手術室の時計は十六時を回っていた。
前の患者の手術が、予想以上に長引いたせいだ。
術衣へ着替えながら、ひとり小さく息を吐く。
「間に合うかな……」
数分前、
《緊急オペ入ります。遅れるので先に会場向かっててください》
そうメッセージを送った。
するとすぐ返信が来る。
《了解です。先に行って待ってますね。オペ頑張ってください!》
その文章を見ただけで、胸が苦しくなった。
怒ってもいい状況で、不満だってあるはずなのに。
彼女はいつも人を責めない。だから一分一秒でもはやく逢いに行きたくなる。
順調に進めば、そこまで時間の掛かる手術ではない。
十九時半の開始にはギリギリ間に合うはずだ。
「高柳先生、患者さん入室しました」
声を掛けられ、スマホをロッカーへしまう。
深呼吸して気持ちを切り替えた。
医者として迷う余地なんてない。
それでも、
(なんで今日なんだよ……)
そんな感情が浮かんでしまう自分に嫌気が差す。
しかも患者は、浅川さんの元婚約者。
事情は詳しく知らないが、彼女を傷つけた男なのは間違いない。
手洗いを終え、手術室へ入る。
――私情を持ち込むな。
自分へ言い聞かせる。
俺は医者として、目の前の仕事をするだけだ。
「これから腹腔鏡下虫垂切除術を開始します」
メスを握った瞬間、頭が切り替わる。
雑念は消えた。
癒着した組織を慎重に剥離し、血管処理を進めていく。
「なあ高柳、今日やたらキレキレだな! この後デートでもあんのか?」
助手に入っている先輩医師が笑う。
普段なら適当に流すのだが、今日は余裕がなかった。
「はい、そうです」
自分でも驚くくらい即答だった。
「だから少し黙っててもらえますか」
オペ室が、一瞬静まり返る。
(……やば、言いすぎた)
完全にやらかしたと思った。
けれど先輩医師は数秒後、プッと吹き出す。
「俺に黙れって? お前、正直すぎだろ」
「……すみません」
「そういうことなら閉創こっちでやっとくから帰れ」
「え?」
信じ難い話につい聞き返す。
「だから、デートに行ってこいってこと!」
時計を見る。
十七時二十分。
かなりギリギリだ。
「……でも」
「アホ。これくらいひとりでできるわ」
ぶっきらぼうな声が俺の背中を押してくれる。
「ありがとうございます。お先失礼します」
深く頭を下げてオペ室を出た。
術衣を脱ぎながら、頭の中で最短ルートを計算する。
電車か車か、所要時間はほぼ同じ。渋滞を考えれば電車の方が速いだろう。
でも帰りを考えると、浴衣の浅川さんを満員電車へ乗せたくなかった。
迷った末俺は車へ飛び乗る。エンジンを掛けながらメッセージを送る。
《今病院出ました》
そのままスマホを置き、車を発進させた。
途中までは順調だった。
けれど会場へ近づくにつれて、完全に渋滞へ捕まる。
車列がまったく動かない。
時計を見ると開始時間が迫っていた。
「埒があかないな……」
カーナビで駅近くのコインパーキングを検索する。
運良く一台空いていて滑り込むように駐車した、その瞬間。
――ドンッ。
遠くで花火が上がる音が響いた。
「始まったか……」
舌打ちしそうになる。
走りながら浅川さんへ電話を掛けた。
でも繋がらない。
『現在、大変混み合っております』
無機質なアナウンスだけが流れる。
仕方なくメッセージを送った。
《もうすぐ着きます》
でも既読にはならない。
電車へ飛び乗ると車内は通勤ラッシュ並みの混雑だった。
浴衣姿の浅川さんは大丈夫だっただろうか。
早く会いたい。会って安心させたい。
一駅が異様に長く感じる。
ようやく三浦海岸駅へ到着すると、人波に押し出されるように改札を抜けた。
浴衣姿の人で溢れている。
スマホが繋がらない中で、浅川さんを見つけられるのだろうか。
(俺が不安になってどうするんだ)
彼女の方が、不安なはずだ。
待つ時間は長くて、心細い。
だからこそ、出来るだけ早く会いたかった。


