「浅川主任! 四〇三号室の患者さん、血圧下がってきてます」
夜勤帯のスタッフステーションに、新人看護師の田辺さんが青ざめた顔で駆け込んでくる。
癌で胃の全摘術を受けた高齢で、心臓や腎臓に病気を抱えていたハイリスクな患者だ。
三日ほど集中治療日で様子を見ていたが、問題ないとの事で日中に病棟へ戻ってきたばかり。
現在はスタッフステーションに一番近い個室にいる。
「いつから? 意識レベルは?」
私はモニターに目を移す。確かに心拍数が速い。
「インアウトバランスは?」
「わかりません……」
「ドレーン排液は?」
矢継ぎ早に質問する。田辺さんの表情がどんどん曇っていく。
「それは、さ、さっきから増えていて……」
「田辺さんは当直医にコールして。桐谷さんは採血と点滴、輸血の準備もお願い」
私はもう一人のスタッフにも早口で指示を出しながら救急カートを押して患者の元へ向かう。
「向後さん、わかりますか?」
顔面蒼白。冷汗。腹部膨満。呼びかけに反応なし。
確かめて見ると三本あるドレーンが血性の排液で満たされていた。
嫌な予感しかしない。
そこへ田辺さんが電話の子機を持って、顔面蒼白で立ち尽くしている。
「先生、どれくらいで来るって?」
「それが、先生は緊急オペ対応中で対応は難しいそうです」
なんて事。こういう時に限って……。
「セカンドコールは? そっちにかけてみて! ダメなら主治に電話を」
「……えっと、セカンド……」
電話を持つ田辺さんの手は震えていて、もう一人のスタッフも手一杯だ。
でも、私がこの場を離れることは最善ではない。
こういう時、主任である私が冷静でいなければいけない。
分かっているのにどんどん悪化していく患者さんを目の前にして焦りを隠せないでいる。
「ホワイトボードに当番表貼ってあるでしょ? 急いで!」
「は、はいっ」
セカンドコールが誰なのか、指示してあげられたらよかったのに。覚えていなかったのは私の落ち度だ。
それなのに焦っている後輩に対してキツイ言い方をしてしまった。
けれど、今はひとり反省をしている場合ではない。
条件付き指示を確認し、桐谷さんが持ってきてくれた点滴をつなぐ。
「夜間管理の師長に報告しておかないと……」
状況を伝え電話を切ったその時だった。
「どうしましたか?」
低くよく通る声が聞こえて振り向いた。
視線の先にいたのは、紺色のスクラブ姿の男性医師。
高柳遥。三十二歳。
若手ながら外科のエースと呼ばれている。
スラリとした長身で、パッと目を惹くような存在感のある人だ。
「八十三歳男性。三日前に胃全摘術を受けています。血圧低下、血性のドレーン排液増加、意識レベル二桁。術後出血の可能性が考えられますが当直の濱先生は緊オペ中で……」
私の報告を聞いて彼は深く頷く。
「わかりました。CTの準備を。輸血オーダー出します。オペ室にも連絡をしてください。あなたの見立て通り、出血の可能性が高いです」
無駄のない判断。分かり易い指示。
それだけじゃない。こんな時、私たち看護師を煽ったり喚き立てる医者もいるが、彼は違った。
さらに震えていた新人看護師に視線を向け、彼は静かに言う。
「大丈夫です。落ち着いて」
その一言で、田辺さんの表情が少しだけ和らいで、さっきまで嵐のようだった現場の空気が一変する。
「ありがとうございます、高柳先生」
うちの新人をフォローしてくれて。本当は、それは私の役目のはずなのに。
「浅川主任も、落ち着いてくださいね」
「……はい」
見透かされてしまった。
恥ずかしいけれど、ありがたい。
安心させるような口調に、私の心も不思議と落ち着いた。
これまで手術が上手い医師はたくさん見てきたけれど、患者の急変時に周囲まで見られる人はそう多くない。
さすが、エースの呼び名は伊達じゃなかった。
患者は高柳先生の見立て通り緊急オペとなった。
術中に傷付けたであろう動脈から出血していたという。
数時間後、無事に処置を終え患者さんは集中治療室へ戻る事になった。
張り詰めていた緊張がようやく解け、私は休憩室の椅子に座り込む。
「はぁ……」
患者さんは無事だった。
でも、あと少し発見が遅れていたら助からなかったかもしれない。
――新人の監督不足。
心の声に責め立てられる。
「おつかれさまでした」
その声に顔を上げると高柳先生がいた。
「先生こそ、緊急手術おつかれさまでした」
先生はストンと私の隣に座って「はい」と缶コーヒーを差し出す。
「……ありがとうございます」
受け取った瞬間、既視感を覚える。
昔、こんなこと、どこかで?
「主任? どうかしましたか?」
きっと気のせい――そう思った瞬間、彼は私を見つめてわずかに微笑む。
「……なんでもありません。先程は取り乱してしまってすみませんでした」
「大丈夫、あなたはちゃんとやれてました」
今の私が一番欲しい言葉を、なぜ、彼がくれるのだろう。
「でも、気付くのが遅れてしまった。担当の看護師は新人でした。だから完全に私の指導不足です。主任なんて、向いてないのかも……」
つい、弱音を吐いてしまう。こんな話を医師にしても迷惑だと分かっているのに何故か止めることができなかった。
「すみません、こんな話……」
高柳先生は否定するように小さく首を振り、私をじっと見つめるとゆっくりと言葉を紡ぐ。
「"そうやって悩むのは真剣だからです。だから主任に向いてます"あまり自分を責めないでください」
それはまるで救いのようだった。勝手に涙腺が緩む。
けれど、泣いてしまわないように必死に奥歯を噛み締めた。
もう人前で泣いていい年じゃない。
「あ……ありがとうございます。先生からそう言っていただけると救われます」
「ある人の受け売りですけどね……覚えはありませんか?」
「不勉強で申し訳ありません。聞いた事はないです」
そう答えると、先生はどこか寂しげな表情を浮かべる。
(私、なにか、おかしなこと言っちゃった?)
けれど、直ぐにいつもの先生の顔に戻ったので密かにホッとする。
「……まあ、浅川さんが救われたならヨシとしますか! あ、コーヒー飲んでくださいね。あなたにだけ特別です」
——特別。
そう言われると、喜ぶよりも先にとある感情に囚われる。
「いいんですか? 私なんかが頂いてしまって……」
私の悪い癖だ。
幼少期、控えめでいる必要があった。
継母の機嫌を取るために、弟を一番でいさせるために。
私は出来損ないだと自分に自分でレッテルを貼り続けた。
人は、思った通りになるもの。
おとなしくて控えめ、自己肯定感低め。
それが、私の本質だ。
親元を離れ、看護師になり、後輩を指導するようになって少しづつ自分に自信が持てるようになった。
けれど、ふとした瞬間に自信のなさが顔を出す。
「いいんです! このコーヒーは浅川さんのために買ったんです。だからあなたに飲んで欲しい。頑張ったご褒美」
高柳先生はさも当たり前だと言わんばかりにそう言った。
「ご褒美……」
私のための、ご褒美。
「そう、ご褒美。そろそろICUに戻らないと。あそこの看護師さん怖いんで! じゃ、また」
高柳先生の背中を見送る午前二時。
私はご褒美にもらった缶コーヒーを大切にロッカーにしまった。


