朝の検温を終え小さく息を吐いた。
術後3日目。
翔の病室へ向かう足取りは自然と重くなる。
ノックをし中へ入るとベッド上の翔が「真夏!」と私の名前を呼んで嬉しそうに笑った。
『下の名前じゃなく、浅川と呼んでください』
そう何度も訂正したけれど、彼は私を名前で呼ぶのをやめない。
「熱はどうですか?」
私はあくまでも仕事モードを崩さないようにしている。
「まだあるなーほら」
電子体温計を受け取った。あくまでも事務的に。
「三十七度三分ですね」
術後三日目なら珍しくもない。採血データも改善傾向だし。
「順調ですよ」
すると翔は不機嫌そうに眉を寄せる。
「どこがだよ! 腹は痛いし熱も下がらないんだぞ⁈」
「手術したんだから当たり前でしょ」
つい口調が素に戻ってしまう。
「普通ならもう退院できるんじゃないの? ネットに書いてあったけど」
思わず額を押さえたくなった。
ネットの知識で武装した患者ほど話が通じない人はいない。
「松木さんの場合は炎症が強かったからネットの情報には当てはまらないですよ」
そう言って宥めるが、翔は納得しない。
「とか言って、本当は失敗したんだろ? あいつは若いし、技術的に未熟なんだろうなとは思うよ。あーなんであいつが主治医なんだろ」
高柳先生の事を悪く言われて、プツリと何かが切れた気がした。
先生ほどの腕の医師に手術してもらってその言い草は何?
「そんなこと言わないで!」
つい、声が大きくなる。
翔が驚いたようにこちらを見たけれど、自分自身も驚いていた。
なぜこんなに腹が立ったのだろう。
患者さんから医師への不満を聞くことなんて珍しくない。
理不尽なクレームだって何度も対応してきた。
なのに今日は違った。
高柳先生を悪く言われた瞬間、胸の奥が熱くなった。どうしてこんなに腹が立つのか、自分でもわからない。
「先生は優秀ですよ。手術だって完璧だった」
「完璧ならこんな痛いはずないだろ……てか、おまえ変わったな」
翔は苛立ちを隠そうともせず、私を睨みつける。
「変わったってどこが?」
「昔の真夏は俺に口答えなんてしなかっただろ?」
確かに、以前の私は翔に対して従順だった。でもそれは好きだったから。
嫌われたくなくて必死で、理不尽なことも我慢してきた。
「翔は変わらないね」
それだけ言って病室を出た。
ドアを閉めた瞬間、疲れが押し寄せてくる。
「浅川さん」
聴き慣れた優しい声に振り返る。
「高柳先生、おつかれさまです」
「おつかれさま。ていうか、大丈夫ですか?」
「え?」
先生は私の顔をじっと見た。
「顔色がよくないですね」
それからなにかを察したようにチラリと病室へと目をやる。
「なにか、ありました?」
心配をかけたくなくて、精一杯の笑顔を作る。
大丈夫ですと答えようとする。でも、気付けば本音が漏れていた。
「松木さんの対応に苦戦してて……」
「松木さんね、確かに難しいですね」
「まあ、昔からあんな感じなんです」
笑って答えた。でも、高柳先生は笑わない。
「師長と相談して担当を変えてもらいましょう。浅川さんが言いにくいなら俺から話します」
高柳先生は真剣な顔でそう提案してくれる。ありがたい申し出。
けれど、主任という立場上、個人的な理由で担当を外れることは容易ではない。
私の面倒ごとを引き受けなければならない同僚たちも気の毒だ。
「そう言っていただけてとても心強いです」
「じゃあ」
「でも、担当は続けます。私としては話を聞いてもらえただけで満足なので」
すると、先生は私の目をじっと見る。
まるで心の奥までまま透かされてしまいそうで少し怖い。
「浅川さん、また自分を犠牲にしてませんか?」
図星だった。私が我慢すればと思っていたから。
私は曖昧な表情のまま小さく首を振った。
すると高柳先生は苛立つことも責めることもせずに、私を安心させるように微笑んでくれる。
そして、私に救いの手を差し伸べてくれる。
「……松木さんの対応は出来る限り一緒に行いましょう」
「ありがとうございます。でも先生はお忙しいですし、可能な限り看護師サイドで対応するつもりです」
私は先生に頭を下げるとその場を離れる。
これ以上一緒にいたら、誰かに見られてしまうかもしれない。
それだけは避けたかった。
同僚たちの間で、高柳先生は私に気があるらしいという噂が広まっているからだ。
なんでも、翔がそう言ったとか。
でも高柳先生はなにも言わない。翔も触れてこない。
同僚からも直接確認されたわけではないけれど、コソコソ話ほど不思議なほど耳に入ってきてしまう。
ステーションに戻ると私を見つけた田辺さんが声を掛けてくる。
「主任、また松木さんからナースコールありましたよ?」
ついさっき部屋を出て来たばかりなのに、どんな用があるというのだろう。
「なんだって言ってた?」
「傷が痛むんですって。ぜんぜん離床も進まないし、主任も大変ですね」
同情の目を向けられて私は思わずため息を吐く。
「行ってくるね……」
ふと、昔のことを思い出す。
付き合っていた時、翔は何かと私を呼び出した。
早朝でも深夜でも、それは些細なことだったけれど、必要とされること、頼ってもらえることが嬉しくて応じていた。
彼と家族になりたかったから。
愛されるために必要なことだと必死に言い聞かせてきた。
ーーでも、今は違う。


