ミドサーですが、うっかり恋に堕ちまして


やがて車は川沿いの道を降りていく。

 その先に見えた建物に歓喜の声を漏らす。

「わぁ……」

 SNSでも話題になっている老舗の温泉旅館。

落ち着いた木造の外観に手入れされた庭園。玄関へ続く石畳。

「素敵な宿ですね」

「良かった」

 先生が安堵のため息を漏らす。本当にプレッシャーだったのだろう。

 車を降りると山のひんやりとした空気に包まれる。

 扉を開けると着物姿の仲居さんが出迎えてくれた。

「お待ちしておりました」

 丁寧なお辞儀をされ少しだけ緊張する。

館内へ入ると広いロビーの向こうに日本庭園が見える。

「チェックインしてくるので、少し待っていてくれますか?」

「あ、はい」

 私は近くのソファーに腰を下ろしてカウンターに立つ先生の後姿をこっそりと眺める。

スクラブでも白衣でもない格好で、旅館の手続きをしてくれている。

――今夜、ここに泊まるんだよね……。

いよいよ現実味が増してきて、途端に緊張し始める。

「浅川さん、終わりました」

 先生が戻ってくる。私は慌てて平静を装う。

「ありがとうございます」

「どういたしまして。いきましょうか」

 立ち上がり、仲居さんについて部屋へと向かう。

歩きながら館内の説明をしてくれるけれど、あまり頭に入って来ない。

 案内された部屋は離れだった。

カラカラと引き戸を開けて中へ入り、思わず足ため息が漏れた。

「ステキ……」

 黒曜石が敷かれた玄関。襖を開ければ広々とした和室。床の間には品よく活けられた季節の花。

窓からは渓流を眺めることが出来る。

「露天風呂もついてるんですか?」

「はい。天然温泉のかけ流しでございます」

「すごいですね!」

 自然とテンションが上がる。

 仲居さんが説明を終えて部屋を出て行くと途端に静寂が戻訪れる。

聞こえるのは川の音と胸の高鳴りだけ。

否応なしに意識してしまう。

先生も同じだったらしく、なぜか少しぎこちない。

「その……気に入ってもらえました?」 

「もちろんです」

 本当に嬉しかった。ここまで準備してくれたことも、私のために色々考えてくれたことも。

「よかった、です」

 先生は安心したように笑う。

「このお部屋露天風呂付きなんですね」 

「はい。ゆっくりできるかなと思って。夕ご飯前に入ってください」

「では、先生が先に」 

 すると先生はすぐさま首を振る。

「いや、俺は大浴場に行ってきます」 

「入らないんですか?」 

「……だって、浅川さんが気を遣うでしょう」

 ――確かにそうだけど……。

せっかく露天風呂付の部屋を予約してくれたのに入らないなんてなんだか申し訳ない。

「だったら私が大浴場へ行きます」

「それ、却下します。浅川さんのためにこの部屋を選んだんですから、俺の顔を立ててやってくれませんか?」

 先生が大浴場へ向かったあと、私は部屋の露天風呂へ入った。

 木の香りがする湯船。頬を撫でる風。遠くで聞こえる川の音。

「あー、気持ちいい……」

 つい、声が漏れる。

ここ数か月色々なことがあった。

花火大会に翔との再会、そして温泉旅行。

想像もしていなかったことばかりが起きすぎた。

温泉から上がると、備え付けの浴衣へ袖を通す。

「変じゃないかな?」

 帯を整えながら鏡を見る。

誰に見せるわけでもないのに気になってしまう。

――いや、先生にはいい姿を見て欲しい。

 不意にそんなことを考えてしまい、慌てて首を振る。

「何考えてるんだろう……」

 その時だった。私のスマホが震える。

《戻っても大丈夫ですか?》

 もしかして待たせてしまったのだろうか。急いで返信する。

《大丈夫です!》

 するとすぐ玄関の引き戸が開く音がした。

「ただいま、です」

 襖の向こうから声が聞こえる。次の瞬間襖が開いた。

はじめてみる先生の浴衣姿。濡れた髪と少しはだけた胸元に色気を感じてしまう。

「おかえりなさい、先生」

 出迎えた私を見た先生の動きが止まる。

「先生?」

「あ、すみません」

 我に返ったように視線を逸らす。

耳が少し赤い。その姿を見てしまったら、照れているのは自分だけじゃないと分かってしまう。

「その……浴衣、似合ってます」

 ようやく絞り出したみたいに言った。

 顔が熱くなる。

「ありがとうございます。先生も、素敵です」

「ありがとうございます」

 しばらく沈黙が続く。

病院なら話題に事欠かないのに、今日の私たちはとてもぎこちない。

「……夕食まで少し時間ありますね」

「そうですね」

「散歩でもします?」

 夕食まではまだ少し時間があるし部屋にいても落ち着かない。

どうやら先生も同じだったらしい。

「せっかくなので散策しにいきませんか?」

 そう誘われて、私は頷いた。

「ぜひ」

 貴重品だけ持って旅館の外へ出る。

山の空気は涼しく、浴衣の裾を揺らす風が心地良い。

昼間の暑さが嘘みたいだった。

「気持ちいいですね」

 私の言葉に「ですね」と先生も穏やかに笑う。

川沿いの小道を並んで歩く。

足元には小さな灯籠。ゆっくりと沈んでいく太陽。ヒグラシの声。

どこか現実感がない。

「なんだか不思議です」

 思わず口にする。

「何がですか?」

「先生とこうして旅行してるの」

 ただの同僚でしかなかったはずなのに。

「俺もです」

「ですよね……」

 そしてまた、訪れる沈黙。

 しばらく歩くと吊橋が見えてきた。その下を清流が流れている。

立ち止まると先生も隣で足を止めた。

「渡ってみます?」

「はい」

 橋の途中で立ち止まり、二人で川を眺める。

なにをするでもない静かな時間。

病院ではいつも忙しい。だからこうして何も考えずに景色を見る時間が新鮮だった。

「浅川さん」

「はい」

「最近、無理してませんか?」

 まるで見透かしたような質問。

「松木さんの件の後、少し疲れているような感じがして……」

 先生は川を見たまま言う。

「彼との件はちゃんと終わりました」

 ただ、同僚たちの私を見る目が少し変わった。先生に話しかける度、回診に付くたび、好奇の目に晒されている。

「私たち噂になってますよ」

 そんな風には言えず、胸が少しだけ痛くなる。

きっと今日だって、私と先生の休みが被っていること、勘ぐっている同僚は少なくない。

「……ちゃんとしますんで」

 ぼそり、と先生は呟いた。

「――え?」

「もう少し時間ください」

 どういう意味?

そう聞き返す間もなく、先生は小さく首を振る。

「いえ、なんでもありません。そろそろもどりましょうか」

「はい」
 
 踵を返した瞬間、浴衣の裾が足に絡まる。

「きゃっ」

 身体が大きく傾いた。

――転んじゃう!

 そう思った瞬間。

強い力で腕を引かれて気付けば先生の胸に飛び込んでいた。

「浅川さん! 大丈夫ですか?」

「はい、大丈夫……」

 顔を上げると視界いっぱいの高柳先生。近い。少し顔を動かしただけで触れてしまいそうだった。

「す、すみません」

 そういって離れようとするけれど、先生は私をしっかりと抱きとめたまま。

先生の視線が揺れたかと思えば私の唇へ落ちてくる。

時間が止まったみたいだった。

どちらのものかもわからない心臓の鼓動がやけに大きく耳に届く。

先生の指先に力が入り、そのまま引き寄せられそうな気がした。

私はそっと目を閉じる。

でも――、

「……すみません」

 先生はパッと距離を取った。

「わ、わたしこそ、すみません」

 何事もなかったかのように歩き出す先生の背中を追いかける。

――キス、されるかと思った。でも、されなかった。

期待していた自分に驚く。

先に歩き始めた先生が不意に足を止め、スッと手を差し出す。

「また転んだらいけないんで」

 そう言って笑った。

「ありがとう、ございます」

 私は遠慮がちに指先を握る。すると先生はしっかりと握り直してくれた。

 相変わらず優しい。その横顔を見ながら思う。

 もし、この人ともっと一緒にいたら私は今より確実に好きになってしまうだろう。