同じ海を見ている

 あっという間に梅雨は明け、期末テストも終わった。そして、まだ随分と先のことだと思っていた夏休みが始まる。

「まだ付き合ってないの?」

 終業式の日。下駄箱で靴を履き替える中、ユキと個展を見に行くのだと言った花に、愛里はそう言った。

「なんでそうなるかな」

 花はわざと不満そうに唇を尖らせる。

「え、違うの?」

 愛里は大きくて綺麗なアーモンド型の瞳を瞬かせた。

「違う、違う」

 花は、ゆるやかに首を横に振る。
 花とぶつかったあの一件以降、愛里は頑張って隣の席のユキに話しかけるようになっていた。そして、愛里のその行動に引っ張られるように、他のクラスメイトたちもユキに話しかけるようになった。
 順調に、ユキはクラスに溶け込み始め、教室内での笑顔も増えた。

「ただの、友達」

 その内のひとりに、花はなりたかった。
 ユキには、少しでも多く笑っていて欲しかったから。
 好きだと言ったら、きっと彼は困るから。
 七月の下旬。下駄箱の外では、何もかも隠してしまいそうなくらい、蝉がうるさく鳴いていた。


 夏休み初日。花は、新調したばかりの青いワンピースを纏い、白いサンダルでバスのステップを踏んだ。ひんやりと空調の効いた車内に、溶けてしまいそうだった体が生き返るようだ。

「天野さん、こっち」

 控えめな声が花を呼ぶ。後ろから二番目の二人掛けの座席に座っていたユキが手を振っていた。

「よかった、ちゃんと同じバスに乗れて」

 ホッと花は笑う。

「そうだね」

 ユキが少しだけ奥に詰めてくれて、花はその隣に腰を下ろした。
 バスはゆっくりと走り出す。学校方面とは別の方向へと、信号を曲がる。
 膝の上に、黒のショルダーバッグを置いた。花は、気付かれないようにユキの姿を窺い見る。ユキは黒のリュックを抱えていた。モノトーンで統一されたカジュアルな服装。制服姿のユキとはまた雰囲気が違って、見慣れず落ち着かない。学校で会うわけではないのだから、それが当たり前だと分かっているのだけれど。
 自分の服装はおかしくないだろうか。家を出る前、バスに乗り込む前と、何度もチェックしたのに、花はまたスカートのプリーツを指で摘まんで整えた。
 ポニーテールに結い上げたせいで、露出したうなじがスースーとする。花は、無防備なそこから自分の心の中まで透けて見えてしまうような気がして、手を当てて隠した。
 そこで、「ただの友達」だと愛里に言い切ったことを思い出して、ユキの隣で、服装や見た目を気にしている自分自身をこっそりと苦く笑った。
 夏休みの宿題など他愛ない会話をしている内に、二人を乗せたバスは目的地最寄りのバス停に到着した。運賃を運賃箱に投入し、バスを降りる。ジリジリと肌を焼くような暑さに、二人は急いで日陰に入った。
 豊乃の個展が開催されている画廊までは、五分ほど真っ直ぐ通りを行くだけだった。たったそれだけの距離でも、じんわりと汗が額に滲む。

「あ……ここみたい」

 モダンなデザインの商業ビル。リーフレットに描かれたビルの名前と建物のチャンネル文字を照らし合わせる。この中で個展が開かれているのだろう。花が持っているリーフレットやチケットと同じものを持った人が何人か、先に中へと入っていった。

「はい、これ。チケット」

 花はユキにチケットを渡す。リーフレットをショルダーバッグの中に仕舞って、花はビルの重いガラス戸を手前に引いた。
 先にどうぞ、とユキを促すつもりだった。けれど、ユキは、じっとチケットを見たまま立ち呆けていた。

「……藍沢くん?」

 花が声を掛ける。ハッとした意識が引き戻されたように、ユキは顔を上げた。

「大丈夫? 暑い中、歩いたから……」
「あ、いや。全然、大丈夫」

 ユキは服の袖で、顎を伝う汗を拭った。それから、花に駆け寄って「重いのにごめん」と扉を持つのを代わってくれる。

「行こうか」

 にこ、と笑うユキの顔は、いつも通り優しいものだった。それ以上、何かを不審に思う余地もなく花は「うん」と頷いて、扉の中へと体を滑り込ませた。
 空調で冷やされた空気が、熱く火照った花の頬や腕を冷ましてくれる。『美郷豊乃 個展』
 受付の前には、そう大きな立て看板が立っている。花とユキは受付でチケットをもぎってもらい、ゲストブックに名前を記入した。
 一歩、画廊に足を踏み込む。
 明るい照明。壁も天井も床も真っ白な室内。
 その白を彩るように、額に入れられた豊乃の油絵が飾られている。

「すごいね」

 花は昂る感情を抑えるように、声を潜めた。ユキは声を出さず、頷いただけだった。
 花の身長ほどの大きなキャンバスに描かれた油絵から、掌より一回りほど大きいくらいの小さなパネルのような油絵もある。
 ゆったりとひとつひとつの絵を噛みしめるように、奥へ奥へと進んでいく。室内を真ん中で仕切るスライディングウォールを曲がった先。
 花は小さく「え」と声を零した。
 オフホワイトの、花の装飾がされた額縁の中に描かれた横顔から、目が離せない。
 『思い出』と題されたその少年の横顔を、花はよく知っている。

「ユキくん」

 薄く開いた花の唇よりも、ほんの数秒早く、その名前は紡がれた。
 花が振り向く。その先には、豊乃がいた。
 豊乃の瞳は、驚いたように見開かれて、花の後ろを見つめている。
 花は振り返った。
 花と同じように、『思い出』の絵に、釘付けになっている横顔。その横顔は、豊乃が描いたものと、とても、とてもよく似ていた。
 花の喉が、ギュッと締まる。

「久しぶりだね、ユキくん」

 会えて嬉しいと、笑う豊乃に、息が詰まりそうだ。脳内を過るのは、ユキのスケッチブックの女性だった。

(どうして、気付かなかったんだろう)

 切れ長の目には面影があって、ハニかんだその口元も、花が大好きな豊乃の表情だった。

(豊乃さんだったんだ……)

 ユキがスケッチブックにスケッチするほど想いを寄せていたのは、豊乃だった。
 俯いた花の視界の端。
 ユキが吐き気を抑え込むように、両手で口元を覆った。そして、その体を翻す。もつれるように駆け出したユキの背中を、花も慌てて追いかけた。

「待って」

 豊乃の声が背中に当たる。それは二人に向けられたものなのか。それとも、ユキにだけ向けられたものなのか、花には分からなかった。
 ビルのエントランスを抜ける。湿気を含む熱を帯びた空気が、冷やされた体にまとわりつく。街路樹にとまっている蝉が、ジージーと騒がしい。
 ユキの背中で黒いリュックサックが大きく揺れている。花がどれだけ懸命に走ってもその距離は縮まらない。
 いつの日か、授業に遅れそうな廊下で追いかけたときとは全く違う。何かを振り切るように走るその背中は、どんどんと小さくなっていってしまう。
 肺もお腹も苦しい。
 藍沢くん、とその名前を紡ごうと思っても、上がった呼吸では上手くいかない。
 それでも、この足を止めるわけにはいかなかった。
 このままユキを見失ってしまったら、永遠に会えないような気がして怖かった。
 青信号が点滅する。ユキが横断歩道に足を踏み入れるよりも早く、信号は赤に変わった。ユキはたたらを踏んで、一度空を大きく仰いだ。それから項垂れるように膝に手をつくと、そのまま歩道脇に座り込んだ。
 ユキが止まってくれたおかげで、花はようやく追いつくことができた。
 汗で前髪が張り付く。走ったせいで乱れたスカートの襞も、もうそんなこと、どうだって良かった。
 痛いくらい空気を求める肺に、空気を送り込むために肩で大きく息を吸い込む。ユキの隣に、花は立った。

「……ごめん、足、怪我させた」

 ユキが小さく紡ぐ。花は、視線を自分の足に落とした。水色のワンカラーで染められた爪先、その足の甲がサンダルのせいで傷ついて赤くなっていた。花は、ゆるゆると首を横に振った。ジンジンと痛むけれど、気にはならなかった。

「天野さんが降りるバス停で、気付くべきだった。その近くの絵画教室なんて、あの人のところしかないから」

 はは、とユキが笑う。それはとても乾いていた。最悪、とぼやいたユキは、自分の髪をぐしゃりと掴んだ。

「……残酷、だよなぁ」

 絞り出すような声で、ユキが嘆く。
 花の顎を伝って、額から滲んだ汗が、レンガタイルの道に落ちて、赤茶色の染みを作った。

「眠っている間に、俺だけおいて、みんな大人になってるんだから」

 痛む胸を押さえるように、ユキはTシャツの胸元を強く握り込む。

「父さんも母さんも年を取ってて、友達もみんな年上になってて、知らない人みたいだった」

 ユキは汗を拭うように目元を拭った。その目に、涙が滲んでいるのかどうかは花には分からなかった。はぁ、とユキが息を吐く。背中のリュックの、手前にある小さなポケットから何かを取り出した。優しいパステルブルーのハガキ。小さな白いバラで描かれたハートの中には、『Wedding Invitation』と書かれている。その下には、豊乃と清吾の名前が綴られていた。

「目が覚めたら、眠る前と同じ世界が戻ってくると思ってた」

ユキが強く握り込むから、招待状が大きくよれる。皺になって、ぐしゃぐしゃになっていく。

「そんなことないって、頭の隅では分かってたのに」

 ユキの語尾が震える。くぅ、と漏れる声。ユキが、泣いている。今度はハッキリとそれが分かって、花も締め付けられる胸に呼応するように、自分自身のスカートを握り込んだ。

「同級生は知らない人ばかりになって、同じ十七歳なのに、同じじゃない。同じじゃないんだよ、天野さん。天野さんは、同じ十七歳だって言ってくれたけど、俺だってそう思いたかったけど、やっぱり違うんだよ」

 誰かが口ずさんでいる曲も、流行りのドラマも、目覚めた世界では何もかもが変わっている。
 友達たちの会話は、学校の話から、自分の知らない仕事の話になった。
 両親の顔には皺が増えて、白髪も増えていた。けれど、お弁当の卵焼きの味は変わらなくて、お弁当を食べるたびに泣きたくなる。
 自分だけ何も知らない。ついていけないと、ユキは顔を歪ませた。

「化け物にでもなったみたいだ」

それは、消え入るような声だった。

「一生、目なんて覚めなければよかった」

握り締めて、ぐしゃぐしゃになった結婚式の招待状に、ユキは顔を埋めた。

「ごめん、なさい……」

 音を零すように、花は紡いだ。
 赤くなったユキの瞳が、花を見上げる。揺れる瞳の中に、今にも泣き出してしまいそうな花の顔が映っていた。

「今、あなたと、同じように年齢を重ねられることを、幸せだと思ってごめんなさい」

 心の底ではずっと思っていた。ユキに恋をしていると気付いたときから、ずっと考えていた。
 同じ時間を生きられる幸せなんて、少しずつ変わってしまった知らない世界の中で、もがくユキに投げかける言葉ではないことは花自身が一番よく分かっていた。
 けれど、止められなかった。
 ユキが胸や頭を掻きむしるくらい、この現実に嘆いていることを、ユキの口から告げられたらダメだった。

「好きです、藍沢くん」

 それは溢れ出てしまった。
 苦しさを分かっているという顔をして、友達だと自分に言い聞かせて、ユキの隣に、何食わぬ顔しているつもりだったのに。

「この世界で、目覚めてくれて、ありがとう」

 なんて自分勝手で、自分本位な言葉を吐いてしまうのだろう。花は、ユキの瞳から逃れるように両手で顔を覆った。
 個展に誘ったあのバスの中と同じように、花は、ユキを自分と同じ世界に留めておきたかった。
 ジージーと蝉が、二人を包むように、大きな声で鳴いている。花の押し殺すような泣き声は、蝉の音に混ざって、夏の湿気に溶けていった。