食後のお茶を飲みながら、私は小さく息を吐いた。
「……ロールキャベツ定食美味しかったぁ」
一人暮らしが作るのにはハードルが高いロールキャベツ。少し和風の味付けでとても美味しかった。
「柔らかく煮込まれていて、甘みもあって……」
向かい側で、高柳先生がどこか満足そうに笑う。
定食は量が多いかと思ったが、驚くほど美味しくて、気づけば完食してしまっていた。
ビールの他に梅酒も頂いてほろ酔いだ。
「味噌汁も、白和も、きんぴらも本当に美味しかった」
「分かります。味噌汁は出汁がいいんですよ」
まるで自分の店みたいな口ぶりにまた笑ってしまう。
女将さんが空いた食器を下げながら嬉しそうに口を挟んだ。
「遥くん、今日は随分と上機嫌ねぇ」
「分かります?」
「分かるわよぉ。いい顔してる。いつもそうしてなさい」
「は、はい」
少し照れたような顔をしているのが珍しくて、私は思わず目を細めた。
病院ではいつも落ち着いていて隙がないのに、こんな顔もするんだ。
胸の奥が騒がしい。
私はそれを誤魔化すようにバッグへ手を伸ばす。
「じゃあ、そろそろ帰りますね。電車もまだありますし、一駅ですから」
お財布から三千円取り出してテーブルの上に置く。
「送っていきます」
間髪入れず返ってきた。
「え?」
「送りますし、お金も要りません。僕の奢りです」
「いや、大丈夫です」
年下の先生に奢らせるわけにはいかない。私だけお酒も飲んだ。
「大丈夫じゃないです」
「一駅ですし。それに、私を送ったら遠回りになるでしょ? 先生は疲れてるんですから早く帰ってください」
先生は否定するように首を振る。
「疲れているのは主任もですよね」
「先生と比べたら、私なんて全然」
「……だとしても、送らせてください。まだ帰したくないので」
あまりにも自然に言われて、思考が止まる。
高柳先生はハッとしたように「あ」と声を漏らした。
「いや、その、ちゃんと家に着くまで送りたいって意味です」
「……先生、たまにズルイ言い方しますよね」
油断するとつい勘違いしてしまいそうになる。つい、ときめいてしまいそうになる。
「すみません。わざとです」
悪びれもなく笑う顔がずるい。
「なにそれ!」
でも憎めなくて、それ以上責める気にはなれなかった。
「本当に送るだけですから」
「当たり前です」
その時、店の外から雨音が聞こえた。
「あら、降ってきちゃったわねぇ」
女将さんが暖簾を下げながら店を出る客と話をしている。
「……ほら」
高柳先生が勝ち誇ったみたいに言う。
「送る正当な理由ができました」
「そんな嬉しそうに言います?」
「言います」
即答だった。
なんだかおかしくて、私は吹き出してしまった。
「アハハ。じゃあ……お願いします」
「はい」
その返事が思ったより嬉しそうで、遠慮する気持ちすらかき消されてしまう。
会計を済ませて店の外に出ると細かい雨粒が夜道を濡らしている。
「すみません、傘ひとつしかなくて」
高柳先生がカバンから取り出した黒い傘を開く。
「私は走ります」
「却下です」
また、即答。
「だって今日ヒールですよね。転んでも知りませんよ」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
高柳先生は当然みたいに私に傘を傾ける。
「これだと先生が濡れません?」
「完全無欠の外科医なんで大丈夫です」
まるでツッコみ待ちかのような得意顔。
「自分で言います? しかも、全然大丈夫じゃないやつ」
「じゃあ、少し近くに寄っても?」
「はい」
そう答えたものの狭い傘の下は思ったより距離が近くて、歩くたび肩が触れる。
さっき飲んだビールのせいなのか、体が熱い。
車に乗り込むと、雨音が少し遠くなる。ワイパーが一定のリズムでフロントガラスを滑っていく。
高柳先生はエンジンをかけながら、ちらりとこちらを見た。
「寒くないですか?」
「大丈夫です」
「ほんとに?」
私をじっと見る。運転席と助手席の距離はやはり近い。たまらずに視線を逸らす。
「……先生、ちょっと過保護ですよね」
「好きな人には、そうなるんです」
「またそういうこと言う!」
抗議すると、高柳先生は小さく笑った。
その無邪気な顔がかわいすぎて心臓がうるさい。わざとなのか天然なのか分からない。
でもたぶん、この人は私の反応を見ているんじゃないかと思う。
(……みて、どうするんだろう)
車は雨の夜道をゆっくり走っていく。
私も先生も無言だったけれど、不思議なくらい沈黙が苦じゃなかった。むしろ、この静かな空間が心地いい。
「なんか、今夜はぐっすり眠れそうです」
ぽつりと零す。すると高柳先生が嬉しそうに目を細めた。
「それなら誘った甲斐ありました」
「……お腹いっぱい食べて満たされて、幸せな気分です」
「僕も幸せです。浅川さんといると楽しくて」
さらっと発せられた言葉に息が止まる。
高柳先生は何でもない顔でハンドルを握っている。
なのに、私だけが動揺しているみたいで悔しい。
「……そういう冗談はやめて下さい」
「冗談じゃありません」
赤信号で車が止まると、雨音が車内を包む。
ふと視線を感じて顔を右に向けると高柳先生がこちらを見ていた。
病院では見せない、少し熱を帯びた視線。
どくん、と胸が鳴って見つめ返したまま動けなくなる。
きっとたった数秒。でもそれがとても長く感じた。
先に逸らしたのは私。
「……よそ見しすぎです。ちゃんと前見ててください」
「すみません」
全然悪びれていない声。しかも余裕すらある。
(これってどういう状況?)
男性心理なんて全くわからない。
そうこうしているうちにマンション前に車が止まる。
「送っていただいてありがとうございました」
「どういたしまして」
シートベルトを外しながら、少しだけ名残惜しいと思ってしまった。
そんな自分に驚く。
後はドアを開けるだけなのに、開けることを躊躇っている。
(帰らないと……)
「……ご飯、本当に美味しかったです」
「よかったです」
「また行きます?」
不意に落ちてきた声に固まる。
でもこれは、微かに期待していた言葉なのかもしれない。
「……また?」
「嫌ですか?」
優しい聞き方なのに、断る選択肢なんて最初からないみたいで。
「……嫌じゃ、ないです」
そう答えると、高柳先生が少しだけ笑った。
「よかった」
その笑い方が本当に嬉しそうで、胸の奥がまた落ち着かなくなる。
ドアに手をかけた、その時。
「浅川さん」
「はい?」
振りむくと高柳先生は少しだけ迷うような顔をして、それから静かに言った。
「……おやすみなさい」
——今、何か言いかけた?
なにを言うつもりだったんだろう。
考えても仕方がないのに、どうしてこんなに気になるのか。胸が詰まる。
「お、おやすみなさい」
逃げるみたいに車を降りる。
エントランスへ駆け込み、壁に背中を預けるように立ち止まった。
「飲み過ぎたかなぁ……」
熱を持った頬を押さえながら、私は深く息を吐いた。
「……ロールキャベツ定食美味しかったぁ」
一人暮らしが作るのにはハードルが高いロールキャベツ。少し和風の味付けでとても美味しかった。
「柔らかく煮込まれていて、甘みもあって……」
向かい側で、高柳先生がどこか満足そうに笑う。
定食は量が多いかと思ったが、驚くほど美味しくて、気づけば完食してしまっていた。
ビールの他に梅酒も頂いてほろ酔いだ。
「味噌汁も、白和も、きんぴらも本当に美味しかった」
「分かります。味噌汁は出汁がいいんですよ」
まるで自分の店みたいな口ぶりにまた笑ってしまう。
女将さんが空いた食器を下げながら嬉しそうに口を挟んだ。
「遥くん、今日は随分と上機嫌ねぇ」
「分かります?」
「分かるわよぉ。いい顔してる。いつもそうしてなさい」
「は、はい」
少し照れたような顔をしているのが珍しくて、私は思わず目を細めた。
病院ではいつも落ち着いていて隙がないのに、こんな顔もするんだ。
胸の奥が騒がしい。
私はそれを誤魔化すようにバッグへ手を伸ばす。
「じゃあ、そろそろ帰りますね。電車もまだありますし、一駅ですから」
お財布から三千円取り出してテーブルの上に置く。
「送っていきます」
間髪入れず返ってきた。
「え?」
「送りますし、お金も要りません。僕の奢りです」
「いや、大丈夫です」
年下の先生に奢らせるわけにはいかない。私だけお酒も飲んだ。
「大丈夫じゃないです」
「一駅ですし。それに、私を送ったら遠回りになるでしょ? 先生は疲れてるんですから早く帰ってください」
先生は否定するように首を振る。
「疲れているのは主任もですよね」
「先生と比べたら、私なんて全然」
「……だとしても、送らせてください。まだ帰したくないので」
あまりにも自然に言われて、思考が止まる。
高柳先生はハッとしたように「あ」と声を漏らした。
「いや、その、ちゃんと家に着くまで送りたいって意味です」
「……先生、たまにズルイ言い方しますよね」
油断するとつい勘違いしてしまいそうになる。つい、ときめいてしまいそうになる。
「すみません。わざとです」
悪びれもなく笑う顔がずるい。
「なにそれ!」
でも憎めなくて、それ以上責める気にはなれなかった。
「本当に送るだけですから」
「当たり前です」
その時、店の外から雨音が聞こえた。
「あら、降ってきちゃったわねぇ」
女将さんが暖簾を下げながら店を出る客と話をしている。
「……ほら」
高柳先生が勝ち誇ったみたいに言う。
「送る正当な理由ができました」
「そんな嬉しそうに言います?」
「言います」
即答だった。
なんだかおかしくて、私は吹き出してしまった。
「アハハ。じゃあ……お願いします」
「はい」
その返事が思ったより嬉しそうで、遠慮する気持ちすらかき消されてしまう。
会計を済ませて店の外に出ると細かい雨粒が夜道を濡らしている。
「すみません、傘ひとつしかなくて」
高柳先生がカバンから取り出した黒い傘を開く。
「私は走ります」
「却下です」
また、即答。
「だって今日ヒールですよね。転んでも知りませんよ」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
高柳先生は当然みたいに私に傘を傾ける。
「これだと先生が濡れません?」
「完全無欠の外科医なんで大丈夫です」
まるでツッコみ待ちかのような得意顔。
「自分で言います? しかも、全然大丈夫じゃないやつ」
「じゃあ、少し近くに寄っても?」
「はい」
そう答えたものの狭い傘の下は思ったより距離が近くて、歩くたび肩が触れる。
さっき飲んだビールのせいなのか、体が熱い。
車に乗り込むと、雨音が少し遠くなる。ワイパーが一定のリズムでフロントガラスを滑っていく。
高柳先生はエンジンをかけながら、ちらりとこちらを見た。
「寒くないですか?」
「大丈夫です」
「ほんとに?」
私をじっと見る。運転席と助手席の距離はやはり近い。たまらずに視線を逸らす。
「……先生、ちょっと過保護ですよね」
「好きな人には、そうなるんです」
「またそういうこと言う!」
抗議すると、高柳先生は小さく笑った。
その無邪気な顔がかわいすぎて心臓がうるさい。わざとなのか天然なのか分からない。
でもたぶん、この人は私の反応を見ているんじゃないかと思う。
(……みて、どうするんだろう)
車は雨の夜道をゆっくり走っていく。
私も先生も無言だったけれど、不思議なくらい沈黙が苦じゃなかった。むしろ、この静かな空間が心地いい。
「なんか、今夜はぐっすり眠れそうです」
ぽつりと零す。すると高柳先生が嬉しそうに目を細めた。
「それなら誘った甲斐ありました」
「……お腹いっぱい食べて満たされて、幸せな気分です」
「僕も幸せです。浅川さんといると楽しくて」
さらっと発せられた言葉に息が止まる。
高柳先生は何でもない顔でハンドルを握っている。
なのに、私だけが動揺しているみたいで悔しい。
「……そういう冗談はやめて下さい」
「冗談じゃありません」
赤信号で車が止まると、雨音が車内を包む。
ふと視線を感じて顔を右に向けると高柳先生がこちらを見ていた。
病院では見せない、少し熱を帯びた視線。
どくん、と胸が鳴って見つめ返したまま動けなくなる。
きっとたった数秒。でもそれがとても長く感じた。
先に逸らしたのは私。
「……よそ見しすぎです。ちゃんと前見ててください」
「すみません」
全然悪びれていない声。しかも余裕すらある。
(これってどういう状況?)
男性心理なんて全くわからない。
そうこうしているうちにマンション前に車が止まる。
「送っていただいてありがとうございました」
「どういたしまして」
シートベルトを外しながら、少しだけ名残惜しいと思ってしまった。
そんな自分に驚く。
後はドアを開けるだけなのに、開けることを躊躇っている。
(帰らないと……)
「……ご飯、本当に美味しかったです」
「よかったです」
「また行きます?」
不意に落ちてきた声に固まる。
でもこれは、微かに期待していた言葉なのかもしれない。
「……また?」
「嫌ですか?」
優しい聞き方なのに、断る選択肢なんて最初からないみたいで。
「……嫌じゃ、ないです」
そう答えると、高柳先生が少しだけ笑った。
「よかった」
その笑い方が本当に嬉しそうで、胸の奥がまた落ち着かなくなる。
ドアに手をかけた、その時。
「浅川さん」
「はい?」
振りむくと高柳先生は少しだけ迷うような顔をして、それから静かに言った。
「……おやすみなさい」
——今、何か言いかけた?
なにを言うつもりだったんだろう。
考えても仕方がないのに、どうしてこんなに気になるのか。胸が詰まる。
「お、おやすみなさい」
逃げるみたいに車を降りる。
エントランスへ駆け込み、壁に背中を預けるように立ち止まった。
「飲み過ぎたかなぁ……」
熱を持った頬を押さえながら、私は深く息を吐いた。


