ミドサーですが、うっかり恋に堕ちまして


 私は夜勤スタッフに声を掛けて地下にあるロッカー室へと降りる。

扉を開けるとくたびれたTシャツが目に入る。

「やっぱり断れば良かった……」

 若い頃は、通勤服にも手を抜かなかった。同僚や先生たちと仕事帰りに飲みに行くことも多かったし、恋人とのデートも。

でも最近は家と病院との往復だけだったから、オシャレなんて概念が消滅してしまっている。

「でも、デートってわけじゃないし。まあ、いっか」

 そう思い直し、フェイスパウダーを塗り直して通用口へと急ぐ。

「お、ちゃんと来た」

 私を見つけた高柳先生はどこか嬉しそうに言う。

「そりゃ来ますよ」

「律儀だなぁ。半分くらい、すっぽかされると思ってました」

 私だって半分冗談で食事に誘ったんじゃないかと思っていたし。

「じゃあ、今からすっぽかそうかな」

 そんな気もないけれど、ノリに合わせて言ってみた。

「いやいや、もう時間切れです。席も予約しちゃったし。さ、行きましょう」

 歩き出した高柳先生の後をついて行くと、病院の敷地外に出る。

そしてそのまま道路を渡たり、すぐ目の前のコインパーキングで足を止めた。

「車、ですか?」

「そうなんです。夜中に呼び出されたので、車で来てまして……乗ってもらってもいいですか?」

 黒いSUVを指差す。

「はい」

「本当に?」

「はい。え? 私だけ歩いて行けと?」

 ここまで連れてきて後は現地集合——なんて本気で言っているのだろうか。

 私が推し黙ると先生は何かに気付いた様にハッとする。

「すみません! そりゃ、変な話ですよね。男の車に乗るの嫌かなって、色々考えちゃって……」

「確かに。でも、それは知らない間柄の男女の話では?」

「確かに」

 顔を見合わせてふたり同時に吹き出す。

「でも、気にしてくださってありがとうございます。女性扱いされたの、久しぶりです」

「浅川さんを女性扱いしない男なんているんですか? 信じられません」

 先生は眉を寄せる。

 時代の流れ、と言うのもあるけれど私は外科病棟の主任という肩書きでしか扱われない。

それはとても楽で、少し寂しくもあった。

「だから、新鮮で嬉しかったです」

 素直に悦びを伝えると、先生は目を見張った。

「そんな風に言ってもらえるなら、毎日で女性扱いもしますよ。というわけで、どうぞ乗ってください」

 助手席のドアを開けて、乗り込む為に手を貸してくれる。

「ありがとうございます」

 車内はとても綺麗で、内装はシルバーメタルと黒で統一されている。シンプルで無骨な感じが高柳先生らしい。

 車は静かに走り出す。大通りに出るとさらに北上した。

「お店までは結構遠いんですか?」

「一駅先なんで、割とすぐです。主任のマンションはもうひとつ先の駅でしたよね?」

「えっ……」

 どうしてそんな個人情報を?懐疑的な眼差しを向ける。

すると、私の視線に気づいたのか、高柳先生は慌てたように付け加えた。

「――いや、ほら、僕が研修医時代、外科病棟のみんなで飲みに行っていたじゃないですか。その時に話しているのを聞いたんです」

高柳先生の研修医だった頃、外科にみんなでワイワイするのが好きな先生がいた。

かなりグルメで金払いも良かったから、若手の看護師はみんなでご馳走になったりして。私もそのうちの一人だった。

お酒が入って上機嫌でプライベートな事も散々喋っていたと思う。

「ああ、そっか。あの頃……そういえば先生もいらっしゃいましたよね!」

 半ば強引に連れてこられていた、と言った方が正しいかも知れない。

先輩医師たちに遠慮してか、いつも幹事役に徹していて、飲み会の席ではあまり会話をした記憶が無い。

しかも毎年新しい研修医を受け入れているので、記憶を遡るのもひと苦労だ。

「思い出してもらえてよかった」

 ホッとした顔で微笑む。

「すみません、忘れてて。でも、高柳先生が立派になってこの病院に戻ってきてくれた時はすごく嬉しかったです」

 二年前、医局の人事異動で入職して来た当初から、バリバリと仕事をこなす若手として注目を浴びていた。

外科医の退職が立て続いていた事もあってもともと歓迎ムードではあったのだけれど、人当たりがよくスマートな立ち居振もあって看護師としても仕事がし易くなったから。

「立派かどうかは分かりませんが、外科医として成長するまでは戻れないと思ってましたから……あの頃は右も左も分からなくて散々迷惑をおかけしたので」

「迷惑? そんな事なかったと思いますけどね」

 一瞬、彼の表情が曇った気がした。でも、直ぐにいつもの笑顔戻る。

「見えて来ました! あの店です」

 数メートル先に、営業中の看板が見える。京長屋風の店構えだ。

近くのコインパーキングに車を停め、店の引き戸をガラガラと開ける。

「あら、遥くんいらっしゃい」

 着物に割烹着姿の女性が優しく迎えてくれた。

自分の親世代と同じ六十代くらいだろうか。どこか実家に帰って来たような安心がある。

店内は木の温もりを感じるシンプルな内装で、カウンター四席とふたり掛けのテーブルが二つある。

「席、とっておいたわよ」

「ありがとう、女将さん。浅川さん、奥の席どうぞ」

 先生に促されてテーブル席の奥の椅子に座る。他の席は全て埋まっていた。

「混んでるんですね」

「そうなんですよ。本当に旨いんで、一度食べたらまた来たくなりますよ」

「嬉しい事言ってくれるじゃない!」

 カウンターの奥から女将さんがお茶とおしぼりを二つ持って出てくる。

「いらっしゃい、彼女?」

 年上の看護師と恋人関係に間違われるなんて、高柳先生が気の毒だ。

私は慌てて首を振る。

「いえ、職場の同僚です」

 そう答えると高柳先生が小さく笑った。

「あらそう。注文決まったころまた来るわね」と女将さんが戻っていく。

「即答ですね」

「当たり前じゃないですか」

「少しくらい傷ついてもいいですか?」

「何言ってるんですか!」

 思わず声が大きくなる。すると高柳先生は笑いを堪えるように肩を揺らす。

「主任、反応かわいいですよね」

「からかわないでください」

「半分は本気です」

 一瞬、視線が絡む。

「……え?」

 冗談みたいな口調なのに、視線が真っ直ぐ過ぎるから心臓が落ち着かない。

 ——ダメだ。

 これ以上この話題を続けたら、変に意識してしまう。

 私は誤魔化すようにメニューを開いた。

「高柳先生のおすすめは何ですか?」

 すると彼は、少しだけ残念そうに笑う。

「僕のおすすめはハンバーグか生姜焼きです。日替わりが一番人気ですけど、どれ選んでも美味しいですよ。保証します!」

 まるで店員みたいな口ぶりに、思わず笑ってしまう。

「そんなこと言われたら余計迷います」

「ですよね。だから毎回来るたびに悩むんです」

「そんなに来てるんですか?」

「家が近いので、少なくとも週三くらいは」

「結構な常連ですね」

「夜遅くまで開いてるし、ちゃんと美味しいんで。外科医の命綱です」

 そんな話をしていると、女将さんが注文を取りに来てくれる。

その時、タイミングよく女将さんが注文を取りに来る。

「注文決まった?」

「私、日替わりにします。ご飯は玄米で」

「僕は塩サバ定食で。同じく玄米」

 高柳先生はメニューを閉じ、それから私を見る。

「とりあえず、ビールですか?」

 そう聞かれて、条件反射みたいに頷いてしまう。

「はい! ……あ」

 言ってから気づく。

「先生、車ですよね」

「そうですね」

「じゃあ、ウーロン茶に……」

「なんでですか」

 さらっと遮られる。

「だって私だけ飲めないですよ」

「飲みたいんですよね?」

「そりゃまあ、ちょっとは」

「じゃあ飲んでください!」

 あまりにも自然に言うから、思わず頷く。

「はい。……いや、でもやっぱり……」

「真夏さん」

 名前を呼ばれて、ドキリとする。

「そういう遠慮、今日は無しですから」

 逃げ道を塞ぐみたいな言い方なのに、不思議と嫌じゃない。

「……じゃあ、お言葉に甘えます」

 そう答えると、高柳先生が満足そうに笑った。

「女将さん、生ビールとウーロン茶」

「はいよ。遥くん、今日はちゃんと野菜食べなさいよ」

「いつも食べてますって」

「この間なんて野菜残して唐揚げ単品追加してたじゃない。マヨネーズまでかけちゃって」

「ちょ、女将さん。告げ口やめてもらっていいですか」

 珍しく困ったような顔をしていて、私は思わず吹き出した。

「先生、そんな感じなんですね」

「どんなイメージだったんですか?」

「もっとこう……ストイックというか。鶏むね肉とブロッコリーしか食べませんみたいなイメージありました」

「主任、俺のこと何だと思ってるんです?」

 ふと、僕から俺に変わった事に気づく。でも指摘はしない。

「完全無欠の外科医」

 すると高柳先生は、わかり易く視線を泳がせる。

「……そんな、大したもんじゃないですよ」

 ――もしかして、照れてる?

なんだかその反応が意外で、困らせてみたくなる。

「でも病棟のみんな思ってますよ。オペ上手いし、判断早いし、ちゃんと周り見えてるし」

「褒めすぎです」

「事実です。私、お世辞は言いませんから」

 すべて本音だ。あえて言葉にしなかっただけでいつも密かに思っていた。

「主任って、昔からそうですよね」

——昔。

その言葉にまた小さく引っかかる。

 私は彼の研修医時代をぼんやりとしか覚えていない。

 なのに高柳先生は、当時の私を随分よく知っているような口ぶりをする。

「またそれ言う」

「だって本当なので」

「先生が研修医の頃の私ってどんな感じでした?」

 まだ主任ではなかったけれど、仕事が忙しすぎてだいぶ尖っていた記憶がある。

 すると高柳先生は、お茶をひと口飲んでから静かに言った。

「怖かったです」

「……なるほど」

「仕事には厳しいし、髪の毛振り乱していつも走ってるし」

 自覚はあるが先生の目にもそう映っていたのか。

恥ずかしい。

「それは悪口ですよね?」

「でも、すごくかっこよかった。患者さんにも後輩にも本気で向き合ってて、ああいう人間になりたいって思ってました。少なくとも俺は、あなたに救われた」

 真っ直ぐに言われ、言葉を失う。

「その反応。やっぱり覚えてませんよね」

覚えてない。

 研修医なんて毎年入ってきて、毎年巣立っていく存在だったから。

自分が誰かに影響を与えていたなんて考えも及ばない。

「……はい、覚えてません。救うようなこと、しました? どんなことだったか教えてもらえたらありがたいです」

 正直にそう言うと、高柳先生は少しだけ笑った。

「嫌です。教えません」

「どうして」

「ご自分で、思い出してください」

「えー、ズルい」

「ズルくないズルくない。あ、ほらビール来ましたよ!」
 
 運ばれてきたビールを見た瞬間、思わず顔が緩んだ。

「酒好きの反応すよね」

「うるさいなぁ」

 笑いながらジョッキを持ち上げる。

「お疲れさまです」

「お疲れさまです」

 軽くグラスを合わせ、ひと口飲む。

 冷たい泡が乾いた喉に流れ込んで、思わず息が漏れた。

「んー、うまい」

 上唇についた泡をペロリと舐める。

「かわいい」

 先生は目を細めて私をじっと見つめる。

――かわいい⁉︎

 そんなことあるはずない。

三十五歳の私に相応しくない言葉だ。

「すっ、すみません! お行儀悪いですよね」

「いや、かわいいです。浅川さんのあんな姿初めて見ました」

 二度目の"かわいい"がくる。

破壊力は初回以上だ。

「忘れてください! 全消去でお願いします!」

「嫌です。普通にかわいかったですし」

 三回目。しかも今度は、さっきよりずっと真面目な声だった。

「主任のそういう顔、他の奴には見せたくないな」

 小さなテーブル越しに向けられる視線が、まるで恋人に向けるみたいに甘い。

 そのことに気づいてしまった瞬間、急にビールが回った気がした。