三浦主任の「ん」はずるい



その夜、奈緒は裕二の帰宅を起きて待つ。

「おかえり」
「あれ、寝てていいって言ったのに。起こした?」
「ううん。話したいこと、あって」
「今? 明日じゃ駄目? 結構、飲んでてさ」
 
深夜をまわろうとした頃、ほろよい気分でリビングに入ってきた裕二。
ネクタイを外し放り投げると、大きく息を吐く。

「接待、本当は嫌なんだ。奈緒はそういう付き合い無くなるから羨ましい」

テーブルのビーフシチューをさらに冷たくする言葉を投げかける。

「……お水、持ってくる」
「サンキュ」

奈緒はグラスが溢れる様子をしばらく眺めた。

「おい、こぼれてるって。服、濡れてない? タオルを」
「大丈夫、いらない」
「そ?」

すると裕二が背後から蛇口をしめ、冷蔵庫をあさってプリンを見付ける。

「てか、賞味期限切れてるじゃん。奈緒は値引き品食べなくていい、新しいのを買いなよ」

ごくごく飲みながら、期日の印字を弾く。

「一日くらい平気だよ」
「え、なに? なんか怒ってる?」
「話、したいって言ったんだけど」
「あ、あぁ、分かった、分かった。こちらへどうぞ、お姫様」

奈緒をエスコートし、椅子を引く真似する。クッションの上に座っても気持ちは弾むどころか、沈んでしまう。

「あのねーー」

裕二はスーツの上着を脱ぐ際、ポケットから手帳を落とす。みっちり書き込まれる予定が、奈緒の頭を真っ白にさせた。
その隙をつかれ、会話主導権は裕二へ。

「俺と結婚しても大丈夫か? やっていけるのかって不安にさせてるなら、ごめん」

抱き締められているのに、遠く感じてしまう。

「ゆっくり、ひとり旅しておいで。きっと落ち着く」

結婚式のために伸ばす髪を梳かれ、理想の花嫁像が剥がれていく。描いてきた未来の破片へ、奈緒の手は届かない。

「わたし、やっぱり仕事を続けたい」

裕二をそっと押し返す。が、すぐ引き戻される。

「は? そこは何度も相談したじゃないか? 奈緒が働かなくても生活できるようにする。俺を信じられないんだ?」
「違う、そうじゃない! 共働きは無理なのかな?」
「今になって言われても困る! 会社や両親になんて説明すればいい?」

酔っているのもあり、語気が強い。奈緒は吹き飛ばされないよう食い下がる。

「結婚が無理とは言ってないでしょ?」
「俺が無理なんだって! 条件、覚えてるよね?」
「条件って、そんな言い方しないで」

裕二が遮る風に手を翳す。

「俺の中で結婚と退職はセット。言葉を尽くして伝えてきたはずだ。奈緒も分かってくれたんじゃないの?」
「それは……」
「奈緒、ひどいよ」

裏切られた顔をして。主張は嘘偽りがなく、まっとうな正論。
価値観の擦り合わせを経てプロポーズを受けたのに、ひっくり返すのは奈緒だ。

「家族の形は色々あっていいとは思う。だけど」

ここで発言を切り、側にあったキャリーケースを奈緒の方へ転がす。まだパッキングはしていない。

「頭を冷やそうか。それで『おかえり』って言わせて」