花火大会の会場を離れる頃には、人の波も少しずつ引き始めていた。
花火の余韻を噛み締めながら、駅へと向かって歩く。
先生の歩く速度が普段よりゆっくりなのは私はがはぐれないように気を遣ってくれているからだろう。
駅前は予想以上に混雑していて改札にも長蛇の列ができていた。
「まいったなぁ。ここまでとは……」
先生は困ったように眉毛を下げて笑う。
これでは電車に乗るまでで時間がかなりかかりそうだ。
「車、そんなに離れた場所なんですか?」
「ひと駅先です」
「歩けませんかね?」
「俺は平気ですけど……」
乗り気ではなさそうな高柳先生の横顔を見上げる。
きっと私のことを心配してくれているのだろう。
「私も平気です!」
毎日立ち仕事で鍛えている。
歩くのも苦ではない。
「じゃあ、歩きますか!」
先生と肩を並べて歩き出す。海風が心地いい。
他愛のない話をしながら、渋滞している車の列を追い越していく。
人混みを抜けてしばらく歩いた頃だった。
じわりと右足が痛む。
自然と歩幅が小さくなっていく。
「浅川さん」
「はい?」
「足、痛いですよね」
ぎくりとした。バレないと思っていたのに。
「さっきから右足かばってます」
よく見ている。さすがは外科医だ。
十年ぶりに履いた下駄。鼻緒が擦れて、足の甲がじんじん痛む。
「見せてください」
「だ、大丈夫ですから」
「大丈夫には見えません」
高柳先生が呆れたように笑う。
「浅川さんだって患者さんだったら見ますよね?」
「それは、まぁ、……って、私は患者じゃありません」
言い返すと、
「たしかに」
と妙に納得されてしまった。
その時だった。
ぽつり、と頬に冷たいものが落ちる。
「雨?」
見上げた瞬間、ザアッと音を立てて大粒の雨が降り始めた。
「うわっ」
「きゃぁ」
慌てて近くの木陰へ駆け込むけれど夏の雨は容赦がない。
浴衣の裾も髪もあっという間に濡れていく。
「最悪ですね。この感じだとしばらく止みそうもないなぁ……」
濡れた前髪を搔き上げて高柳先生は苦笑いする。
「浅川さん、足、大丈夫ですか?」
「大丈夫です」
「それ、信用しできませんね」
即答だった。
そして突然、先生が背中を向けてしゃがみ込む。
ーーまさか?
「乗ってください」
おんぶしてくれるってこと?
「の、乗れませんっ!」
「お姫さま抱っこの方がいいですか? 俺はどっちでもいいです」
冗談っぽく言うけれど、先生は本気だ。
「ちがいます。歩けますってことです」
「却下です。足痛いですよね」
「少しだけです」
「夜勤明けで疲れてますよね」
「それは……そうですけど。先生だって仕事終わりで疲れてますよね」
「まあ俺は体力お化けなんで。その足じゃ、走れないでしょ?」
反論できない。
「だから乗ってください」
「恥ずかしいです」
「俺は心配の方が強いです。浴衣をリクエストした責任も感じてます」
その一言でこれ以上意地を張るのは無駄な気がして、恐る恐る背中へ体重を預ける。
「失礼します……」
「はい」
すっと立ち上がると、思ったより高い。不安定で少し怖い。
でもそれ以上に距離が近い。
濡れたシャツ越しに伝わる体温が妙に意識してしまう。
「思った以上に軽いです」
「そういう感想は不要です!」
「スミマセン」
肩越しに見える横顔が少し笑っていた。
そのまま先生は雨の中を歩く。
私の心臓の音をかき消すくらい雨音が大きくなる。
「……ごめんなさい」
「だから謝らないでください」
優しく言われる。
「今日は俺が誘ったんです。浴衣も来てきてくれて嬉しかったです」
足元の水たまりを避けながら先生が続ける。
「ありがとうございました」
胸の奥がじんわり熱くなった。
たくさん待った。
足も痛いし雨にも降られた。
それなのに、
「今日来れてよかったです」
自然とそう答えていた。
先生は少しだけ振り返ると嬉しそうに笑った。
少ししてようやく駐車場が見えてくる。
車へ乗り込み、ドアを閉める。
「タオルとかなくて、すみません」
「そんな。それより、車のシートがびしょびしょ……」
高級車なのにシミになってしまったらどうしよう。
「そのうち乾きますから大丈夫ですよ」
先生はエンジンをかけると車をゆっくり発進させた。
冷房の風が濡れた肌に当たり、思わず肩を震わせた。
その様子を見た高柳先生が心配そうにささやく。
「寒いですか? 顔色悪いですよ」
「大丈夫です」
「……そうは見えません。俺ってそんなに頼りがいがないですか?」
どこか寂しそうな表情を見てハッとした。
先生の気遣いや優しさを素直に受け取ろうともせず、意地を張っていたことに気付く。
「違います!」
思わず声が大きくなる。
「迷惑かけたくなくて……」
言った瞬間、自分でも情けなくなった。
ずっとそうだった。
誰かに頼るのが苦手で、できるだけ一人で何とかしようとして。
それで失敗しても、自分で抱え込んできた。
でも先生は小さく首を振る。
「かけてほしいです、迷惑」
雨音に紛れそうなほど小さいのに、不思議なくらい心に届く。
「頼ってほしいです。もっと俺のこと」
真っ直ぐな気持ちに胸の奥に沁みてくる。
「はい」
どうしてこの人は、こんなにも優しいんだろう。
「少し休んでいきましょうか」
「休む?」
「このまま帰るのは危ないです。体も温めたいですし……」
雨はますます強くなる。視界不良の中、運転は危険だ。
それに、濡れた浴衣は私の体温をどんどん奪っていく。
限界だった。
「そうですね、そうしましょう」
どうやら今日という日は、まだ終わりそうになかった。


