゃい、気を付けてね」

 玄関先でお母さんに見送られて、玄関を開ける。ジリジリと照り付ける太陽は、容赦なく半分の袖丈から伸びる花の腕を焼いた。
 真っ青な夏空には、もくもくの入道雲が浮かんでいる。
 バス停にやって来たバスには、誰も乗っていなかった。
 『海街医療研究センター前』を通り過ぎる。広告液晶に流れるコールドスリープ治療の宣伝に、花は目を伏せた。
 『第一東高校前』に到着したバスを降りて、花は学校には向かわずに、以前ユキと一緒に訪れた海岸へと向かった。
 海岸沿いの道から、砂浜へ下りる石階段を下りる。
 海水浴場として開放されていないからか、夏でも人はまばらだ。
 波打ち際で遊んでいる親子連れや、花と同じくらいの年齢の子たちが数人いる程度。
 確信はなかった。けれど、ここにいるような気がした。
 視線を彷徨わせる。
 波打ち際に、座り込む背中を見つけた。
 潮風に揺れる髪は、太陽の光を浴びて薄っすらと茶色がかっている。
 花は、そっとその後ろ姿に近付く。花から伸びる影が、その人に被さる。急に出来た日陰に、その人――ユキは、ゆっくりと視線を上げて、花を捉えて、静かに息を飲み込んだ。
 お母さんと話す前の花と同じように、顔を合わせることに気まずさを感じているのだろう。
 花も、まだ何を話せばいいのか整理はついていなかった。
 ただ、お母さんと話をしたら、無性にユキに会いたくなった。
 花はトートバッグの中に手を入れる。スケッチブックを引っ張り出して、何も描かれていない、まだまっさらなページを開いた。そして、それを切り離す。スケッチブックから離れされた一ページを、ユキに向けて差し出した。

「一緒に描こう」

 精一杯の笑顔を作る。ユキは、花と差し出された紙を交互に見て、それからぎこちなく、手を伸ばしてそれを受け取った。

「色鉛筆も、持ってきたの」

 ユキの隣に腰を下ろした花は、「どうぞ」と二十四色入りの色鉛筆のケースを、二人の体の間に開いた。
 ユキは何も言わなかった。受け取った真っ白な紙を、ただじっと眺めていた。
 波の音に、花がスケッチブックに色鉛筆を走らせる音が混ざる。今日の海は、少し波が高い。沖のほうでは荒っぽい白波が立っている。

「夏休み明けたらさ、私も美術部に入ろうと思うんだ」

 もう二年生だし、今更だけど。と、花は海を描く手を止めないまま言う。ユキが自分を見ている視線に気付いて、花も顔を上げてユキを見た。

「やっぱり、絵が好きだなって思って。それは、藍沢くんが、思い出させてくれたの」

 肩を竦めてはにかんだ。そして、それから一呼吸置いて、花は口元の笑みを消した。

「私、バスの中でずっと藍沢くんのこと見てたんだ。ずっと、同じバスに乗ってるって知ってた」

 真っ直ぐな瞳でユキを見つめ、言葉を続ける。

「興味心でいっぱいだった。明るい未来が待っているって宣伝では言っているのに、藍沢くんがそんな風には見えなかったから。藍沢くんが見ている世界は、どんな景色なんだろうって気になってた」

 ごめんね、と花は頭を下げる。

「でもね、藍沢くんと関わるうちに、藍沢くんの笑顔がいっぱい見たいって思うようになったの。とにかく、隣で笑ってくれることが、すごく嬉しかった」

 花は、ユキから目の前に広がる海を向く。どこまでも続いていく海は、いつか空の青と混ざってしまいそうだ。
 深呼吸をするように、花は胸いっぱいに爽やかな潮風を取り込んで、そしてゆっくりと吐き出した。

「好きです、藍沢くん」

 あの日と同じ言葉を紡ぐ。

「この世界で、目覚めてくれてありがとう。今、あなたと、同じように年齢を重ねられることを、幸せだとは、やっぱり思ってる」
「でもね」と、花は続けた。

 花が幸せならそれでいいと言ってくれたお母さんの言葉を思い出す。その気持ちは、ユキへの気持ちを気付かせてくれるキッカケになった。

「藍沢くんが描いた海、好きだよ。それが例え、今の私には知ることもできない昔の海だったとしても、私は好き。過去に行って寄り添うことはできなくても、知ることはできる。もっといっぱい、藍沢くんのこと教えてよ」

 真っ直ぐ紡がれる花の言葉に、ユキは瞳を瞬かせる。それから、深呼吸にも似た大きな溜息とともに俯いた。

「……待ってるって言葉を、都合よく受け取って、期待してただけなんだ」

 ざざん、と打ち寄せる波の音にかき消されてしまいそうなくらい、ユキの声は小さい。

「同じようには待てないことなんて、知ってたはずなのに。ひとりぼっちになるのが、怖かったんだ」

 ユキは自嘲気味な笑いを零す。それから顔を上げて、目にかかる前髪を払うように頭を振った。

 ユキは自分の隣に置いていたトートバッグの中から、結婚式の招待状を取り出す。たくさんの皺が残ったままのそれを、ユキは小さく、小さく折りたたんだ。

「豊乃さんには、あれから会った?」

 ユキはゆるゆると首を横に振った。

「会ってない。困らせたくないから」

 そして、

「豊乃が、俺のことを待ってなくて良かったよ。思い出に変えてくれててよかった。十七年って、きっと、想像できないくらい長いから」

 そう続けたユキは花を振り向く。その柔らかなユキの笑顔に、花の心は陽だまりに出たように熱を帯びていく。

「ねぇ、今度、天野さんのこと、描いてもいい? それから、いっぱい話そうよ。俺も、天野さんのこと、もっと知りたい」

 砂浜の上。花の手の甲に、ユキの掌が重ねられる。同じくらいの体温が、溶けあっていく。鼓動が聴こえてしまいそうなくらい近い距離が、今はとても心地よかった。
 二人の瞳は、同じ海を映す。

【完】