小さい頃から、
眠くなると耳を触る癖がある。
何なんだろう。
左じゃなくて、
決まって右耳。
考え事をしている時も、
ぼーっとしている時も、
気付けば耳に触れていた。
だから俺にとっては、
当たり前な習慣だった。
部活の休憩時間。
ベンチに座って、
水筒のスポーツドリンクを飲む。
夏のテニスコートは、
照り返しが強くて、
じっとしていても汗が流れた。
隣に、
先輩が座った。
タオルで首元の汗を拭きながら、
ふっと笑う。
その時、
初めて言われたんだ。
「潤ってさ、耳触る癖あるよね?」
……え。
驚いて顔を上げた。
俺、
今も触ってた?
慌てて手を離す。
無意識だった。
そんなところ、
見られてたなんて。
急に恥ずかしくなった。
先輩の名前は、
茉那。
同じテニス部。
テニス歴も長くて、
打つ姿がとにかく綺麗だった。
サーブ、
レシーブ、
ストローク。
ボールを打つまでの動きに、
無駄がない。
フォームだけ見ても、
上手いって分かる。
たぶん俺は、
そんな先輩を見る時間が
好きだった。
ベンチから、
コートを眺めて。
その間、
きっと無意識に
耳を触っていたんだろう。
「潤さ」
名前を呼ばれて、
反射みたいに返事をする。
「……はい!」
顔、
赤くなったかもしれない。
先輩は気付いてるのか、
気付いてないのか。
いつもの調子で言う。
「サーブの時さ、
ラケットどう握ってる?
見せて」
「こうですかね」
ラケットを構える。
「うーん。
もう少し面を立てて、
上から下に振り落とす感じ」
先輩は、
空中で軽く手を動かして見せた。
「その方が回転かかると思う」
「あ……
ありがとうございます」
「やってみな」
それだけ言って、
茉那先輩は先にコートへ戻った。
夏の日差しが強い。
……よし。
サーブ練習、
するか。
肩を回して立ち上がる。
その瞬間、
また無意識に右耳へ触れそうになって、
俺は少しだけ笑った。
このところの夏は、
本当に暑い。
土曜日の部活開始時間も、
七時からになった。
あ〜、疲れた。
部活が終わって、
木陰のベンチで少し休憩。
みんなは、
「お疲れー」
なんて言いながら、
バタバタ帰り始めていた。
でも俺は、
そのままベンチに横になる。
意外と、
この時間が好きなんだよな。
なんたって、
五時起きだ。
眠くもなる。
顔にタオルを乗せて、
日差しを遮る。
時々吹く風が、
心地よい。
気付けば俺は、
また右耳を触っていたはずだ。
昔からの癖。
眠い時ほど、
無意識になる。
……ん?
誰か、
俺の手に触れた?
違う。
手じゃない。
耳――?
「潤っ」
遠くで聞こえる声。
「潤っ、潤!!」
急に顔のタオルを取られて、
思わず目を細めた。
眩しい。
夏の日差しが、
一気に飛び込んでくる。
その向こうに見えたのは、
茉那先輩だった。
「潤、起きなよ」
少し笑った顔。
「ここでずっと寝る気?」
「……あ」
「一緒に帰ろ」
ほら、と
先輩が手を伸ばす。
俺の右耳の近くにあった手首を、
つかもうとして――
その指先が、
耳に触れた。
一瞬。
たぶん、
ほんの数秒もなかった。
でも。
体の奥が、
ぞわっとした。
びっくりしたとか、
くすぐったいとか、
そんな簡単なものじゃない。
誰にも触られたことがない場所を、
ずっと隠していた癖を、
急に見つけられたみたいで。
息が止まった。
「……っ」
俺を見て、
先輩が首を傾げる。
「え、どうした?」
違う。
どうしたのは、
俺の方だ。
胸の奥が、
変な感じがした。
茉那先輩とは、
途中の駅まで一緒だ。
前から時々見かけていた。
先輩はいつも凛としていて、
カッコいい。
歩く姿も、どこか目を引く。
きっとモテるだろうな。
そんな事を思いながら、
俺は少し離れて見ていた。
だから今日みたいに、
電車で隣に座っている自分に
違和感がある。
部活の話をしていたはずなのに、
電車の揺れが心地よくて、眠気がくる。
気付けば、
俺も先輩も寝ていた。
あと二駅で、
俺が先に降りる。
肩に重みを感じる。
茉那先輩が、
俺にもたれかかっていた。
いつもの先輩とは違う姿だった。
俺は
そのまま動けなくなっていた。
起こさないと、頭では
分かっているのに、動けない。
先輩、
めちゃくちゃいい匂いする。
ヤバい。
先輩を独り占めしているような、
そんな錯覚。
ちょっと嬉しい。
やがて、先輩が目を開ける。
「……潤? 今どこ?」
「次ですよ。
先輩が降りる駅です」
「えっ」
慌てて窓の外を見る。
「潤、降りてないの?」
「起こそうかと思ったんですけど」
「けど?」
「気持ちよさそうだったので」
少しだけ間が空く。
「俺、一緒に降りて戻ればいいかなって」
「もう、潤、優しすぎ」
その声が、妙に耳に残った。
先輩が手を振って、
俺を見送る。
小さく会釈をしながら
手を振り返す
――茉那先輩。
俺が先輩を気になり始めたのは、
高校に入って間もない頃だった。
春の大会。
応援で初めて見に行った試合
だった。
中学の大会とは違う空気。
淡々と試合が進んでいく。
コートの中には、
ただ二人だけがいる。
茉那先輩は、
負けそうな試合をひっくり返した。
それは、
派手な逆転じゃなかった。
一つずつ、
丁寧に積み重ねていくような戦い方だった。
ボールを拾い、
一度呼吸を整える。
視線を相手コートに置いたまま、
ボールを地面に落とす。
静かに構えて、
一瞬だけ体を反らせる。
そして、
ラインギリギリを狙った
サーブ。
目が離せなかった。
一本、一本が丁寧で、
どのラリーも、手を抜かない。
ミスは許されない。
ロブで体勢を立て直しながら、
次の一手を瞬間で選んでいく。
気付けば、
マッチポイントを引き寄せていた。
最後は、
相手のミスを誘って勝った。
茉那先輩が勝った。
その瞬間、
胸の奥が熱くなった。
ただの勝ち負けじゃなかった。
そこにあったのは、
一日で作れるものじゃない。
これまでの練習も、
積み重ねも、
全部がその一球に出ていた。
そう思ったら、
目が離せなかった。
ひたむきで、
真っ直ぐで。
まだ、
ほんの数ヶ月しか知らない先輩なのに。
――惹かれてしまった。
どうしようもなく。
二日後。
N北高校との練習試合が組まれた。
俺の課題の一つは、
サーブ。
茉那先輩に教えてもらった、
回転をかける打ち方。
あれを、
確実に入れられるようになりたい。
……少しだけ。
成長したところを、
見て欲しい気持ちもあった。
「よし」
小さく息を吐く。
「行ってくる」
……試合の結果は、
ファイナルで負けた。
あと少しだった。
何やってんだよ、俺。
勝てたかもしれないのに。
悔しさが、
じわじわ込み上げてくる。
次の試合を見ながら、
タオルで汗を拭く。
そのまま頭にかけて、
顔を隠した。
……今、
誰とも話したくない。
そう思った瞬間。
ぐいっ。
「痛っ」
突然、
右耳を引っ張られた。
反射的に振り向く。
「潤」
そこには、
茉那先輩がいた。
「サーブ、
上手くなってた」
え。
「回転かかってたし。前より全然いい」
予想してなかった言葉に、
一瞬固まる。
「……でも、負けちゃいました」
すると先輩は、
あっさり言った。
「まぁ、当たり前だね」
「え」
「潤、
まだまだ練習足りないから」
………。
でも。
「課題はあるけど、伸びしろはある」
そう言って、
また耳を軽く引っ張った。
「分かった?」
「……はい」
「明日から、
また気合い入れてくよ。いい?」
「はい」
返事をしたあと。
少し迷ってから、
俺は口を開いた。
「……茉那先輩」
「なに?」
「耳は、ダメです」
先輩がこっちをみる。
「え?」
「耳は……ダメなんです」
自分でも、
何言ってるんだろって思う。
でも、
本当だった。
昔から。
眠い時も、
落ち着きたい時も。
耳だけは、
触られると変になる。
………。
茉那先輩が、
ふっと笑った。
いたずらな子どもみたいに。
「なにそれ」
くすっと笑う。
「……いいこと聞いた」
その顔を見て。
あ。
と思った。
たぶん俺。
余計なこと、
言った。
あの日から。
練習は、
前よりずっときつく感じた。
ボールを追うたび、
汗が首を伝う。
息を吸っても、
熱気しか入ってこない。
休憩時間。
ベンチに座って、
スポーツドリンクを飲む。
ふと顔を上げた時だった。
茉那先輩が、
誰かと話している。
……高須先輩だ。
高須先輩は、
過去に関東大会まで行った
実力者。
プレーも上手いし、
後輩からの人気もある。
二人とも、爽やか。
そして自然で。
――あの二人、絵になるな。
胸の奥が、
ざわつく。
何だよ。
俺。
見ていられなくて、
立ち上がる。
ラケットを握り直して、
そのままコートへ戻った。
サーブ。
ひたすら、
サーブ。
ボールを上げる。
打つ。
また上げる。
打つ。
何、
妬いてるんだよ。
自分でも笑える。
気持ちを打ち消すみたいに、
サーブを打ち続けた。
パンッ。
パンッ。
……違う。
またミス。
くそ。
その時。
「ちょっと、潤っ!」
声がした。
驚いて振り向く。
そこにいたのは、
茉那先輩。
仁王立ち。
腕を組んで、
完全に先輩の顔をしてる。
「潤!」
ずかずか近付いてくる。
「そんなんじゃ、ダメでしょ」
ラケットを指差す。
「面と、グリップ!」
あ。
しまった。
フォーム、
崩れてた。
イラつく自分。
……人の気も知らないで。
すると。
先輩が、
急に目を細めた。
嫌な予感。
口元が、
ゆっくり上がる。
ニヤリ。
「潤」
「……はい」
「その顔」
一歩近付く。
「このままだと――」
わざとらしく考える顔。
そして。
「耳、触るぞ?」
……は?
反射で、
右耳を手で隠した。
その瞬間。
先輩が吹き出す。
「あははっ」
笑う先輩。
くそ。
本当に。
人の気も知らないで。
でも。
怒れない自分がいる。
それが、
もっと悔しかった。
練習時間も、
あと40分を切った頃だった。
コーチが手を叩く。
「よし。
最後、試合形式やって上がるぞ」
名前が、
次々呼ばれていく。
「Aコート…、」
コーチがメンバー表を見ながら、
何か言いかけて。
ふと、
俺を見た。
「……潤」
「はい」
「高須に相手してもらえ」
え。
一瞬、固まる。
「お前、
いい経験になるだろ」
「……はい!」
思わず声が大きくなる。
高須先輩。
あの、高須先輩。
初めて試合形式をやる。
ありがたい。
こんな機会、
そうない。
ルール説明が始まる。
「時間ないから、
男女交互で回すぞ」
「3ゲームマッチ。
2ゲーム先取したら交代。
次の試合のやつが審判」
部員たちが、
それぞれ動き始める。
ラケットを握り直す。
深呼吸。
その時。
審判台に座った
茉那先輩が見えた。
マジか。
なんで。
いや。
別に。
いつも通りやれば――
「潤」
高須先輩が、
ネット越しに軽く
「よろしくな」
余裕がある。
その一言だけで、
実力差を感じた。
「……お願いします!」
なんか
ダメだ。
落ち着け。
集中。
まずは、
ミスをしないこと。
一本ずつ。
丁寧に返す。
そして――
サーブを決める。
茉那先輩に教わった、
回転をかけるサーブ。
少しだけ。
少しだけでも。
成長したところを、
見せたい。
「じゃ、始めて」
コーチの声が響く。
俺は、
もう一度
グリップを持ち直した。
「ゲームセット」
茉那先輩の声とともに、
試合が終わった。
……何分だった?
あっという間だった。
これが、
関東大会に出た実力者か。
思い知らされた。
何も出来なかった。
甘い球は、
迷わず打ち込まれる。
展開が早い。
返したと思えば、
もう次を狙われている。
コートが、
いつもより広く感じた。
守っても、
追いつかない。
……これじゃ、だめだ。
「ありがとうございました」
ネット越しに頭を下げる。
「おう」
高須先輩は、
汗を拭きながら短く返した。
全然、
疲れてなさそうだった。
俺なんて、
汗だくなのに。
ラケットを持ったまま、
ベンチへ戻る。
茉那先輩の方は、
見なかった。
いや。
見れなかった。
木陰のベンチで、横になる。
今日の、
高須先輩との試合を思い出す。
不甲斐ない自分に、
拳へ力が入った。
……ふぅ。
息を吐く。
しょうがない。
下手な奴は、
練習するしかない。
でも。
悔しい。
くそっ。
腕で、
目を覆った。
その時だった。
ひやっ。
右頬から、
耳へと。
何かが、
ゆっくり触れた。
「っ……!?」
驚いて、
飛び起きる。
「先輩!?」
目の前で、
茉那先輩がケラケラ笑っていた。
「本当に、だめなんだね」
「え?」
「手、冷やしてたから。
気持ちよかったでしょ?」
「驚かさないでくださいよ……。
どうしたんすか?」
すると先輩は、
「どうした、じゃないわよ」
「……?」
「拗ねちゃって」
図星だった。
何も言えない。
「潤、まだまだね」
「それじゃ、
高須には勝てないわよ」
「……どうせ、勝てないっすよ」
思わず、
声が低くなる。
「こてんぱにやられたし」
「……先輩の前で、カッコ悪いし」
自分でも、
何言ってるんだと思った。
でも。
先輩は笑わなかった。
「そう?」
「カッコ悪くはなかったけど」
「え」
「食らいついてたじゃん」
「だから、
高須も手を抜かなかったんでしょ」
先輩が、俺を見る。
真っ直ぐ。
「分からないの? 潤くん?」
「……くん、
やめてくださいよ」
思わず顔をしかめる。
すると。
先輩が、小さく笑う。
「まだまだ、子どもだな」
「……ですね」
悔しいけど、
否定できない。
先輩が立ち上がる。
「はい。
帰るよ、潤」
「……茉那先輩」
「ん?」
呼び止める。
「さっきの」
「?」
「……もう一回だけ、
やってもらっていいですか」
先輩が、
目を丸くする。
「なにそれ」
笑う。
でも。
「しょうがないな」
そう言って、
冷えた指先が。
頬から。
ゆっくり、
右耳へ触れた。
びっくりするくらい、
優しかった。
俺は。
気付けば、
その手に自分の手を重ねていた。
覆うみたいに。
逃げないように。
茉那先輩の手は、
柔らかかった。
さっきまでの
悔しさも。
苛立ちも。
ふっと軽くなる。
……ああ。
俺。
この人に、
この人だけに、
弱いんだ。
一茉那一
N北高校との
練習試合の後。
高須から、告白された。
少し驚いた。
テニス上手いし、
頭いいし、話も合う。
きっと、
付き合ったら楽しい。
でも。
断った。
どうしてだろう。
少し考えて、
思った。
……なんかね。
気になる後輩がいるの。
不器用で。
真っ直ぐで。
悔しいと、
すぐ顔に出る。
決まって、
練習後には
木陰のベンチにいる。
放っておけないんだよね。
だから。
ごめんね、
高須。
今は、
その子が気になるんだ。
コーチから、
来週の合宿について話が出た。
「菅平合宿は、15校くらい集まる。
思い切ってプレイしろよ」
菅平合宿。
毎年、
強豪校も集まる。
試合数も多いし、
正直きつい。
「あと、朝は少し涼しいから。
上着、忘れるなよ」
今回は、
短めの二泊三日。
……とは言え。
かなりハードなスケジュールだ。
何試合もやって。
勝ち進めば、
最後はAコートに残れる。
Aコート。
そこにいるのは、
実力のある奴らばかり。
目標は、
Aコート。
やるしかない。
ラケットを握る手に、
力が入った。
合宿1日目。
気温もちょうどいい。
時々いい風も吹く。
よし。
やるか。
試合は、
思ったより動けた。
何とか、
2試合勝ち上がる。
気付けば、
Bコートまで来ていた。
他はどうなってるのか
ボードを見る。
……高須先輩は、
もうAコート。
さすがだな。
いや。
感心してる場合じゃない。
次の試合。
必ず勝って。
Aコートに
行ってみせる。
――昼食。
「潤、
午後からAコートじゃん」
顔を上げると、
テーブルの前に
茉那先輩が立っていた。
そのまま、
隣の席に座る。
「……茉那先輩は?」
聞くまでもないけど、
聞いてしまった。
「もちろん、
Aコートだよ」
さらっと答える。
「……ですよね」
思わず苦笑いする。
俺は、
やっとAコートまで来た。
でも。
Aコート初戦の相手は、
高須先輩がいるペア。
勝てる気がしない。
いや。
最初から負ける気でいたら、
もっとダメか。
すると。
「潤」
顔を上げる。
「顔、怖いよ」
茉那先輩が笑う。
「もっと、肩の力抜いて」
「……そんな顔してました?」
「してた」
恥ずかしい。
目を逸らそうとした時。
「大丈夫だよ、潤」
「私が、
応援してるんだから」
……え。
「私が見てるんだからね」
そう言って。
右耳を、
軽くつままれる。
「っ……」
「分かった?」
耳元で、
小さく囁く。
距離が近い。
近すぎる。
思わず、
先輩を見る。
すると。
ふふっ、
と笑って。
「じゃ。お先に〜」
何事もなかったみたいに、
席を立つ。
残された俺は。
しばらく動けなかった。
練習が終わって、
風呂に入り。
夕飯のあと、
休憩室でアイスを食べていた。
……もう少しだったな。
高須先輩との試合を思い出す。
ファイナルまでいった。
この前よりは、
簡単に勝たせなかったはずだ。
もう少し。
あと、
もう少しだった。
「美味しそうなアイス」
顔を上げる。
茉那先輩だった。
髪が少し濡れている。
風呂上がりなのか。
なんか、
いつもと違って見えた。
「一口ちょうだい」
返事を待たず、
俺のアイスを食べる。
「あっ……ダメですよ」
「いいじゃん」
先輩が笑う。
「応援したご褒美くらい、くれても」
「……負けちゃって、すみません」
ぽろっと出た言葉。
すると。
先輩が、
「なんで謝るの?」
「え」
「いい試合だったよ」
「次は、いけるかもね」
その言い方が、
素直に嬉しかった。
「……はい」
「もし俺が、勝ってたら」
先輩を見る。
「ご褒美、もらえましたかね」
冗談半分。
でも。
半分は、
本気だった。
「そうだなぁ」
先輩が考える。
それから。
笑って。
俺の前に立った。
手が、
頬に触れる。
そのまま。
右耳へ。
「っ……」
驚いて顔を上げる。
すると。
もう片方の手も、
反対側に添えられた。
「潤」
いつもより、
静かな声。
「頑張ったね」
たった、
それだけ。
でも。
その言葉が、
今日一番嬉しかった。
「じゃ、
髪乾かしてくるから」
何事もなかったみたいに、
先輩は戻っていく。
残された俺は。
溶けかけたアイスを
持ったまま、
しばらく動けなかった。
二日目。
何とか、
Aコートを維持している。
次の試合まで、
少し休憩。
ふと見ると。
ちょうど、
茉那先輩が試合をしていた。
……あれ。
なんか、変だな。
先輩のミスが続いてる。
動きも、
いつもより良くない。
「チェンジコート」
その声と同時に、
俺は立ち上がった。
「茉那先輩っ」
近付くと、
顔色が悪い。
「大丈夫すか?」
返事が、
少し遅い。
「ちょっと、座って」
持ってきていた氷嚢を、
先輩の首元に当てる。
「……水分、
取ってました?」
先輩が苦笑いする。
「少し、
少なかったかも」
「スポドリ、
持ってきますから」
立ち上がる。
「あと、
審判にも伝えてくるんで」
「……分かった」
小さく笑う。
「ありがと」
木陰のベンチ。
先輩を座らせて、
俺は走った。
後ろから声がする。
「潤も、
次の試合あるでしょ」
振り返る。
「はい」
それから。
「……すぐ戻ってきますから」
少し考えて、付け足した。
「だから、
ちゃんと横になっててくださいよ。
茉那先輩」
試合が終わって、
様子を見に行った頃には、
先輩の顔色は、
だいぶ良くなっていた。
「茉那先輩、どう?」
「うん。
だいぶ良くなった」
小さく息を吐いて
「ありがとね」
それから先輩が、
ぽつりと言う。
「あそこで止めてもらってなかったら、
危なかったかも」
笑う。
でも。
少しだけ、
悔しそうだった。
「脱水、なりかけてたって」
「……」
「自己管理失格だね。
あーあ。情けない」
そんな顔、
初めて見た。
「でも」
「俺が、
最初に気付けて良かったです」
ベンチに置かれた先輩の手に、
軽く触れた。
握る、
というより。
大丈夫か、
確かめるみたいに。
「茉那先輩も、無理すると、
ダメなんですね」
すると。
先輩が、
ふっと笑った。
「……そうなのかもね」
その笑い方見たら、
放っとけなくなるよ、先輩。
三日間の合宿が、
無事に終わった。
……いや、
無事かどうかは分からない。
疲れた。
他校、
めちゃくちゃ強かったな。
もっと練習しないと。
そう思わせてくれた合宿だった。
帰りの電車。
偶然、
茉那先輩と一緒になった。
最初こそ話したけど
やっぱり疲れが出てきて
俺も先輩も寝てしまった。
ふと起きると、
次が俺の降りる駅。
肩に、
重みを感じる。
見ると。
茉那先輩が、
俺にもたれかかっていた。
今日も。
折り返して帰ることになりそうだ。
そんな事を思った時。
電車が橋を渡ろうとして、
大きく揺れた。
ぐらっ。
「……っ」
一瞬。
先輩が目を開ける。
でも。
すぐ、
また閉じた。
その時だった。
不意に。
俺の手を、
先輩が握った。
……え。
驚いて、
顔を見る。
寝ぼけてるのか。
それとも。
違う?
分からない。
でも。
俺は。
その手を、
ゆっくり握り返した。
もう、
もう。
気持ちを抑えるのが、
難しくなっていた。
「……先輩」
茉那先輩っ。
「次、降りますよ」
起きてください。
握った手を、
軽く揺らす。
手……、離したくないな。
先輩が、
ゆっくり目を開ける。
でも。
手は、
離れなかった。
そのまま。
二人で電車を降りた。
合宿帰りの荷物は重い。
階段を降りようとした時、
ふらっ。
「……っ」
大きな荷物を抱えた先輩が、
少しよろける。
「危ないですよ、先輩っ」
とっさに、腕を引く。
気付けば。
抱き合うみたいな距離に、
なってしまった。
「……ごめん、ごめん」
そう言って
先輩は俺を見た。
近いし。
ヤバい。
「潤」
「……はい?」
「顔、赤いよ」
からかうみたいに。
「元からです。」
先輩が笑う。
でも、
その後、
少し間が空いて。
先輩が、
ぽつりと言った。
「……もうちょっと」
「もうちょっと、一緒にいたいな」
そう言い、
また、俺を見た。
おそらく、
いや、
絶対、
さっきより赤くなってたに
違いない。
特段、
何を話す訳でもないけど。
駅前のファーストフードに入って、
ドリンクを飲んでいる。
テーブル席じゃなくて。
隣に座れる、
カウンター席。
「潤。」
「はい」
「私、
この間、高須から告白された」
「えっ……!」
思わず、
先輩を見る。
「いつ?」
「N北高校との
練習試合が終わってから」
「……で、
どうしたんですか?」
少し間が空く。
先輩は、
さらっと言った。
「付き合ってる」
「えっ」
「……本当に?」
茉那先輩が、
俺の顔を見る。
それから。
笑った。
「うそ」
「付き合ってない」
「……本当ですか?」
「本当」
「ちょっと、焦りますよ」
「茉那先輩、
そういう冗談よくないです。
本当に焦るから」
「ごめん、ごめん」
先輩が笑う。
でも。
少しして。
「だってさ」
「……?」
「潤にとって、私は」
………、
「テニスの先輩でしょ?」
俺は、
返事が出来なかった。
そんな訳、ないのに。
「……違う?」
先輩が、聞き直した。
「茉那先輩」
「ん?」
「俺」
息を吐く。
「右耳、
触る癖あるじゃないですか」
「うん」
「あれ、今まで誰からも
言われたことなくて」
先輩は、黙って聞いている。
「気付いた人は、
いたのかもしれないけど」
「でも、一人も言ってこなかった」
カップを持つ手に、
少し力が入る。
「多分、
人との距離を取る癖もあって」
苦笑いする。
「ちょっと、
協調性に欠けるっていうか」
すると。
先輩が、すぐ返した。
「そうね」
「……え?」
「一人で、ベンチで寝たりもするし」
思わず笑う。
「それも、ありますね」
少しだけ、
空気が柔らかくなる。
でも。
「無意識に」
「ボーっとしたり、
不安だったりすると」
「耳、触る癖があったんです」
「それを」
顔を上げる。
「茉那先輩は、わざわざ言ってきた」
「……」
「言わなくても良いことでしょ?」
先輩が、
こっちを見る。
「俺ね」
「先輩の、
テニスしてる姿も好きだけど」
「こうやって」
「俺の所に、
寄り添って来てくれたのが」
「……嬉しくて」
息を吸う。
そして。
「たまらなく、惹かれてる」
気付けば。
一気に、話していた。
ドリンクを飲み干し、
俺は、
茉那先輩を、見た。
潤が、
私を見てくれてるのは分かってた。
でも。
それが、
テニス部の先輩としてなのか。
それとも。
違うのか。
自信が、なかった。
潤って、肝心なところ、
なかなか言葉にしないし。
だから。
少しくらい。
困らせても、
いいかなって思った。
「……違う?」
聞き返す。
そう言って、
茉那先輩は俺の顔を覗き込む。
「じゃあ」
潤が言う。
「今度会うときまで、
お楽しみにしていてください」
「言えるの?」
「大丈夫です。任せてください」
「耳、触りながら言わないでよ」
先輩が笑う。
「今度から」
「耳じゃなくて、
茉那先輩の手、握るし」
「……だから」
「不安になることも、ないし」
「不安にさせないから」
「ふふ」
笑う。
「期待してます、潤くん」
俺は、
少し照れながら
茉那先輩の手を引いて、
一緒に
店を出た。
眠くなると耳を触る癖がある。
何なんだろう。
左じゃなくて、
決まって右耳。
考え事をしている時も、
ぼーっとしている時も、
気付けば耳に触れていた。
だから俺にとっては、
当たり前な習慣だった。
部活の休憩時間。
ベンチに座って、
水筒のスポーツドリンクを飲む。
夏のテニスコートは、
照り返しが強くて、
じっとしていても汗が流れた。
隣に、
先輩が座った。
タオルで首元の汗を拭きながら、
ふっと笑う。
その時、
初めて言われたんだ。
「潤ってさ、耳触る癖あるよね?」
……え。
驚いて顔を上げた。
俺、
今も触ってた?
慌てて手を離す。
無意識だった。
そんなところ、
見られてたなんて。
急に恥ずかしくなった。
先輩の名前は、
茉那。
同じテニス部。
テニス歴も長くて、
打つ姿がとにかく綺麗だった。
サーブ、
レシーブ、
ストローク。
ボールを打つまでの動きに、
無駄がない。
フォームだけ見ても、
上手いって分かる。
たぶん俺は、
そんな先輩を見る時間が
好きだった。
ベンチから、
コートを眺めて。
その間、
きっと無意識に
耳を触っていたんだろう。
「潤さ」
名前を呼ばれて、
反射みたいに返事をする。
「……はい!」
顔、
赤くなったかもしれない。
先輩は気付いてるのか、
気付いてないのか。
いつもの調子で言う。
「サーブの時さ、
ラケットどう握ってる?
見せて」
「こうですかね」
ラケットを構える。
「うーん。
もう少し面を立てて、
上から下に振り落とす感じ」
先輩は、
空中で軽く手を動かして見せた。
「その方が回転かかると思う」
「あ……
ありがとうございます」
「やってみな」
それだけ言って、
茉那先輩は先にコートへ戻った。
夏の日差しが強い。
……よし。
サーブ練習、
するか。
肩を回して立ち上がる。
その瞬間、
また無意識に右耳へ触れそうになって、
俺は少しだけ笑った。
このところの夏は、
本当に暑い。
土曜日の部活開始時間も、
七時からになった。
あ〜、疲れた。
部活が終わって、
木陰のベンチで少し休憩。
みんなは、
「お疲れー」
なんて言いながら、
バタバタ帰り始めていた。
でも俺は、
そのままベンチに横になる。
意外と、
この時間が好きなんだよな。
なんたって、
五時起きだ。
眠くもなる。
顔にタオルを乗せて、
日差しを遮る。
時々吹く風が、
心地よい。
気付けば俺は、
また右耳を触っていたはずだ。
昔からの癖。
眠い時ほど、
無意識になる。
……ん?
誰か、
俺の手に触れた?
違う。
手じゃない。
耳――?
「潤っ」
遠くで聞こえる声。
「潤っ、潤!!」
急に顔のタオルを取られて、
思わず目を細めた。
眩しい。
夏の日差しが、
一気に飛び込んでくる。
その向こうに見えたのは、
茉那先輩だった。
「潤、起きなよ」
少し笑った顔。
「ここでずっと寝る気?」
「……あ」
「一緒に帰ろ」
ほら、と
先輩が手を伸ばす。
俺の右耳の近くにあった手首を、
つかもうとして――
その指先が、
耳に触れた。
一瞬。
たぶん、
ほんの数秒もなかった。
でも。
体の奥が、
ぞわっとした。
びっくりしたとか、
くすぐったいとか、
そんな簡単なものじゃない。
誰にも触られたことがない場所を、
ずっと隠していた癖を、
急に見つけられたみたいで。
息が止まった。
「……っ」
俺を見て、
先輩が首を傾げる。
「え、どうした?」
違う。
どうしたのは、
俺の方だ。
胸の奥が、
変な感じがした。
茉那先輩とは、
途中の駅まで一緒だ。
前から時々見かけていた。
先輩はいつも凛としていて、
カッコいい。
歩く姿も、どこか目を引く。
きっとモテるだろうな。
そんな事を思いながら、
俺は少し離れて見ていた。
だから今日みたいに、
電車で隣に座っている自分に
違和感がある。
部活の話をしていたはずなのに、
電車の揺れが心地よくて、眠気がくる。
気付けば、
俺も先輩も寝ていた。
あと二駅で、
俺が先に降りる。
肩に重みを感じる。
茉那先輩が、
俺にもたれかかっていた。
いつもの先輩とは違う姿だった。
俺は
そのまま動けなくなっていた。
起こさないと、頭では
分かっているのに、動けない。
先輩、
めちゃくちゃいい匂いする。
ヤバい。
先輩を独り占めしているような、
そんな錯覚。
ちょっと嬉しい。
やがて、先輩が目を開ける。
「……潤? 今どこ?」
「次ですよ。
先輩が降りる駅です」
「えっ」
慌てて窓の外を見る。
「潤、降りてないの?」
「起こそうかと思ったんですけど」
「けど?」
「気持ちよさそうだったので」
少しだけ間が空く。
「俺、一緒に降りて戻ればいいかなって」
「もう、潤、優しすぎ」
その声が、妙に耳に残った。
先輩が手を振って、
俺を見送る。
小さく会釈をしながら
手を振り返す
――茉那先輩。
俺が先輩を気になり始めたのは、
高校に入って間もない頃だった。
春の大会。
応援で初めて見に行った試合
だった。
中学の大会とは違う空気。
淡々と試合が進んでいく。
コートの中には、
ただ二人だけがいる。
茉那先輩は、
負けそうな試合をひっくり返した。
それは、
派手な逆転じゃなかった。
一つずつ、
丁寧に積み重ねていくような戦い方だった。
ボールを拾い、
一度呼吸を整える。
視線を相手コートに置いたまま、
ボールを地面に落とす。
静かに構えて、
一瞬だけ体を反らせる。
そして、
ラインギリギリを狙った
サーブ。
目が離せなかった。
一本、一本が丁寧で、
どのラリーも、手を抜かない。
ミスは許されない。
ロブで体勢を立て直しながら、
次の一手を瞬間で選んでいく。
気付けば、
マッチポイントを引き寄せていた。
最後は、
相手のミスを誘って勝った。
茉那先輩が勝った。
その瞬間、
胸の奥が熱くなった。
ただの勝ち負けじゃなかった。
そこにあったのは、
一日で作れるものじゃない。
これまでの練習も、
積み重ねも、
全部がその一球に出ていた。
そう思ったら、
目が離せなかった。
ひたむきで、
真っ直ぐで。
まだ、
ほんの数ヶ月しか知らない先輩なのに。
――惹かれてしまった。
どうしようもなく。
二日後。
N北高校との練習試合が組まれた。
俺の課題の一つは、
サーブ。
茉那先輩に教えてもらった、
回転をかける打ち方。
あれを、
確実に入れられるようになりたい。
……少しだけ。
成長したところを、
見て欲しい気持ちもあった。
「よし」
小さく息を吐く。
「行ってくる」
……試合の結果は、
ファイナルで負けた。
あと少しだった。
何やってんだよ、俺。
勝てたかもしれないのに。
悔しさが、
じわじわ込み上げてくる。
次の試合を見ながら、
タオルで汗を拭く。
そのまま頭にかけて、
顔を隠した。
……今、
誰とも話したくない。
そう思った瞬間。
ぐいっ。
「痛っ」
突然、
右耳を引っ張られた。
反射的に振り向く。
「潤」
そこには、
茉那先輩がいた。
「サーブ、
上手くなってた」
え。
「回転かかってたし。前より全然いい」
予想してなかった言葉に、
一瞬固まる。
「……でも、負けちゃいました」
すると先輩は、
あっさり言った。
「まぁ、当たり前だね」
「え」
「潤、
まだまだ練習足りないから」
………。
でも。
「課題はあるけど、伸びしろはある」
そう言って、
また耳を軽く引っ張った。
「分かった?」
「……はい」
「明日から、
また気合い入れてくよ。いい?」
「はい」
返事をしたあと。
少し迷ってから、
俺は口を開いた。
「……茉那先輩」
「なに?」
「耳は、ダメです」
先輩がこっちをみる。
「え?」
「耳は……ダメなんです」
自分でも、
何言ってるんだろって思う。
でも、
本当だった。
昔から。
眠い時も、
落ち着きたい時も。
耳だけは、
触られると変になる。
………。
茉那先輩が、
ふっと笑った。
いたずらな子どもみたいに。
「なにそれ」
くすっと笑う。
「……いいこと聞いた」
その顔を見て。
あ。
と思った。
たぶん俺。
余計なこと、
言った。
あの日から。
練習は、
前よりずっときつく感じた。
ボールを追うたび、
汗が首を伝う。
息を吸っても、
熱気しか入ってこない。
休憩時間。
ベンチに座って、
スポーツドリンクを飲む。
ふと顔を上げた時だった。
茉那先輩が、
誰かと話している。
……高須先輩だ。
高須先輩は、
過去に関東大会まで行った
実力者。
プレーも上手いし、
後輩からの人気もある。
二人とも、爽やか。
そして自然で。
――あの二人、絵になるな。
胸の奥が、
ざわつく。
何だよ。
俺。
見ていられなくて、
立ち上がる。
ラケットを握り直して、
そのままコートへ戻った。
サーブ。
ひたすら、
サーブ。
ボールを上げる。
打つ。
また上げる。
打つ。
何、
妬いてるんだよ。
自分でも笑える。
気持ちを打ち消すみたいに、
サーブを打ち続けた。
パンッ。
パンッ。
……違う。
またミス。
くそ。
その時。
「ちょっと、潤っ!」
声がした。
驚いて振り向く。
そこにいたのは、
茉那先輩。
仁王立ち。
腕を組んで、
完全に先輩の顔をしてる。
「潤!」
ずかずか近付いてくる。
「そんなんじゃ、ダメでしょ」
ラケットを指差す。
「面と、グリップ!」
あ。
しまった。
フォーム、
崩れてた。
イラつく自分。
……人の気も知らないで。
すると。
先輩が、
急に目を細めた。
嫌な予感。
口元が、
ゆっくり上がる。
ニヤリ。
「潤」
「……はい」
「その顔」
一歩近付く。
「このままだと――」
わざとらしく考える顔。
そして。
「耳、触るぞ?」
……は?
反射で、
右耳を手で隠した。
その瞬間。
先輩が吹き出す。
「あははっ」
笑う先輩。
くそ。
本当に。
人の気も知らないで。
でも。
怒れない自分がいる。
それが、
もっと悔しかった。
練習時間も、
あと40分を切った頃だった。
コーチが手を叩く。
「よし。
最後、試合形式やって上がるぞ」
名前が、
次々呼ばれていく。
「Aコート…、」
コーチがメンバー表を見ながら、
何か言いかけて。
ふと、
俺を見た。
「……潤」
「はい」
「高須に相手してもらえ」
え。
一瞬、固まる。
「お前、
いい経験になるだろ」
「……はい!」
思わず声が大きくなる。
高須先輩。
あの、高須先輩。
初めて試合形式をやる。
ありがたい。
こんな機会、
そうない。
ルール説明が始まる。
「時間ないから、
男女交互で回すぞ」
「3ゲームマッチ。
2ゲーム先取したら交代。
次の試合のやつが審判」
部員たちが、
それぞれ動き始める。
ラケットを握り直す。
深呼吸。
その時。
審判台に座った
茉那先輩が見えた。
マジか。
なんで。
いや。
別に。
いつも通りやれば――
「潤」
高須先輩が、
ネット越しに軽く
「よろしくな」
余裕がある。
その一言だけで、
実力差を感じた。
「……お願いします!」
なんか
ダメだ。
落ち着け。
集中。
まずは、
ミスをしないこと。
一本ずつ。
丁寧に返す。
そして――
サーブを決める。
茉那先輩に教わった、
回転をかけるサーブ。
少しだけ。
少しだけでも。
成長したところを、
見せたい。
「じゃ、始めて」
コーチの声が響く。
俺は、
もう一度
グリップを持ち直した。
「ゲームセット」
茉那先輩の声とともに、
試合が終わった。
……何分だった?
あっという間だった。
これが、
関東大会に出た実力者か。
思い知らされた。
何も出来なかった。
甘い球は、
迷わず打ち込まれる。
展開が早い。
返したと思えば、
もう次を狙われている。
コートが、
いつもより広く感じた。
守っても、
追いつかない。
……これじゃ、だめだ。
「ありがとうございました」
ネット越しに頭を下げる。
「おう」
高須先輩は、
汗を拭きながら短く返した。
全然、
疲れてなさそうだった。
俺なんて、
汗だくなのに。
ラケットを持ったまま、
ベンチへ戻る。
茉那先輩の方は、
見なかった。
いや。
見れなかった。
木陰のベンチで、横になる。
今日の、
高須先輩との試合を思い出す。
不甲斐ない自分に、
拳へ力が入った。
……ふぅ。
息を吐く。
しょうがない。
下手な奴は、
練習するしかない。
でも。
悔しい。
くそっ。
腕で、
目を覆った。
その時だった。
ひやっ。
右頬から、
耳へと。
何かが、
ゆっくり触れた。
「っ……!?」
驚いて、
飛び起きる。
「先輩!?」
目の前で、
茉那先輩がケラケラ笑っていた。
「本当に、だめなんだね」
「え?」
「手、冷やしてたから。
気持ちよかったでしょ?」
「驚かさないでくださいよ……。
どうしたんすか?」
すると先輩は、
「どうした、じゃないわよ」
「……?」
「拗ねちゃって」
図星だった。
何も言えない。
「潤、まだまだね」
「それじゃ、
高須には勝てないわよ」
「……どうせ、勝てないっすよ」
思わず、
声が低くなる。
「こてんぱにやられたし」
「……先輩の前で、カッコ悪いし」
自分でも、
何言ってるんだと思った。
でも。
先輩は笑わなかった。
「そう?」
「カッコ悪くはなかったけど」
「え」
「食らいついてたじゃん」
「だから、
高須も手を抜かなかったんでしょ」
先輩が、俺を見る。
真っ直ぐ。
「分からないの? 潤くん?」
「……くん、
やめてくださいよ」
思わず顔をしかめる。
すると。
先輩が、小さく笑う。
「まだまだ、子どもだな」
「……ですね」
悔しいけど、
否定できない。
先輩が立ち上がる。
「はい。
帰るよ、潤」
「……茉那先輩」
「ん?」
呼び止める。
「さっきの」
「?」
「……もう一回だけ、
やってもらっていいですか」
先輩が、
目を丸くする。
「なにそれ」
笑う。
でも。
「しょうがないな」
そう言って、
冷えた指先が。
頬から。
ゆっくり、
右耳へ触れた。
びっくりするくらい、
優しかった。
俺は。
気付けば、
その手に自分の手を重ねていた。
覆うみたいに。
逃げないように。
茉那先輩の手は、
柔らかかった。
さっきまでの
悔しさも。
苛立ちも。
ふっと軽くなる。
……ああ。
俺。
この人に、
この人だけに、
弱いんだ。
一茉那一
N北高校との
練習試合の後。
高須から、告白された。
少し驚いた。
テニス上手いし、
頭いいし、話も合う。
きっと、
付き合ったら楽しい。
でも。
断った。
どうしてだろう。
少し考えて、
思った。
……なんかね。
気になる後輩がいるの。
不器用で。
真っ直ぐで。
悔しいと、
すぐ顔に出る。
決まって、
練習後には
木陰のベンチにいる。
放っておけないんだよね。
だから。
ごめんね、
高須。
今は、
その子が気になるんだ。
コーチから、
来週の合宿について話が出た。
「菅平合宿は、15校くらい集まる。
思い切ってプレイしろよ」
菅平合宿。
毎年、
強豪校も集まる。
試合数も多いし、
正直きつい。
「あと、朝は少し涼しいから。
上着、忘れるなよ」
今回は、
短めの二泊三日。
……とは言え。
かなりハードなスケジュールだ。
何試合もやって。
勝ち進めば、
最後はAコートに残れる。
Aコート。
そこにいるのは、
実力のある奴らばかり。
目標は、
Aコート。
やるしかない。
ラケットを握る手に、
力が入った。
合宿1日目。
気温もちょうどいい。
時々いい風も吹く。
よし。
やるか。
試合は、
思ったより動けた。
何とか、
2試合勝ち上がる。
気付けば、
Bコートまで来ていた。
他はどうなってるのか
ボードを見る。
……高須先輩は、
もうAコート。
さすがだな。
いや。
感心してる場合じゃない。
次の試合。
必ず勝って。
Aコートに
行ってみせる。
――昼食。
「潤、
午後からAコートじゃん」
顔を上げると、
テーブルの前に
茉那先輩が立っていた。
そのまま、
隣の席に座る。
「……茉那先輩は?」
聞くまでもないけど、
聞いてしまった。
「もちろん、
Aコートだよ」
さらっと答える。
「……ですよね」
思わず苦笑いする。
俺は、
やっとAコートまで来た。
でも。
Aコート初戦の相手は、
高須先輩がいるペア。
勝てる気がしない。
いや。
最初から負ける気でいたら、
もっとダメか。
すると。
「潤」
顔を上げる。
「顔、怖いよ」
茉那先輩が笑う。
「もっと、肩の力抜いて」
「……そんな顔してました?」
「してた」
恥ずかしい。
目を逸らそうとした時。
「大丈夫だよ、潤」
「私が、
応援してるんだから」
……え。
「私が見てるんだからね」
そう言って。
右耳を、
軽くつままれる。
「っ……」
「分かった?」
耳元で、
小さく囁く。
距離が近い。
近すぎる。
思わず、
先輩を見る。
すると。
ふふっ、
と笑って。
「じゃ。お先に〜」
何事もなかったみたいに、
席を立つ。
残された俺は。
しばらく動けなかった。
練習が終わって、
風呂に入り。
夕飯のあと、
休憩室でアイスを食べていた。
……もう少しだったな。
高須先輩との試合を思い出す。
ファイナルまでいった。
この前よりは、
簡単に勝たせなかったはずだ。
もう少し。
あと、
もう少しだった。
「美味しそうなアイス」
顔を上げる。
茉那先輩だった。
髪が少し濡れている。
風呂上がりなのか。
なんか、
いつもと違って見えた。
「一口ちょうだい」
返事を待たず、
俺のアイスを食べる。
「あっ……ダメですよ」
「いいじゃん」
先輩が笑う。
「応援したご褒美くらい、くれても」
「……負けちゃって、すみません」
ぽろっと出た言葉。
すると。
先輩が、
「なんで謝るの?」
「え」
「いい試合だったよ」
「次は、いけるかもね」
その言い方が、
素直に嬉しかった。
「……はい」
「もし俺が、勝ってたら」
先輩を見る。
「ご褒美、もらえましたかね」
冗談半分。
でも。
半分は、
本気だった。
「そうだなぁ」
先輩が考える。
それから。
笑って。
俺の前に立った。
手が、
頬に触れる。
そのまま。
右耳へ。
「っ……」
驚いて顔を上げる。
すると。
もう片方の手も、
反対側に添えられた。
「潤」
いつもより、
静かな声。
「頑張ったね」
たった、
それだけ。
でも。
その言葉が、
今日一番嬉しかった。
「じゃ、
髪乾かしてくるから」
何事もなかったみたいに、
先輩は戻っていく。
残された俺は。
溶けかけたアイスを
持ったまま、
しばらく動けなかった。
二日目。
何とか、
Aコートを維持している。
次の試合まで、
少し休憩。
ふと見ると。
ちょうど、
茉那先輩が試合をしていた。
……あれ。
なんか、変だな。
先輩のミスが続いてる。
動きも、
いつもより良くない。
「チェンジコート」
その声と同時に、
俺は立ち上がった。
「茉那先輩っ」
近付くと、
顔色が悪い。
「大丈夫すか?」
返事が、
少し遅い。
「ちょっと、座って」
持ってきていた氷嚢を、
先輩の首元に当てる。
「……水分、
取ってました?」
先輩が苦笑いする。
「少し、
少なかったかも」
「スポドリ、
持ってきますから」
立ち上がる。
「あと、
審判にも伝えてくるんで」
「……分かった」
小さく笑う。
「ありがと」
木陰のベンチ。
先輩を座らせて、
俺は走った。
後ろから声がする。
「潤も、
次の試合あるでしょ」
振り返る。
「はい」
それから。
「……すぐ戻ってきますから」
少し考えて、付け足した。
「だから、
ちゃんと横になっててくださいよ。
茉那先輩」
試合が終わって、
様子を見に行った頃には、
先輩の顔色は、
だいぶ良くなっていた。
「茉那先輩、どう?」
「うん。
だいぶ良くなった」
小さく息を吐いて
「ありがとね」
それから先輩が、
ぽつりと言う。
「あそこで止めてもらってなかったら、
危なかったかも」
笑う。
でも。
少しだけ、
悔しそうだった。
「脱水、なりかけてたって」
「……」
「自己管理失格だね。
あーあ。情けない」
そんな顔、
初めて見た。
「でも」
「俺が、
最初に気付けて良かったです」
ベンチに置かれた先輩の手に、
軽く触れた。
握る、
というより。
大丈夫か、
確かめるみたいに。
「茉那先輩も、無理すると、
ダメなんですね」
すると。
先輩が、
ふっと笑った。
「……そうなのかもね」
その笑い方見たら、
放っとけなくなるよ、先輩。
三日間の合宿が、
無事に終わった。
……いや、
無事かどうかは分からない。
疲れた。
他校、
めちゃくちゃ強かったな。
もっと練習しないと。
そう思わせてくれた合宿だった。
帰りの電車。
偶然、
茉那先輩と一緒になった。
最初こそ話したけど
やっぱり疲れが出てきて
俺も先輩も寝てしまった。
ふと起きると、
次が俺の降りる駅。
肩に、
重みを感じる。
見ると。
茉那先輩が、
俺にもたれかかっていた。
今日も。
折り返して帰ることになりそうだ。
そんな事を思った時。
電車が橋を渡ろうとして、
大きく揺れた。
ぐらっ。
「……っ」
一瞬。
先輩が目を開ける。
でも。
すぐ、
また閉じた。
その時だった。
不意に。
俺の手を、
先輩が握った。
……え。
驚いて、
顔を見る。
寝ぼけてるのか。
それとも。
違う?
分からない。
でも。
俺は。
その手を、
ゆっくり握り返した。
もう、
もう。
気持ちを抑えるのが、
難しくなっていた。
「……先輩」
茉那先輩っ。
「次、降りますよ」
起きてください。
握った手を、
軽く揺らす。
手……、離したくないな。
先輩が、
ゆっくり目を開ける。
でも。
手は、
離れなかった。
そのまま。
二人で電車を降りた。
合宿帰りの荷物は重い。
階段を降りようとした時、
ふらっ。
「……っ」
大きな荷物を抱えた先輩が、
少しよろける。
「危ないですよ、先輩っ」
とっさに、腕を引く。
気付けば。
抱き合うみたいな距離に、
なってしまった。
「……ごめん、ごめん」
そう言って
先輩は俺を見た。
近いし。
ヤバい。
「潤」
「……はい?」
「顔、赤いよ」
からかうみたいに。
「元からです。」
先輩が笑う。
でも、
その後、
少し間が空いて。
先輩が、
ぽつりと言った。
「……もうちょっと」
「もうちょっと、一緒にいたいな」
そう言い、
また、俺を見た。
おそらく、
いや、
絶対、
さっきより赤くなってたに
違いない。
特段、
何を話す訳でもないけど。
駅前のファーストフードに入って、
ドリンクを飲んでいる。
テーブル席じゃなくて。
隣に座れる、
カウンター席。
「潤。」
「はい」
「私、
この間、高須から告白された」
「えっ……!」
思わず、
先輩を見る。
「いつ?」
「N北高校との
練習試合が終わってから」
「……で、
どうしたんですか?」
少し間が空く。
先輩は、
さらっと言った。
「付き合ってる」
「えっ」
「……本当に?」
茉那先輩が、
俺の顔を見る。
それから。
笑った。
「うそ」
「付き合ってない」
「……本当ですか?」
「本当」
「ちょっと、焦りますよ」
「茉那先輩、
そういう冗談よくないです。
本当に焦るから」
「ごめん、ごめん」
先輩が笑う。
でも。
少しして。
「だってさ」
「……?」
「潤にとって、私は」
………、
「テニスの先輩でしょ?」
俺は、
返事が出来なかった。
そんな訳、ないのに。
「……違う?」
先輩が、聞き直した。
「茉那先輩」
「ん?」
「俺」
息を吐く。
「右耳、
触る癖あるじゃないですか」
「うん」
「あれ、今まで誰からも
言われたことなくて」
先輩は、黙って聞いている。
「気付いた人は、
いたのかもしれないけど」
「でも、一人も言ってこなかった」
カップを持つ手に、
少し力が入る。
「多分、
人との距離を取る癖もあって」
苦笑いする。
「ちょっと、
協調性に欠けるっていうか」
すると。
先輩が、すぐ返した。
「そうね」
「……え?」
「一人で、ベンチで寝たりもするし」
思わず笑う。
「それも、ありますね」
少しだけ、
空気が柔らかくなる。
でも。
「無意識に」
「ボーっとしたり、
不安だったりすると」
「耳、触る癖があったんです」
「それを」
顔を上げる。
「茉那先輩は、わざわざ言ってきた」
「……」
「言わなくても良いことでしょ?」
先輩が、
こっちを見る。
「俺ね」
「先輩の、
テニスしてる姿も好きだけど」
「こうやって」
「俺の所に、
寄り添って来てくれたのが」
「……嬉しくて」
息を吸う。
そして。
「たまらなく、惹かれてる」
気付けば。
一気に、話していた。
ドリンクを飲み干し、
俺は、
茉那先輩を、見た。
潤が、
私を見てくれてるのは分かってた。
でも。
それが、
テニス部の先輩としてなのか。
それとも。
違うのか。
自信が、なかった。
潤って、肝心なところ、
なかなか言葉にしないし。
だから。
少しくらい。
困らせても、
いいかなって思った。
「……違う?」
聞き返す。
そう言って、
茉那先輩は俺の顔を覗き込む。
「じゃあ」
潤が言う。
「今度会うときまで、
お楽しみにしていてください」
「言えるの?」
「大丈夫です。任せてください」
「耳、触りながら言わないでよ」
先輩が笑う。
「今度から」
「耳じゃなくて、
茉那先輩の手、握るし」
「……だから」
「不安になることも、ないし」
「不安にさせないから」
「ふふ」
笑う。
「期待してます、潤くん」
俺は、
少し照れながら
茉那先輩の手を引いて、
一緒に
店を出た。


