ふと気づけばスタッフステーションの時計は、十九時を少し回っていた。
夕方に対応した緊急入院患者の記録をようやく書き終えた私はパソコンから顔を上げ、首筋に手をやる。
今日は、普段よりも疲れている。
理由は分かっていた。視界に入るたび気になってしまう人がいるせいだ。
何気なく視線を巡らせるが、高柳先生の姿はもうなかった。オペ後の様子を見に行くといっていたので、集中治療室にでもいるのだろう。
(……先生のこと、気にしすぎだよね)
自分で自分に呆れる。
「主任、今日もう上がって大丈夫です! あとはまかせてください」
ラウンドから戻って来た夜勤のスタッフが声を掛けてくれる。
「ありがとう。あとは持参薬の整理が残ってて」
「やっておきます!」
「ありがとう、よろしくね」
普段なら頼むことのない業務。でも今日は疲れていたから後輩の申し出に甘えてしまった。
「はーい、おつかれさまでした」
私は肩を回すとゆっくりと立ち上がる。
(帰ったらお風呂貯めて入ろう)
休憩室のロッカーを開けるとあの缶コーヒーが目に入った。
途端に、昨日のやり取りまで思い出してしまうのだからたまらない。
《次は何食べに行きます?》
あれから何度も返信を考えてはやめている。
返したら、本当に次が始まってしまいそうで、それが怖いのか、嬉しいのか、自分でも分からないのだ。
「主任、おつかれさまです!」
休憩室に田辺さんが入ってくる。
「おつかれさま。こんな時間までどうしたの?」
「研修です。やっと終わりましたぁ……」
ぐったりした様子で隣のロッカーを開ける。
その横顔を見ながら、自分が看護師一年目だった頃を思い出す。
慣れない仕事をしながらの勉強はなかなか辛いものがある。
「研修かぁ。地味に辛いよね、レポート書かなきゃだし」
「もう本当に……頭パンクしそう」
田辺さんは頭をぶんぶんと振った。動きがコミカルでかわいらしい。
「あはは、うまく息抜きしてね」
「そう思って、マッサージ予約しちゃいました。帰りに行ってきます」
帰り支度をしながら、何気ない会話を交わす。
いつもの仕事終わりの空気のはずだった。
けれど、
「……あの、主任」
急に田辺さんの声のトーンが変わる。
「なぁに?」
「ちょっと聞いてもいいですか?」
なんだろう。
そう思って顔を上げる。
田辺さんは少し迷うように視線を泳がせてから、小さく口を開く。
「主任って……高柳先生と仲良いですよね?」
ドクン、と鼓動が跳ねる。
「そうかな? そんなことないよ」
動揺を悟られないように、平静を装う。
「いや、なんか、雰囲気が」
「雰囲気?」
「急変の時も息が合ってたし、カンファレンス室に二人でいたじゃないですか」
よく見ている。
別にやましいことはしていない。していない、けど……。
「内緒で付き合ってたり?」
一気に汗が噴き出した。
「ないない、よく考えてみて! 私と高柳先生がどうにかなると思う?」
すると田辺さんは「ですよねぇ」と言いながら笑った。
「実は私、高柳先生のこといいなぁと思ってて」
「……え」
全然気づかなかった。
田辺さんと仕事をすることは多いのに、先生のことをそんな風に思っていたなんて。
「急変の時、すごかったじゃないですか。冷静で、ちゃんと周り見てて」
楽しそうに話す声が、どこか遠く聞こえた。
「しかも優しいし、顔もいいし、背高いし」
「……う、ん」
胸の奥がそわそわと落ち着かなくなる。
――嫉妬?
まさかね。
「でもやっぱり、主任にだけちょっと態度が違う気がするんですよ」
また疑いの目を向けてくる。
「それは多分私は先生が研修医だった頃に一緒に働いたことがあるからじゃないかな」
「そうなんですか! そんな昔からの関係なんですね」
昔、というほどでもないけど、八年前、彼女は中学生だ。そう考えるとずいぶん前のことのような気がする。
「主任、どう思います?」
「……どうって?」
「私、高柳先生に脈ありますかね?」
そんなこと、私に聞かないで欲しい。
無邪気な問いかけに、息が詰まる。
「どうだろ……田辺さん可愛いし、普通に誘ったら喜ぶんじゃない? 食事とか」
言いながら、胸の奥が痛む。
食事に誘われているのは私なのに、田辺さんを嗾けたりして最低だ。
「え〜、でも高柳先生ってプライベート分からないしな。断られたら気まずいし。仕事しにくくなるのはいやだな」
「……まぁ、それはそうだね」
「やっぱやめときます」
田辺さんの言葉にホッとする自分がいる。
「マチアプ頑張ります!」
「マチアプ?」
初めて聞く単語に首をかしげる。
三十代になり、世間の流行に少しずつ鈍感になってきた。自分のライフスタイルが確立されているからという理由も大きい。
「マッチングアプリですよ! 主任知らないんですか? うそでしょ⁉」
田辺さんは珍しいものでも見るように目を丸くしてわたしを見た。
「……ごめん、知らない」
「じゃあ、人気のアプリ教えますんで登録してください」
田辺さんに言われるがまま、アプリをダウンロードする。その後は田辺さんが操作を替わってくれた。
白衣姿の写真を撮られ、趣味や特技を聞かれる。
理想の男性像も。
「登録完了です! 暇なときに、好みの写真にいいねして、やり取りするだけなんで簡単です」
どうぞ、とスマホを渡される。
「あ、ありがとう」
今なんて言ったの? いいね? やり取り?
「あ、そろそろ帰らないと。では、お先に失礼します」
「おつかれさま。気を付けて帰ってね」
田辺さんを見送ると休憩室のソファーに身を沈める。
帰りたいのに、スマホの通知がさっきから鳴り止まないのだ。画面上のポップアップがどんどん増えていく。
おそるおそるアプリを開いた。
「なにこれ……怖い」
男性の写真とメッセージがずらりと表示されている。
「すごいモテモテじゃないですか」
低い声がすぐ後ろから聞こえる。
「ひゃっ!?」
驚いて振り返ると、そこには高柳先生が立っていた。
いつからいたのか分からない。
スマホを握ったまま固まる私を見下ろして乾いた笑いを浮かべている。
――もしかして怒ってる?
「俺の誘いを保留したまま恋人探しですか?」
「恋人探し? 待ってください、なんの話ですか?」
「それ、そういうアプリですよ」
「えっ……ついさっき田辺さんが入れてくれたばかりで。これが何かもわからなくて……」
不機嫌そうにいながら、高柳先生は「スマホ貸してください」と手を差し出す。
躊躇していると「いいから」と催促される。
「……なにするんですか?」
「消します。こういうの、浅川さんにはあわないです。それとも、本当は使ってみたいとか?」
「使わないですよ。恋愛休業中だし」
しかも、よくわからない男性と知り合うのは怖い。
(ごめんね、田辺さん)
「休業中? ……そうだったんですか。じゃあ、俺が誘うのも迷惑でしたよね。だから返事をくれないのか」
高柳先生は私から受け取ったスマホを見下ろしたまま、小さく息を吐く。
「……違っ」
思わず立ち上がる。
「違うんです‼」
勢いよく動いたせいで、ソファーに置いていたバッグが床へ落ちた。構わずに話を続ける。
「実は、なにを食べようかずっと考えていて。でも、リクエストなんてしたら図々しいかなとか、悩みだしたら止まらなくて……」
結論も出せないなんて笑われるかもしれない。でも言葉を選ばずに本音を伝えた。
「なんだぁ……よかった」
すると先生はへなへなと床にしゃがみこむ。
「大丈夫ですか⁉」
「大丈夫です」
そういって落ちた私のバッグを拾い上げ、スマホと一緒に渡してくれる。
「消してくれないんですか? アプリ」
「あー、そういうの反則ですよ」
先生は眉を寄せてワシャワシャと頭を掻く。
はじめてみる余裕のない顔。
いつも落ち着いていて、何でもそつなくこなす人なのに。
「すみません。私、変な事言いましたよね?」
「いえ、謝らないでください。すぐ消しますので」
そう言いながら高柳先生は私のスマホを操作して退会処理を進めていく。
「はい、完了です」
「ありがとうございます。詳しいんですね」
何気なく言った瞬間、高柳先生がわずかに視線を逸らした。
「……えー、まあ、はい」
どこか気まずそうな反応。
その理由を聞く前に、高柳先生は軽く咳払いをする。
「そんなことより」
そう言ってスマホを私へ返しながら、真っ直ぐこちらを見た。
「”次は何食べに行きます?” 」
高柳先生が私のスマホを返しながら、真っ直ぐに見つめる。
「返事。今ください」
求められる。
まるで逃がす気なんてないみたいに。
追い詰められているようで、まったく嫌じゃない。
その理由を探りながら答える。
「……そうですね、またあの定食が食べたいです」
ロールキャベツも美味しかったし、女将さんとのやり取りも居心地が良かった。
あの空間でまた先生と一緒に過ごしたいと思う。
高柳先生がふっと笑う。
「ハマりましたね! 女将さん喜ぶと思う」
「次は塩サバって決めてます」
「あはは、なるほどいいチョイス」
その笑顔を見ていると、先ほどまでの緊張感が薄らいでいく。
「ああでも、生姜焼きも美味しそうでした」
「分かります。あそこの生姜焼き、かなりヤバいです」
「ヤバい、ですか」
「白米が止まらなくなるやつです」
思わず吹き出す。
何気ない会話なのに、どうしてこんなに楽しいんだろう。
すると高柳先生が少しだけ真面目な顔になった。
「もちろん、あの店はいつでも連れて行きます」
視線が重なる。
「でも今回は、ちゃんとデートのお誘いなので」
――デート。
改めて言葉にされて戸惑う。
「だから、浅川さんの好み教えてください。俺、めちゃくちゃ頑張って店探すんで」
湧き上がる期待と不安が入り混じったこの気持ち。久しぶりに感じた。


