腹黒外科医に唆された件~恋人(仮)のはずが迫られています~

 一ノ瀬姉の言葉に、すぐに反論できなかった。弦は確かに危険人物だ。今は警察署の中で拘束されているが、出てきたら、俺を脅すかもしれない。
 栞が示談を盾に、俺の名前を言わないように説得できても、効力はせいぜい警察署の中だけだ。示談が成立した途端、何を仕出かすか分からない。前科が付かなくても、もはや芳口病院で、医者として働くことは不可能だからだ。

 自暴自棄になった弦を、制御できる術も持ち合わせていない。それは一ノ瀬姉も同じなのだろう。こんな提案をしてきたのだから。

 どうする。栞の提案と一ノ瀬姉との取引。示談にするか否か。
 どちらを選んでも、結果が今になるか、後回しになるかの違いだけで、ほぼ意味をなさなかった。だが、結果が変わらないのなら、選ぶ必要はない。そうだろう、栞。

「尚史さん!」

 けれどどれくらい悩んでいたのか。栞の幻聴が聞こえてきた。

「尚史さん!」

 もう一度聞こえてきた声は、さきほどよりも大きい。もしかして、幻聴ではないのか?
 そう思い、顔を上げると、一ノ瀬姉の驚きの表情が目に入った。さらに、「し、栞!? なんで? 早過ぎるでしょう?」という声に、我に返る。

 警察署の入口から、栞が懸命にこっちにやってくる姿が見えたのだ。表情からも急いでいるのが伝わってくる。松葉杖をついているから、というのもあるが、その姿さえ愛おしく感じた。俺が栞に気づいた瞬間、緩む表情も。

「栞!」

 けれどいつ転ぶかも分からない。そう思ったら、体が動いていた。