部屋に入った瞬間、張り詰めていたものが一気に緩んだ。
「はぁぁ……」
玄関のドアにもたれたまま、大きく息を吐く。
静かなワンルームに窓を叩く雨音がやけに大きく響いていうるさい。
——いや、
うるさいのは、自分の心臓かもしれない。
バッグを置き、脱いだパンプスを揃えた。
「……絶対、お酒のせい」
そう呟きながら洗面所の鏡を覗く。
頬が少し赤い。でもたぶん、アルコールだけのせいじゃない。
頭に浮かぶのは、雨に濡れた横顔と、低く鼓膜に残る声。
『まだ帰したくないので』
『好きな人には、そうなるんです』
『また行きます?』
「——っ」
思わず顔を覆った。
「何なの、あの人……病院とは別人」
身悶えしながらベッドへ倒れ込むように座った、その時——スマホが震えてびくりと肩が跳ねた。
期待と困惑が無い混ぜになった気持ちで画面を見る。
表示された名前に、心臓の鼓動がまた走り出す。
【高柳先生】
「……嘘」
数秒迷ってから、恐る恐るメッセージを開く。
《今日はありがとうございます》
その一文だけなのに、口元が緩みそうになる。
いや、もう緩んでいるかもしれない。
《こちらこそ今日はありがとうございました。また……》
打ちかけて、止まる。
“また行きましょう”って、高柳先生の社交辞令を間に受け過ぎかもしれない。
数文字打っては消して、また打ち直す。
《こちらこそ今日はありがとうございました。ご飯、とても美味しかったです》
いや、これ何度も言ってるやつ。
また消す。
「もう‼︎」
三十五歳にもなって、何をやっているんだろう。
なのに、たった一通のメッセージの返信にこんなに悩んでしまう。
《今日はありがとうございました。すごく楽しかったです。ご飯も美味しかったです》
結局、最初と変わり映えのしないありきたりな文章を送る。
送信ボタンを押した瞬間、枕へ顔を埋めた。
「疲れた……」
こんなに悩んでメッセージを打つのは久しぶりだ。
すると、数秒で返信が来る。
「早っ」
思わず体を起こした。正座して返ってきたメッセージを見て、また固まる。
《僕も楽しかったです。次は何食べに行きます?》
「次って……社交辞令じゃなかったんだ」
ちゃんと次の約束をくれた。
それだけで心が浮つくなんて、どうかしている。
「……はぁ」
スマホを握りしめたまま、天井を見上げる。
雨音がまた強くなった。まるで胸の高鳴りを隠すみたいに。


