日勤帯への申し送りを終えた瞬間、全身から力が抜けそうになる。
長い夜だった。
翔が入院してくるなんて本当に驚いた。芙美からの事前情報がなかったら冷静ではいられなかっただろう。
「主任、おつかれさまでした」
「おつかれさまです。後よろしくね」
笑顔で返すと、頭の中を今夜の予定に切り替える。
高柳先生との花火大会。
病院を出ると、真夏の陽射しが容赦なく照りつける。
「疲れた……早く帰ろう」
体の怠さとは反比例するように、自然と足取りが軽くなる。
帰宅してシャワーを浴び髪を乾かしながら、芙美から届いたメッセージを思い出す。
『浴衣、真夏に絶対似合うやつだから』
一昨日の夜に借りておいた浴衣は、白地に紫陽花が描かれた大人っぽいデザインだった。
三十五歳でも浮かないものを、と芙美が選んでくれたらしい。
「頼りになるなぁ……」
彼女には感謝しかない。
少しだけ仮眠を取ってから、予約していた美容室へ向かった。
「今日はお祭りですか?」
鏡越しに美容師さんが聞く。
「花火大会へ行く予定なんです」
「いいですねぇ、デートですか?」
あまりに直球で聞かれて言葉に詰まる。
美容師さんは「あ、図星だ」と楽しそうに笑った。
「絶対可愛くしますね!」
その言葉通り、丁寧にまとめ上げられた髪は普段の自分じゃないみたいだった。
浴衣を着付けて帯を結んでもらう。
鏡に映る自分を見て、なんだかそわそわした。
(気合いいれすぎかな? でも、先生は浴衣見たいって言ってたし)
そう思うだけで、頬が少し熱くなる。
不意にスマホが震えた。
嫌な予感を抱きつつメッセージを開く。
《緊急オペ入ります。遅れるので先に会場向かっててください》
今、高柳先生がどんな顔をしているのか、なんとなく分かってしまった。
きっと申し訳なく思っている。
だから私は、出来るだけ明るく返した。
《了解です。先に行って待ってますね。オペ頑張ってください!》
"応援しているキャラクター"のスタンプも同時に送る。
送信してから、小さく息を吐いた。
「……仕方ないよね」
医者なんだから。
しかも外科医の忙しさはよく分かっている。
分かっているけれど、胸の奥が、少しだけ痛い。
そんな感情が芽生えた事に自分でも驚いた。
三浦海岸駅は、すでにたくさんの人で溢れていた。
浴衣姿のカップルや学生らしきグループ。、家族連れ。
賑やかな雰囲気の中、ひとりで高柳先生の到着を待つ。
着付けを終え、手持ち無沙汰だった事もあり、早めに出発したのだけれど、
「早く来過ぎたかな……」
ほんの少し後悔し始める。
やがて遠くで花火の開始を知らせるアナウンスが流れると。周囲がざわめき始めた。
「もうそんな時間?」
そろそろ到着してもいい頃だ。
でも、あれっきりなんの連絡もない。
まだ、オペは終わらないのだろうか。
(もしかして向かっている途中で何かあった……?)
急に心配になり電話かける。
すると、
『回線が混み合っております』
という機械的なアナウンスが流れる。もちろん、電話は繋がらない。
「うそ……」
そこでハッと思い出す。
混雑する場所では、スマホが繋がらなくなることがある、ということを。
私の困惑をよそに、
轟音と共に最初の花火が花開き、歓声が湧き起こった。
「始まった」
駅前は更に人が増え、留まっている事も難しくなる。
しかも、先生が電車で向かっているとも限らない。
「駅前から少し離れた方がスマホ繋がるかな……」
待ち合わせ場所を決めていなかったことを後悔しつつ、私は海沿いを歩き出す。
そこで、ふと見覚えのあるポスターが目に入った。
【三浦海岸納涼まつり花火大会】
あの日、先生と見つけたポスターだ。
『……来ます?』
『花火大会。一緒にどうです?』
あの時の会話を思い出して、自然と足が止まる。
私は、そのポスターの前で先生を待つことにした。
約束もないけれど、
きっと見つけてもらえる、そんな自信があった。
夜空には色鮮やかな花火が花開き、散っていく。
ひとりで見上げる花火が、こんなに色褪せて見えるなんて知らなかった。
ドン、と肩がぶつかる。カップルの男性が私を睨んでくる。
「ジャマだよ」
「ご、ごめんなさい」
端の方に移動すると、腕の時計をみる。
先生はまだ来ない。
緊急オペが終わっても、その後に患者さんの対応が待っている。
今日はもう、来られないのかもしれない。
そう思った瞬間、胸の奥がきゅっと痛んだ。
たった数週間前まで、休日は一人で過ごすのが当たり前だった。
食事も旅行も、一人で十分楽しかった。
なのに、どうして今は、こんなにも寂しいのだろう。
何かに縋るようにスマホの画面を開く。
最後のメッセージは、
《オペ頑張ってください!》
で止まったまま。
私は小さく笑った。
「……困ったな」
たった一度の食事、たった数回のやり取り。
それだけなのに、いつの間にかこんなに会いたくなっている。
空を見上げると、大輪の花火が夜空いっぱいに広がった。
本当は、隣で一緒にこの景色を先生と見たかった。
その願いが叶わないのなら、
(……帰ろうかな)
そう思って、そっと踵を返した。


