ミドサーですが、うっかり恋に堕ちまして

 ホテルへ足を踏み入れた瞬間、思わず立ち止まり館内を見渡す。

(……想像していたよりずっと綺麗)

 落ち着いた照明と静かなロビー。どこか高級ホテルにも似た雰囲気。

「……なんだ。普通のホテルみたいですね」

「そうですね」

 高柳先生はそう言いながら視線を逸らす。

その横顔が妙にぎこちない。どうやら緊張しているのは私だけではないらしい。

少しだけ安心する。

 空いている部屋を選び、フロントで手続きを済ませる。

鍵を受け取り、エレベーターへ乗り込んだ。

隣に立つ先生との距離を妙に意識してしまう。

先生もずっと黙ったまま。もちろん私も何を話していいのか分からない。

聞こえるのはエレベーターの駆動音だけ。

数字が一つずつ上がっていきやがて目的の階へ到着した。

薄暗い廊下を進んでいく。

「ここですね」

 先生が鍵でドアを開ける。

「わぁ……」

 思わず声が漏れた。

想像していたより広い。

大きなベッドにソファ。大画面のテレビにカラオケのマイクまである。

 部屋の中央で立ち尽くしていると、後ろでドアが閉まった。

二人きりなんだ、と改めて認識してしまう。

「浅川さん。先にお風呂入ってください」

「いえ、先生から……」

「俺は後でいいです」

 先生はスマホをテーブルへ置きながら続ける。

「体、冷えてますよね。お湯溜めてきます」

 私の答えを聞く前に、先生は浴室の方へ消えていく。

やがてお湯が流れる音が聞こえて、

「浅川さん!」 

 と呼ばれる。

「はい、先生」

「ここにタオルと、バスローブがあります。風呂から上がったら着替えてください」

 テキパキと私に指示を出す先生は、完全に医者の顔になっている。

本人がいたって真剣なのも、少し面白い。

「風邪ひいたら困るので、しっかりと温まってくださいね!」

 その言葉につい笑ってしまう。

「なにか?」

「すみません。まるで患者さんに話すみたいに言うから、つい」

 もちろん無意識なのだろうけれど、無意識だからこそ先生の真面目さが垣間見れてよかったと思う。

「おかげで緊張が解けました」

 高柳先生は数秒考えた後、

「緊張してくれてたんですね」

 と、真顔で言う。

「え?」

「それって、俺のこと、少しは意識してくれてたって事ですよね」

 図星を突かれて心臓が跳ねる。

「え、と……」

 答えられない、そんなこと。

変な空気が流れて、お湯の流れる音がやけに大きく聞こえる。

「困らせてすみません。今のは忘れてください」

 先生は困ったように笑うと浴室から出て行ってしまった。

「……忘れてくださいって、無理だよそんなの」

 言葉にされたら、向き合わざるを得なくなる。

一人の男性として意識しているんだってことに。

 シャワーを浴びてから、先生が溜めてくれた湯船にゆっくりと身を沈める。

 冷え切った体にお湯がじんわりと染み込んでいくようだった。

「いいお湯加減……」

 思わずため息が漏れる。

 乳白色の入浴剤が入っていて、ラベンダーの優しい香りが浴室いっぱいに広がっていた。

 今日は本当に色々なことがあった。まるでジェットコースターみたいな一日。

 髪と体を洗い、しっかりと湯船で温まってから浴室を出た。

 バスローブを羽織り、アメニティの化粧水と乳液で肌を整える。

 丁寧に髪を乾かし終え、そっと浴室のドアを開けた。

「先生――」

 呼びかけようとして、慌てて口を閉じる。

高柳先生は誰かと電話をしていた。

断片的に聞こえてくる内容から、病院からの連絡らしい。

使っているのも病院支給のスマートフォンだった。

こんな時間まで仕事の電話がかかってくるのかと思うと、少しだけ胸が痛む。

 私に気付いた先生が、申し訳なさそうに眉を下げる。

そして「ごめん」と言うように軽く手を上げた。

私は小さく首を振る。

"大丈夫ですよ"

 そう伝えるように微笑むと、先生も少しだけ表情を和らげた。

私はクローゼットからハンガーを取り出し、濡れた浴衣を干した。下着はタオルで隠すように包みながら掛ける。

 それからベッドの端へ腰を下ろした。

 広い部屋は静かで、高柳先生の低い声だけが時折響いている。

病院では何度も聞いてきた声なのに、こうして二人きりの空間で聞くと、少しだけ違って聞こえる気がした。

やがて電話が終わり先生はスマートフォンをテーブルへ置くと、冷蔵庫を開けた。

「水分補給もちゃんとしてください」

 差し出された冷えたペットボトルを受け取る。

「ありがとうございます」

 一口飲んでから尋ねた。

「電話、病院からでした?」

「はい」

 先生は短く答えると少しだけ眉を寄せた。

「松木さんが、主治医が術後に顔を見せないのはおかしいって言ってるそうです」

 思わず言葉を失った。

術後ということは、緊急オペの患者さんはやはり翔だったのだろう。

「翔が……? すみません、先生」

 反射的に謝ると、高柳先生は怪訝そうにこちらを見た。

「どうして浅川さんが謝るんですか?」

「でも……元とはいえ婚約者だったので」

 そう言った瞬間。

 先生の表情が僅かに固くなる。

「だとしてもです」

 静かな声だった。

 けれど、その奥に感情が滲んでいる気がした。

「あなたは悪くない」

 先生はまっすぐ私を見る。

「もちろん俺も悪くない。オペは成功しました。術後管理は当直医へ引き継いでいます。医療的にも問題ありません」

 その言葉は自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。

「だから、誰も謝る必要なんてないです」

 その言葉に胸の奥が少し軽くなる。

「……そう、ですよね」

 先生は小さく息を吐いた。そして視線を逸らす。

「すみません。ちょっと熱くなりました」

 そう言って苦笑すると、バスルームの方を指差した。

「俺も風呂、入ってきます」

 逃げるように浴室へ向かう背中を見送りながら、私はペットボトルを握りしめた。

 あんなふうに感情を見せる高柳先生を、初めて見た気がした。