ミドサーですが、うっかり恋に堕ちまして


「おはようございます」

 朝七時。耳馴染みのよい低い声が聞こえて顔を上げた。

白衣姿の高柳先生がこちらへ歩いてくる。

少し眠そうな顔。でも姿勢はいつも通りピンと伸びていてカッコいい。

「夜勤おつかれさまです、浅川主任」

 そう言いながら高柳先生は周囲を見渡して、

「今日ですね」

 と小声で言う。

その一言で夜勤の疲れなんて吹き飛んでしまうんだから単純だ。

「そうですね」

 私も小声で答えると、先生も「楽しみです」と微笑む。

そこからは、普段通りの外科医の顔に戻り電子カルテに目を通し始める。

そのギャップに密かにキュンとしてしまった。

「あれ、深夜帯に虫垂炎の患者が入ったんですね」

「はい。二時頃に」

「主治医、俺かな。俺だよなぁ……」

 若手の宿命とでも言うべきか、新規の患者は率先して担当するように上から言われている。

 でも、今回ばかりは、

(担当してほしくないな……)

 そんな感情が浮かんだ自分に驚く。

その時だった。

「主任〜」

 夜勤の後輩が戻ってくる。

「十号室の松木さん、主任をご指名ですよ」

「私を?」

 イヤな予感がする。

「さっき検温行ったら、“真夏います?”って」

 後輩は悪気なく続ける。

「ご関係は?って聞いたら、“元婚約者”なんだって言ってました」

空気が凍った気がして私は息を呑む。

いま高柳先生は、どんな反応をしているのだろう。

気になるのにその顔を見る勇気がない。

「復縁とかある感じですか?」

「そんなのないから」

 思わず語気を強めてしまう。でも後輩は気づかない。

「でも、あっちは主任にめっちゃ未練ある感じでしたよ」

 気まずい。ものすごく気まずい。彼女の口を塞ぎたくなる。

「とにかく、対応してくるね」

私は逃げるように十号室へ向かった。

「失礼します。松木さん、よろしいですか?」

 病室に入ると、翔は青白い顔でうずくまっている。

「真夏! 来てくれたんだ」

 私の顔を見て翔は嬉しそうに目を細める。

好きだった顔。でも、今は何とも思わない。

「ウチのスタッフに個人的な話をするのはやめてくれますか?」

 きちんと釘を指す。

「ごめん、イヤだった? そんなことよりさ、腹が痛いんだ。手術とかしなくて大丈夫なのか?」

 確かに入院当初よりも辛そうに見える。

「一番痛い時を十としたら今どれくらい?」

「七かな……」

 入院時は四だったはず。

悪化、してる?

「なあ、真夏。手、握っててくれない?」

「えっ?」

「昔みたいにさ、いいだろ……」

 昔、風邪をひいた翔の看病をしたことがあった。

あの時より、辛そうな彼を見ていると看護師としての性なのかつい寄り添ってあげたいと思ってしまう。

一歩、ベッドへ近づいた時、静かな声と共にドアがノックされる。

「ーー松木さん、失礼します」

 高柳先生が入って来て、私はどこかホッとする。

「はじめまして、外科の高柳です。早速ですが、少し診察しますね」

 先生はいつも通り落ち着いた様子で翔の腹部を触診していく。

私も診察の介助につく。

「……反跳痛がありますね。腹壁も硬い。造影CT撮りましょう」

「え、俺そんなに悪いんですか?」

 翔の表情が曇る。

すると高柳先生は安心させるように丁寧に説明を始める。

「……というわけで、造影剤を使ったCT検査をさせていただきたい。手術が必要かどうかはその結果を見て判断します」

 言い終わるとふいに私を見た。

「浅川さん」

「はい」

「夜勤明けですよね。松木さんの事は日勤へ引き継いでください」

「……でも」

「ちゃんと、定時で上がってください」

 穏やかな口調。

なのに、なぜか“これ以上関わらせたくない”と言われた気がして、気持ちが微かに揺れ動くのを感じた。