ミドサーですが、うっかり恋に堕ちまして


急変対応から数日。

 あの日ロッカーにしまった缶コーヒーはそのままにしてある。

——賞味期限はまだ先だし。

なんて理由を付けてみたりして。

「……何やってるんだろ、私」

三十五歳にもなってたかが缶コーヒー一つで……いや、これはご"褒美"なのだ。

ロッカーを開ける度にどこか満たされた気持ちになる。

そんな自分に呆れながら、荷物をしまって仕事を始めた。

スタッフステーションで空いているパソコンをさがし、ログインする。

同時に、病棟の廊下が少し騒がしくなった。

「高柳先生、オペ終わったんですね」

「今日もめちゃくちゃ早かったらしいよ」

 若い看護師たちの声に、つい視線を向ける。

病棟の奥から現れたのは、紺色のスクラブ姿の高柳先生だった。

……相変わらず目立つ人だ。

キャップを外した後の、乱れた髪を無造作にかき上げながら電子カルテに目を通している。

その仕草が無自覚な色気を撒き散らしているなんて、気付くはずもない。

「真夏おはよう!」

 同僚に声をかけられ、私は慌てて視線を逸らした。

「おはよう。なんだか朝から騒がしいね」

「高柳先生効果だね。顔がいい上にオペも上手いとか最強じゃん。真夏もそう思うでしょ?」

 つい、頷いてしまいそうになる。

「はいはい、仕事しなよー」

 軽く流しはしたけれど、モテるだろうなとは思う。

実際、患者受けもスタッフ受けもいい。

それでいて偉そうなところが全くないのだから、人気が出ない方がおかしい。

(確かに顔も整っている)

すると、その視線に気づいたのか、高柳先生がこちらを見た。

一瞬だけ目が合う。

次の瞬間、わずかに目を細めて微笑む。

(なに、今の顔……)

他のスタッフに向けるものとは違った気がする。

いやそんな、まさかね。

雑念を掻き消すようにブンブンと頭を振った。

「なにしてるんです?」

 気付くと高柳先生が目の前に立っている。

「これは、ほら、眠気覚まし的な」

 我ながら間抜けな言い訳だ。けれど、彼は素直に納得する。

「なるほど。主任、昨日も遅かったですもんね」

「どうしてそんなこと知ってるんですか?」

「医療安全の委員会。結構遅くまで会議室に明かりついてましたから」

 覚えているんだ。彼の前で委員会の話をしたのはたった一度だけのはず。

まあ、"それ"を覚えている私も似たようなものかもしれない。

「色々あるんです……」

医療安全の委員会は苦手だ。

医者と看護師、コメディカルとの認識のズレ誰も患者さんを傷つけたくてやっているわけじゃない。

それでも、責任の所在を曖昧にしたまま終わる会議も多かった。

気づけば、また仕事を抱え込んでいる。

「また背負わなくていい事を背負っちゃてませんか」

 図星をつかれて返答に困る。

「でも、誰かがやらなきゃならないので……」

「うん、だから、"誰か"がやればいいなら、それをするのが浅川さんである必要はないですよね」

 ――屁理屈。でも、正論だ。

私がやらなければ誰かがやるのだろう。院内で選出された委員は何人もいるのだから。

「それでも背負ってしまうのが、浅川さんのいいところ、なんですけどね」

「はい?」

 素っ頓狂な声が出る。

褒め言葉、と思っていいのだろうか。

(いやでも図々しい?)

高柳先生の見透かすような視線から逃げたくてたまらない。

そこへ田辺さんが駆け寄ってくる。

「主任! カンファレンスの資料出来ました。これで大丈夫ですか?」

「ありがとう、今見るね」

慌てて受け取ろうとして、資料の束を床にぶちまけてしまった。

「やだ、大変‼︎」

 慌てて椅子から降りてしゃがむと同時に伸びてきた手が重なる。

「高柳先生。すみません、ありがとうございます」

「主任、今日ちょっと疲れてます?」

「そんなこと……」

否定しかけて、言葉に詰まる。

高柳先生は拾い集めた資料を揃えながら、私の顔をじっと見る。

「顔色、悪いです」

「気のせいですよ」

 自分的にいつもと変わらないと思っている。でも、先生はさらに尋ねる。

「昨日、何時間寝ました?」

「……三時間くらい?」

 帰宅後は研修のレポートを書いていたから、結局布団に入ったのは夜中の三時を過ぎてからだった。

「それ、寝たうちに入らないですけどね」

 呆れたように言われて、なぜか少しだけ悔しい。

先生だって睡眠時間削って早朝に緊急オペを終わらせてきたばかりじゃないか。

「先生こそ、寝てないですよね。大丈夫なんですか?」

 軽く嫌味を言ったつもりが、なぜか少し嬉しそうに頬を緩める。

「心配してくれて、ありがとうございます。そうですね、お互い今日は早く帰る事を目標にしましょう!」

「そうですね、そうしましょう!」

 でも結局、その日も定時では帰れなかった。

落ち着いた日勤だと思っていたら、夕方になって入院が二件入った。

後輩たちを退勤させ病状説明に立ち会っていたら、気づけば時計の針は二十一時を回っている。

 外科病棟特有の慌ただしさもようやく落ち着き、スタッフステーションには夜の静けさが戻り始めていた。

私はこの空気感が好きだ。

「よし、これで終わりっと」

 人気のないスタッフステーションで背伸びをする。

 さすがに肩がパンパンだ。

疲れている自覚はあった。ほとんど頭が回っていない気がする。

でも、主任なんだから仕方ない。

そうやって自分に言い聞かせるのは、もう癖みたいなものだった。

「まだいたんですか」

 低い声に振り返る。

いつの間に来たのか、高柳先生がステーションの入口に立っていた。

黒いシャツの上に薄手のジャケットを羽織っている。

 スクラブ姿しか見慣れていないせいか、私服姿の彼が一瞬だけ誰だかわからなかった。

「先生こそ、まだいたんですね」

「サマリーが終わらなくて、医局に詰めてました……」

 そう言いながら近づいてくると私のデスクの上を見て、眉を寄せた。

「もしかして夕飯、これですか」

 視線の先には、食べ損ねたあんパンがひとつ。

「うん、自販機で買えるやつ。結構美味しいんですよ」

「知ってます。この間も食べてたから、旨いのかなって思って買って食べてみたんです」

 見られてたのかと思いつつ味の感想が気になった。

「どうでした?」

「まあ、旨かったですけど……だからって、さすがにこれが夕飯とかありえません」

 そう指摘され苦し紛れに言葉を返す。

「いいんです。もともと夕ご飯は食べない派だし、お腹も空いてないからいいの」

 その時だった。グウ〜と低い音が響く。

(……ウソ、なんで今鳴るの⁉︎)

 お互い同時に固まる。

 絶対に先生にも聞こえてしまっただろう。

みるみる顔が熱くなっていくのが分かった。きっと顔が真っ赤になっているはずだ。

 高柳先生がふっと吹き出す。

「主任、腹減ってるじゃないですか」

「減ってません!」

「さすがに無理がありますよ、その主張」

 クククと声を殺しながら肩を震わせている。

ああもう、本当に最悪。

恥ずかしすぎて穴があったら入りたい気分。

「……そんなに笑わなくてもいいじゃないですか」

「すみません。でも安心しました」

「何がですか?」

「主任もちゃんとお腹空くんだなって」

「私を何だと思ってるんですか?」

「仙人みたいな人、いやサイボーグかな」

 もはや人間じゃない。

褒め言葉、でないのはわかる。でも、怒りは湧いてこなかった。

「むしろ、そうなりたいくらいですけどね。その方が仕事がしやすくて最高です」

 そう返すと、高柳先生はようやく笑いを収めた。

「飯、行きません?」

 唐突な誘いに驚きつつ答える。

「いや、大丈夫です」

 確かにお腹は空いている。でも帰って寝たい欲が勝っていた。

「……もしかして、彼氏に怒られるとか?」

「そんなのいません。とにかく、今回はすみません」

しかし、先生は引かない。

「腹減ってたら、いい睡眠取れないですよ。行きましょ! 旨い定食屋知ってるんです」

「だから、行かないって……」

 そこで二度目のお腹の音。さっきより長めに鳴り響く。

「ハハッ、いい返事! 決まりですね。早く着替えてきてください。通用口で待ってます」

 クルリと踵を返すと足早にステーションを出ていく。

「えっ、ちょ……」

 強引。

でも本当はお腹が空いていたから、誘って貰えて良かった、そう思おう。