三浦主任の「ん」はずるい

奈緒は役職が集うフロアへ向かう。カカトを鳴らす姿に、すれ違う社員らが振り返る。
人事部長と三浦が休憩室へ入っていくのが見え、奈緒は駆け寄った。

「なあ、いつになったら承認する?」
「ん」
「川村奈緒の退職届」

三浦の名を呼ぶより早く、自分の名を呼ばれて立ち止まる。

「手続きが進まないと、担当が言ってるんだが?」
「ん」
「『ん』じゃ分からない、俺は川村じゃないんだぞ。いい加減、申請してくれ」
「ん」

会話内容が額面通りならば、奈緒の退職届は受理されておらず、三浦のもとで止まっている。
なぜ、そんなことを? 奈緒に心当たりはない。周りも寿退社をすると認識してるのにだ。
ノックするポーズのまま、奈緒は動けなくなった。

「おや? ちょうどいい。本人の登場だ」

部長が気付き、ドアを開ける。コーヒーの湯気越しに三浦と目が合う。

「ん」
「いえ、わたしは……」

ひとこと伝えたいと息巻いたものの、部長がいるのもあって切り出しにくい。

「ん」

三浦が再度、着席を促す。

「では、私は失礼するよ」
「あ、でも」
「いいんだ、君が話してくれた方が早い。まだ口を付けてないから、どうぞ」

バトンみたいに、紙コップを渡される。
頭を深く下げ、奈緒はスイッチを切り替えた。

「会議は?」
「ん」
「では手短に」

言いながら、三浦の正面へ。考えてみると、奈緒の退職意向は「ん」と返されただけ。
採用面接に似た向き合い方は、奈緒の背筋を伸ばす。

「S社?」
「はい。どうして教えて下さらなかったんですか?」
「……ん」
「責めているわけじゃ。わたしは辞める人間ですし」
「ん」
「部長とのお話では、退職届が受理されてないと?」

三浦は答えない。沈黙からグリーミントの香りがする。

「わたしの入社動機、ご存知ですよね?」
「ん」
「でしたらーー」
「言えば、辞めないのか?」

今度は奈緒が黙る番になった。
S社の件を知ってから握ったままの拳を見る、三浦。

「手続きは今日中にしておく」

三浦は机の上で編んでいた指を解く。
バタンッと閉じる音がしてから、奈緒は口元を覆う。
『言えば、辞めないのか?』
その答えを言ってしまいそうで。