病棟の廊下を歩きなら高柳先生の姿を探す。
まだどこかの病室にいるはずだ。
でも、ただでさえ忙しい先生を呼び止めるのは気が引けた。
やはり翔の対応くらい、自分ひとりでしなければーーそう思っていたのに。
角を曲がると丁度、大部屋から先生が出てくる。
「た、高柳先生……おつかれさまです」
頼りたい。でも、回診途中の先生に一緒に来て欲しいとは言えず、通り過ぎようとした。
すると先生は私を呼び止める。
「浅川主任、どうかしましたか?」
その顔を見てしまえば私の決意など簡単に崩れてしまう。
「実は松木さんがまた、傷の痛みを訴えていて……」
全て話終わる前に先生は「行きましょう」と言ってくれる。
「……すみません、お忙しいのに」
「いいえ」
先生はすぐに首を振る。
「頼ってもらえて嬉しいので」
その言葉に救われる。先生が隣にいるだけで心強い。
「失礼します」
翔の病室のドアを開けた。
翔は私を見るなり満足そうに微笑んで、でも背後にいる高柳先生を見つけた瞬間、表情を曇らせる。
「なんであんたが来るんだよ!」
「主治医ですから」
高柳先生は淡々と答えた。
「痛みが強いと伺いました」
「もう平気になった。真夏が来るのが遅いせいだ」
理不尽な言い分につい眉をひそめる。
初めから痛みなんて無かったのだろう。そう邪推してしまいたくなる。
でも、問い詰める気も起きない。
「でしたら、失礼させていただきます。先生、行きましょう」
私は踵を返す。すると翔がベッドから降りてきて、私の腕を掴んだ。
「ちょ、まてよ! せっかく来たんだから少し話をしようぜ」
「私の業務に関係することでしたら伺います」
「……別に業務じゃなくてもいいだろう? 大事な話なんだ」
翔はまっすぐ私を見る。嫌な予感がした。
「俺たち、やり直そうぜ」
咄嗟に高柳先生を見る。すると、ここにいるから安心して、とでも言うように頷いてくれる。
「やり直すつもりはありません」
以前の私なら翔の気持ちを最優先に考えたと思う。
傷付かないかとか、悲しまないかとか、私が我慢さえしたら丸く収まるかも知れないとか。
そんなことばかり考えていだはずだ。
でも今は違う。
翔が驚きに目を見開いた。
「なんで?」
「私たち、五年前に終わったよね」
自分でも驚くくらい迷いがなかった。
「でもお前、別れたくないって泣いてたよな」
嫌なことを思い出させてくれる。しかも先生の前で。
確かに泣いた。絶望に打ちひしがれていた。だから恋愛から遠ざかった。
でもーー、
「全部過去のことだから」
元には戻らない。
「過去ねぇ。あーもしかしてお前、こいつと付き合えると思ってるのか?」
「だったらなに?」
私と翔の問題に高柳先生は関係ない。
「年増のお前が若い医者なんかと釣り合うわけないだろ」
そんなこと、言われなくてもわかっている。
アラフォー。独身。容姿だって優れているとは言えない。
「でも、決めるのは翔じゃない」
「は? なに言ってんのお前」
私は小さく息を吐いた。
きっと気付いてない。私はもう彼の所有物ではない。
「最後にひとつだけ言わせて」
真っ直ぐに見据える。
私の覚悟が伝わったのか、黙って言葉を待ってくれている。
「もう二度と私の人生に関わらないで」
やがて、翔は小さく笑う。
「ハハ、そっか」
どこか寂しげで、でも吹っ切れた笑顔だった。
「変わったな、真夏」
「うん」
そう言えたのは高柳先生がいたから。
沈黙が訪れて、コホンと先生が咳払いをする。
「それでは松木さん、術後の経過は順調ですので週末の退院を目標にしていきましょう」
先生の言葉に、翔は「はい」と頷いた。
病室を出ると膝の力が抜けていく。
「大丈夫ですか?」
高柳先生が私の腕を支えてくれる。
「はい」
「頑張りましたね」
その言葉を聞いた瞬間。
胸の奥に残っていた重たい何かが、すっと消えていく気がした。
五年前から引きずっていたもの。
それがようやく終わったのだと分かる。
「ありがとうございました」
それからは無言で廊下を並んで歩く。
窓の外には柔らかな夕陽が差し込んでいた。
スタッフステーションの手前で、先生がふと思い出したように口を開いた。
「温泉、いつにします?」
まだどこかの病室にいるはずだ。
でも、ただでさえ忙しい先生を呼び止めるのは気が引けた。
やはり翔の対応くらい、自分ひとりでしなければーーそう思っていたのに。
角を曲がると丁度、大部屋から先生が出てくる。
「た、高柳先生……おつかれさまです」
頼りたい。でも、回診途中の先生に一緒に来て欲しいとは言えず、通り過ぎようとした。
すると先生は私を呼び止める。
「浅川主任、どうかしましたか?」
その顔を見てしまえば私の決意など簡単に崩れてしまう。
「実は松木さんがまた、傷の痛みを訴えていて……」
全て話終わる前に先生は「行きましょう」と言ってくれる。
「……すみません、お忙しいのに」
「いいえ」
先生はすぐに首を振る。
「頼ってもらえて嬉しいので」
その言葉に救われる。先生が隣にいるだけで心強い。
「失礼します」
翔の病室のドアを開けた。
翔は私を見るなり満足そうに微笑んで、でも背後にいる高柳先生を見つけた瞬間、表情を曇らせる。
「なんであんたが来るんだよ!」
「主治医ですから」
高柳先生は淡々と答えた。
「痛みが強いと伺いました」
「もう平気になった。真夏が来るのが遅いせいだ」
理不尽な言い分につい眉をひそめる。
初めから痛みなんて無かったのだろう。そう邪推してしまいたくなる。
でも、問い詰める気も起きない。
「でしたら、失礼させていただきます。先生、行きましょう」
私は踵を返す。すると翔がベッドから降りてきて、私の腕を掴んだ。
「ちょ、まてよ! せっかく来たんだから少し話をしようぜ」
「私の業務に関係することでしたら伺います」
「……別に業務じゃなくてもいいだろう? 大事な話なんだ」
翔はまっすぐ私を見る。嫌な予感がした。
「俺たち、やり直そうぜ」
咄嗟に高柳先生を見る。すると、ここにいるから安心して、とでも言うように頷いてくれる。
「やり直すつもりはありません」
以前の私なら翔の気持ちを最優先に考えたと思う。
傷付かないかとか、悲しまないかとか、私が我慢さえしたら丸く収まるかも知れないとか。
そんなことばかり考えていだはずだ。
でも今は違う。
翔が驚きに目を見開いた。
「なんで?」
「私たち、五年前に終わったよね」
自分でも驚くくらい迷いがなかった。
「でもお前、別れたくないって泣いてたよな」
嫌なことを思い出させてくれる。しかも先生の前で。
確かに泣いた。絶望に打ちひしがれていた。だから恋愛から遠ざかった。
でもーー、
「全部過去のことだから」
元には戻らない。
「過去ねぇ。あーもしかしてお前、こいつと付き合えると思ってるのか?」
「だったらなに?」
私と翔の問題に高柳先生は関係ない。
「年増のお前が若い医者なんかと釣り合うわけないだろ」
そんなこと、言われなくてもわかっている。
アラフォー。独身。容姿だって優れているとは言えない。
「でも、決めるのは翔じゃない」
「は? なに言ってんのお前」
私は小さく息を吐いた。
きっと気付いてない。私はもう彼の所有物ではない。
「最後にひとつだけ言わせて」
真っ直ぐに見据える。
私の覚悟が伝わったのか、黙って言葉を待ってくれている。
「もう二度と私の人生に関わらないで」
やがて、翔は小さく笑う。
「ハハ、そっか」
どこか寂しげで、でも吹っ切れた笑顔だった。
「変わったな、真夏」
「うん」
そう言えたのは高柳先生がいたから。
沈黙が訪れて、コホンと先生が咳払いをする。
「それでは松木さん、術後の経過は順調ですので週末の退院を目標にしていきましょう」
先生の言葉に、翔は「はい」と頷いた。
病室を出ると膝の力が抜けていく。
「大丈夫ですか?」
高柳先生が私の腕を支えてくれる。
「はい」
「頑張りましたね」
その言葉を聞いた瞬間。
胸の奥に残っていた重たい何かが、すっと消えていく気がした。
五年前から引きずっていたもの。
それがようやく終わったのだと分かる。
「ありがとうございました」
それからは無言で廊下を並んで歩く。
窓の外には柔らかな夕陽が差し込んでいた。
スタッフステーションの手前で、先生がふと思い出したように口を開いた。
「温泉、いつにします?」


