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「……眠れる訳がないのよ」
家紋のないお忍び用ではあるが、充分に立派な公爵家の二頭立て馬車で自宅に返されたアリスターシャは、非常に悶々とした気分で寝返りを打っていた。
感情が昂っていて眠れそうにない。セレンナーグはどうしてあそこにいたのだろう。何のために、あんな真似をしたのか。
理由ならきっと、アリスターシャの結婚を阻止するためだ。
でも、それと公爵家での出来事は、どう繋がるのだろう。
アリスターシャはついに起き上がった。
枕元の明かりを点けて、ベッドから出る。
まるでそれを見ていたかのように、ガラス戸が密やかな音を立てた。
一回、二回。ややして、もう一回。規則正しく鳴ったガラスに、アリスターシャは窓辺へと駆け寄る。カーテンを開けた先のバルコニーには、やはりセレンナーグがいた。
すぐに迎え入れると、きっちりと戸を閉めた上で、アリスターシャはなるべく声を潜めてセレンナーグを一喝した。
「遅い!」
アリスターシャの叱責を受けて、セレンナーグは懐かしそうに目をすがめる。
「ええ……さっそく怒られるんですか? ちょっとはねぎらってくださいよ、頑張ったんですから」
「だって約束の半年を過ぎちゃったわ。その間、何の連絡もくれなかった」
「問題がうまく片付いてからご連絡しようと思ってたんです。ぬか喜びさせたくないし」
「そうよ、その、問題が片付いたっていうのはどういうこと? さっぱり分からないんだけど!」
「だからこうやって忍んできたんですよ。説明しないと、姉上は今夜眠れないでしょう? まだ後処理があるので、しばらくは帰れませんが、落ち着いたら改めて家に顔を出しますから」
長い付き合いだから、性格はすっかり知られている。
返事をする代わりに、アリスターシャはベッドに座るよう促した。セレンナーグは少し目をみはり、わずかに眉を下げて視線をそらした。
「……椅子を借ります。ベッドはさすがに刺激が強いので」
「ば、馬鹿!」
そんなやり取りをしているうちに少し肌寒くなってきたので、アリスターシャは上着を羽織る。
その間にセレンは書き物机の前の椅子を跨いで座り、背もたれの上で腕を組んだ。考え事をするように、視線を宙へさまよわせる。
「何から話せばいいかな」
「……エリザンド様と懇意にしてるっていう噂で持ち切りだけど」
「ああ、彼女とは利害が一致したんですよ。共闘相手といったところかな」
「前にお見合いをした方よね」
思い出すのも忌々しい、あのミクリアルの前の婿入り先候補、ヒューゼル家のご令嬢だ。アリスターシャの一押しだった。
「ええ。お互い譲れないものがあるのが分かったので、手を組むことにしたんです」
「仮にもお見合いの場で、なんて色気のない話で盛り上がってるの。というか、私にも一言説明しておきなさいよ」
そうしたら、こんなにやきもきしながら待つこともなかったのに。
アリスターシャの苦情を受け流して、セレンナーグは続けた。
「エリザンド嬢は兄上が邪魔だった。何しろ彼女の兄オルラードはろくでもなくて、領地経営の才能も努力する気概もない、女遊びに全身全霊を費やす男でしたから。そんな兄に家を継がせれば間違いなくヒューゼル家は傾くと、兄を潰すことにしたそうです。そのための火種は幾つもあった。そのひとつが、グログラード公爵夫人との秘密の関係です」
「あ! 兄って、あの密会相手の男だったのね!」
放蕩息子という噂はアリスターシャも聞いていた。あそこまでとは思わなかったが。
「一方のグログラード公爵も悩んでいたそうです。妻の度重なる不貞行為で心がすり減っていた。けれど彼女は王族なので、見て見ぬふりをするしかなかった」
「そこに話を持ち掛けたのね」
「はい。エリザンド嬢の家はグログラード公爵家と縁戚関係にあるから、彼女も話を通しやすかったみたいですね。まあ、その縁で公爵夫人とオルラードの関係が始まってしまったらしいですけど」
セレンナーグは喉の奥で笑った。
一体誰を嗤ったのだろう。
「公爵の命で、オルラードはあの姿のまま階下へ下ろされ、仮面舞踏会の客人たち多数に目撃された。あからさまに情事の最中なオルラードが人目に触れて、舞踏会の夜にあれだけの騒ぎになれば、あとは誰かが人々に囁くだけでいい。『公爵夫人とヒューゼル家のオルラードは、ただならぬ関係にあるらしい』――もともと噂はあったから、大醜聞に発展という運びです。公爵もその輝かしい名に瑕をつけられましたが、それでも別れたい気持ちの方が勝ったみたいですね」
「あなたの役目は何だったのよ」
「僕は、公爵夫人にお誘いをかけられた、無垢な貴族の青年ですよ。『公爵夫人に一夜を共にとお声がけいただいたが、お断りしようと公爵家の使用人を連れて部屋に伺った』ら、別の男との密会場面に遭遇してしまってあたふたする道化役」
「それだと、あなたの評判にも瑕がつくんじゃない?」
「もともと大した評判なんてないし、かまわないですよ。公爵もそのあたりは配慮してくださると約束してくれました」
アリスターシャは、薄く笑みを浮かべるセレンナーグをただ見つめる。
セレンナーグはアリスターシャのために、自身を犠牲にしたのだ。
――ごめんなさい、と言いかけて、別の言葉に言い直す。
「ありがとう、セレン」
「……姉上のためじゃない。僕のためです」
どうやら正解を引き当てたようだ。露悪的な台詞とは裏腹に、セレンナーグの笑みは、どこかはにかんだような可愛らしいものに変わった。
さて、もうひとつの本題である。
「それで、汚れ役を請け負うことで報酬をもらったのね?」
「正解です。エリザンド嬢からは、ヒューゼル家が持つ鉱山のうち、ニデル地方の鉱山開発共同事業の権利。グログラード公爵からは、事業が軌道に乗るまで、最長三年間のリンデン領への資金援助を、がっちり取り付けました。援助金はまず一年分、小切手でいただきました。……姉上、もう無理に結婚しなくていいんですよ」
「そう簡単にはいかないわ。正式に婚約を結んでるのよ。結婚話だって出てるわ」
ここにきて反論されるとは思わなかったのか、セレンナーグの表情が途端に翳る。
「……そんなにあのおじさんがいいですか」
アリスターシャは大きく胸を張った。
「いいえ。お金の心配がなくなったなら、愛のない結婚なんてお断りよ」
「……眠れる訳がないのよ」
家紋のないお忍び用ではあるが、充分に立派な公爵家の二頭立て馬車で自宅に返されたアリスターシャは、非常に悶々とした気分で寝返りを打っていた。
感情が昂っていて眠れそうにない。セレンナーグはどうしてあそこにいたのだろう。何のために、あんな真似をしたのか。
理由ならきっと、アリスターシャの結婚を阻止するためだ。
でも、それと公爵家での出来事は、どう繋がるのだろう。
アリスターシャはついに起き上がった。
枕元の明かりを点けて、ベッドから出る。
まるでそれを見ていたかのように、ガラス戸が密やかな音を立てた。
一回、二回。ややして、もう一回。規則正しく鳴ったガラスに、アリスターシャは窓辺へと駆け寄る。カーテンを開けた先のバルコニーには、やはりセレンナーグがいた。
すぐに迎え入れると、きっちりと戸を閉めた上で、アリスターシャはなるべく声を潜めてセレンナーグを一喝した。
「遅い!」
アリスターシャの叱責を受けて、セレンナーグは懐かしそうに目をすがめる。
「ええ……さっそく怒られるんですか? ちょっとはねぎらってくださいよ、頑張ったんですから」
「だって約束の半年を過ぎちゃったわ。その間、何の連絡もくれなかった」
「問題がうまく片付いてからご連絡しようと思ってたんです。ぬか喜びさせたくないし」
「そうよ、その、問題が片付いたっていうのはどういうこと? さっぱり分からないんだけど!」
「だからこうやって忍んできたんですよ。説明しないと、姉上は今夜眠れないでしょう? まだ後処理があるので、しばらくは帰れませんが、落ち着いたら改めて家に顔を出しますから」
長い付き合いだから、性格はすっかり知られている。
返事をする代わりに、アリスターシャはベッドに座るよう促した。セレンナーグは少し目をみはり、わずかに眉を下げて視線をそらした。
「……椅子を借ります。ベッドはさすがに刺激が強いので」
「ば、馬鹿!」
そんなやり取りをしているうちに少し肌寒くなってきたので、アリスターシャは上着を羽織る。
その間にセレンは書き物机の前の椅子を跨いで座り、背もたれの上で腕を組んだ。考え事をするように、視線を宙へさまよわせる。
「何から話せばいいかな」
「……エリザンド様と懇意にしてるっていう噂で持ち切りだけど」
「ああ、彼女とは利害が一致したんですよ。共闘相手といったところかな」
「前にお見合いをした方よね」
思い出すのも忌々しい、あのミクリアルの前の婿入り先候補、ヒューゼル家のご令嬢だ。アリスターシャの一押しだった。
「ええ。お互い譲れないものがあるのが分かったので、手を組むことにしたんです」
「仮にもお見合いの場で、なんて色気のない話で盛り上がってるの。というか、私にも一言説明しておきなさいよ」
そうしたら、こんなにやきもきしながら待つこともなかったのに。
アリスターシャの苦情を受け流して、セレンナーグは続けた。
「エリザンド嬢は兄上が邪魔だった。何しろ彼女の兄オルラードはろくでもなくて、領地経営の才能も努力する気概もない、女遊びに全身全霊を費やす男でしたから。そんな兄に家を継がせれば間違いなくヒューゼル家は傾くと、兄を潰すことにしたそうです。そのための火種は幾つもあった。そのひとつが、グログラード公爵夫人との秘密の関係です」
「あ! 兄って、あの密会相手の男だったのね!」
放蕩息子という噂はアリスターシャも聞いていた。あそこまでとは思わなかったが。
「一方のグログラード公爵も悩んでいたそうです。妻の度重なる不貞行為で心がすり減っていた。けれど彼女は王族なので、見て見ぬふりをするしかなかった」
「そこに話を持ち掛けたのね」
「はい。エリザンド嬢の家はグログラード公爵家と縁戚関係にあるから、彼女も話を通しやすかったみたいですね。まあ、その縁で公爵夫人とオルラードの関係が始まってしまったらしいですけど」
セレンナーグは喉の奥で笑った。
一体誰を嗤ったのだろう。
「公爵の命で、オルラードはあの姿のまま階下へ下ろされ、仮面舞踏会の客人たち多数に目撃された。あからさまに情事の最中なオルラードが人目に触れて、舞踏会の夜にあれだけの騒ぎになれば、あとは誰かが人々に囁くだけでいい。『公爵夫人とヒューゼル家のオルラードは、ただならぬ関係にあるらしい』――もともと噂はあったから、大醜聞に発展という運びです。公爵もその輝かしい名に瑕をつけられましたが、それでも別れたい気持ちの方が勝ったみたいですね」
「あなたの役目は何だったのよ」
「僕は、公爵夫人にお誘いをかけられた、無垢な貴族の青年ですよ。『公爵夫人に一夜を共にとお声がけいただいたが、お断りしようと公爵家の使用人を連れて部屋に伺った』ら、別の男との密会場面に遭遇してしまってあたふたする道化役」
「それだと、あなたの評判にも瑕がつくんじゃない?」
「もともと大した評判なんてないし、かまわないですよ。公爵もそのあたりは配慮してくださると約束してくれました」
アリスターシャは、薄く笑みを浮かべるセレンナーグをただ見つめる。
セレンナーグはアリスターシャのために、自身を犠牲にしたのだ。
――ごめんなさい、と言いかけて、別の言葉に言い直す。
「ありがとう、セレン」
「……姉上のためじゃない。僕のためです」
どうやら正解を引き当てたようだ。露悪的な台詞とは裏腹に、セレンナーグの笑みは、どこかはにかんだような可愛らしいものに変わった。
さて、もうひとつの本題である。
「それで、汚れ役を請け負うことで報酬をもらったのね?」
「正解です。エリザンド嬢からは、ヒューゼル家が持つ鉱山のうち、ニデル地方の鉱山開発共同事業の権利。グログラード公爵からは、事業が軌道に乗るまで、最長三年間のリンデン領への資金援助を、がっちり取り付けました。援助金はまず一年分、小切手でいただきました。……姉上、もう無理に結婚しなくていいんですよ」
「そう簡単にはいかないわ。正式に婚約を結んでるのよ。結婚話だって出てるわ」
ここにきて反論されるとは思わなかったのか、セレンナーグの表情が途端に翳る。
「……そんなにあのおじさんがいいですか」
アリスターシャは大きく胸を張った。
「いいえ。お金の心配がなくなったなら、愛のない結婚なんてお断りよ」
