三浦主任の「ん」はずるい



結局、旅行前日になっても奈緒は結論を出せずにいる。
本人が結婚、退職に実感がわかない一方で、祝福や惜別の言葉をかけられる段階となっていた。
今までありがとう、お幸せに、が背中に貼り付けられ、ずっしり重い。

「川村さん、最近は社食なんですね」

食堂で後輩に呼び止められ、振り向く。三浦も一緒だ。

「お弁当作るの、面倒で」
「アタシもです。一回も作ってきたこと、ありませんけど。主任はハンバーグ定食ですか?」
「ん」

引き継ぎも順調に進み、奈緒を介さずコミュニケーションを取れるようになってきた。

「とんかつでしたか!」
「ん」

ただし、通じないこともある様子。
めげずに話しかける後輩を横目に、奈緒はうどんを注文。
冷却期間としてアパートを出て以来、外食が続く。裕二から毎日メールと電話がきて様子を聞かれるも、手放しで元気とは言えない。

席に着き、首を回せば凝り固まった音がする。ホテルの枕が合わず、睡眠も浅くて。

「ん」

目の前にオレンジが入った小鉢が置かれた。
三浦は断りなく、奈緒と同じテーブルへ。

「彼女と一緒に食べないんですか?」
「ん」
「こちら、頂きます」
「ん」

あれからS社の話はしていない。携われない奈緒が聞けるはずなく、まして三浦が言ってくることもない。

「ソースかけますよね」

奈緒側にある調味料を取ろうとした時、鋭い眼差しを感じる。

「わたしは明日から沖縄です。お休み、ありがとうございます」

サッと左手をテーブルの下へ隠す。

「お土産、なにがいいですか?」

スマホにリストアップした商品を表示、見せてみた。これらは退職の挨拶品を兼ねたお菓子でもある。

「これなんか主任が好きそう」
「ん」
「え? 好みじゃないですか?」
「ん」
「じゃあ、こちらは?」

スワイプしている最中、裕二のメッセージが通知された。

『本当に空港まで送らなくていいの?』

「いったん中断します。うどん、伸びちゃうんで」

既読マークをつけず、奈緒は画面を伏せた。
スマホが震える。二、三回に分けて送迎の必要性を訴えているのだろう。見なくても読める。

「ははっ、冷めちゃいました」

麺を啜るうち鼻の奥がツンッとし、力なく笑う。

「……何に?」

やや間があって。

「え?」
「ん?」

三浦はとんかつの切り口をみ、ソースに浸して白米と一緒に頬張った。露骨にゆっくり食べている。
まるで、奈緒の答えを待つみたいに。

奈緒は視線を泳がせ、言葉を探す。

「あ、あの」

口に出せば、もう誤魔化せない。また裕二を傷付ける。
それでも、どうしても、だけど迷う。

ーーだから。

「沖縄で、決めてきたいんです」

三浦は箸を揃え、奈緒を見詰めた。

「ん」