花火大会を翌日に控えた夜勤入りの日。
私は少し浮かれた気持ちで仕事を始める。
明日は晴れるらしい――と、天気予報を何度も確認したりして。
その日、病棟はとても落ち着いていた。
休憩も取れ、気付けばナースステーションの時計は午前二時を指していた。
消灯後の静かなスタッフステーションにはモニターの音だけが淡々と響いている。
私は電子カルテへ入力をしながら、小さく肩を回す。
(あと六時間……)
まだ気は抜けない。
そんな時だった。突然内線が鳴り響く。
「はい、外科病棟浅川です」
『救急外来です。三十五歳男性虫垂炎疑い。入院受け入れ大丈夫ですか?』
「はい。いつ上がって来てもらって大丈夫です」
受話器を置き受け入れの準備を始める。
まず、電子カルテを開いて情報を確認した。
(ーーえ?)
既視感のある名前に固まる。でも、同姓同名かもしれないし……。
「主任、入院ですか?」
「うん、虫垂炎疑いだって。個室希望あるらしいから十号室に準備してもらえる?」
急患対応は珍しくない。
それでも夜中の入院は病棟全体の空気を少し慌ただしく変える。
ベッド準備を終えた頃、エレベーターが開いた。
ストレッチャーで運ばれてきた男性患者は腹部を押さえながら顔をしかめている。
「松木さん、歩けそうですか?」
声を掛けたその瞬間、患者がゆっくり顔を上げた。
思わず呼吸が止まる。
「……真夏、か?」
懐かしい声。昔、何度も名前を呼ばれた記憶が蘇る。
でも次の瞬間には、看護師としての顔を貼り付けていた。
「しょ、松木さん、看護師の浅川です。病室へご案内します」
つい“翔”と呼んでしまいそうになった。
彼は痛みに顔を歪めながらも私に話しかけてくる。
「……久しぶりだな」
「まずは病室行きましょう。そのあとお話を伺います」
事務的に返す。みんなの目がある中、それしかできなかった。
病室へ案内し、救急外来の看護師たちから申し送りを受ける。
病室へ戻ると後輩たちがバイタル測定をしていてくれた。
脈拍96回毎分。血圧140/78㎜hg 体温三十八度。酸素飽和度98パーセント。下腹部痛あり自制内。抗生剤は救急外来で初回投与済。
緊急オペの適用外と判断されている。
「個室料金は一日三万円です。アメニティーのレンタル契約はされますね?」
「他人行儀なんだな」
「仕事中ですから」
ぴしゃりと言うと、翔が小さく笑った。
「つれないなぁ」
昔だったら、こんな風に笑われたら胸が痛んでいたかもしれない。
でも今は違う。ただ少し、落ち着かないだけだ。
出来るだけ冷静に、夜間の責任者として必要事項を尋ねる。
「緊急連絡先はどなたになさいますか?」
「妻……いや、母で」
翔は気まずそうに視線を逸らす。
「お母さまですね」
何度か会ったことがある翔の母親の名前を"キーパーソン"の欄に書き込む。
「芙美から聞いてるかもしれないけど、俺、離婚したんだ」
「そう……」
理由は聞かなかった。聞く必要もない。
入院のオリエンテーションを済ませ、病室をでると途端に腰から力が抜けていく。
(びっくりした……)
まさかこんな形で再会するなんて想像もしていなかった。
勤務中に昔の恋人と。しかも結婚寸前までいった相手に。
(とはいえ、意外と大丈夫だったなぁ)
完全に平気とは言わない。でも、ときめく事もないし、元に戻りたいとは思わなかった。
それが分かっただけで、この再会はマイナスではなかったと思いたい。
緊急入院のカルテ入力を済ませる頃には空が少し白み始めていた。
長い夜が終わろうとしている。


