夕食を終え、仲居さんが食器を下げていく。
「それでは、ごゆっくりお過ごしください」
襖が閉まり、部屋に静寂が戻った。
窓の外からは川のせせらぎの音が絶え間なく聞こえてくる。
旅館特有のゆったりとした時間。私は座椅子にもたれながら小さく息を吐いた。
「美味しかったですね」
「ですね」
向かい側に座る高柳先生も穏やかに笑う。
なんだか幸せだった。
特別なことをしているわけじゃない。
ただ同じ部屋で同じ時間を過ごしているだけ。
それなのに心が満たされていく。
先生は手元の湯呑みを持ち上げると少しだけ迷うような仕草をしてから口を開いた。
「浅川さん」
「はい」
「ひとつ聞いてもいいですか?」
真面目な声だった。自然と背筋が伸びる。
「なんでしょう」
「今、気になる人とかいますか?」
「え……?」
どうこたえるのが正解なのだろう。
先生以外で、ということならいないのだけれど、私は先生が好きで……。
「困らせてすみません。男らしくない質問でした」
先生は苦笑する。
「俺は好きです」
呼吸が止まる。そんな私から先生は目を逸らさない。
「浅川さんのことを、ずっと好きでした」
「ずっと……?」
「はい」
先生は昔を懐かしむかのように微かに目を細める。
「聞いてくれますか?」
「聞きたいです」
「俺が研修医だった頃です」
研修医というと、八年以上前の事だ。
「患者さんの急変対応でうまく動けなくて。指導医のおかげで患者さんは助かったんですけど……」
多かれ少なかれ、医療を志す者なら同様の思いをすることはある。
小さく息を吐いて、先生は話を続ける。
「自分の無力さが許せなくて、医者に向いてないのかもしれないって本気で考えたことがあったんです」
そんな思いを抱いたことがあったなんて、今の先生からは想像もできない。
「でも、乗り越えて今こうして外科医になったんですよね」
「はい。浅川さんのおかげで」
「私の⁉」
驚いて先生を見つめる。
「覚えていませんか?」
私はゆっくりと記憶を辿っていく。
八年前、私は循環器病棟から異動になったばかりで日々の業務を必死でこなしていた頃――、術後の患者さんが急変したことがあった。
研修医の先生と初期対応に当たって、どうにか一命をとりとめた。
その夜勤明け、自販機の前で俯いていた若い研修医。
「あ……」
――思い出した。
落ち込む彼にどう声を掛けたらいいのかわからなくて、缶コーヒーを買って手渡した。
「あの缶コーヒー」
「やっと思い出してくれましたか」
先生はどこか泣きそうな顔で笑った。
「はい」
自然と声が震える。
「はじめはできなくて当たり前です。そうやって悩むのは真剣だからですよ、って。だから先生は医者に向いてます、って……言ってくれたから」
「私が……」
確かに言ったかもしれない。
まるで自分を見ているようで、辛くて、でもどうにかして救いたかった。
先生はゆっくりと頷くと静かに言った。
「はい。俺が今こうして医者を続けているのは浅川さんの言葉があったからです」
私は言葉を失った。
そんな風に覚えていてくれたなんて……。
私にとっては、忘れてしまうほど小さな出来事だったのに。
「俺、あの日からずっと浅川さんが好きでした」
先生がまっすぐ私を見る。
「医者になってあなたと再会して、もっと好きになりました」
心臓が痛いくらいに高鳴る。先生の瞳から目を離せない。
「浅川真夏さん」
「はい」
「俺と付き合ってください」
気付けば視界が滲んでいる。返事よりも早く涙が頬を伝う。
「……はい」
告白されて泣くなんて思ってもみなかった。
涙が止まらないくらい、私はこの人が好きだった。
「泣かせるつもりはなかったんですけど……」
先生が困ったように笑う。
「すみません」
「謝らないでください」
言いながら先生は立ち上がる。ゆっくりとこちら側へ歩いてくると隣に膝をついて屈んだ。
「……あんまり見ないでください」
「泣いてる顔も好きですよ。でも笑顔の方が百倍好きです」
指で私の涙を拭ってくれる。その優しさに中てられて全然止まらない。
「私、先生にそんな風に思われてたなんて知らなくて」
「……それでも、好きになってくれたんですよね?」
気付いたら好きになっていた。
恋愛の始め方なんて忘れてしまったと思い込んでいたけれど、先生が思い出させてくれたから。
「はい」
そう言うと、先生の表情がゆっくりとほどけていく。
安心したように、嬉しそうに、少しだけ泣きそうに微笑んでくれる。
「浅川さん……これから真夏さんって呼んでもいいですか?」
「はい、もちろんです」
「真夏さんも俺のこと、名前で呼んで欲しいです」
遥という名前、ずっときれいな名前だと思っていた。
「遙くん」
照れながら呼ぶ。
「はい、真夏さん。俺、今、めっちゃ幸せです」
先生がそっと私を抱き寄せる。
どこか遠慮がちなその腕の中で、彼の背中に手をまわす。
「私も幸せ……」
先生の背中へ腕を回す。
恋なんて、もう自分には縁がないと思っていた。
だけど違った。
私はただ、この人に出会うのを待っていただけだったのだろう。


