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盛夏の茹だるような暑さが、ようやく鳴りを潜めてきた。
それでも昼日中はまだまだ汗をかいてしまう。できれば外出は避けたかったのだが、我がままは言えない理由がアリスターシャにはあった。
婚約者との逢瀬の約束である。
「――あの歌姫ツィタの絶唱が圧巻の観劇と聞いていますから、きっとアリスターシャ様のお気に召すと思いますよ」
正直なところ、家で涼んでいたい。
第一、高級劇場なんてほとんど社交界の一部だから、居心地の悪い思いをするのは目に見えている。
行き遅れ没落令嬢と年嵩の商人の婚約なんて、恰好の噂の的だ。
憂鬱な気持ちに蓋をして、アリスターシャは口角を上げてみせた。
「ありがとうございます、評判の舞台のようなので気になっていたんです。楽しみですわ」
婚約者ロレイン・モルドの丁重なエスコートで馬車を降りたアリスターシャは、差し出された彼の腕に右手を絡めて歩き出した。日傘の陰から、隣を歩くロレインの横顔を盗み見る。
運動をしているのか、引き締まった体躯をしている。姿勢もよく、四十二歳とは思えない若々しさを保っているが、やはり日に焼けた肌や目元の皺に、年齢の差を感じてしまう。
――この唇に、キスできるかしら。
アリスターシャはロレインのやや厚めの唇を見つめる。
別に嫌いではない。でも、触れ合うには抵抗がある。もし、いきなりくちづけでもされたら、突き飛ばしてしまうかもしれない。
セレンナーグの時は、驚きはしたが、嫌悪感はなかった。若い青年だからだろうか。
――そりゃあセレンだって、年を取ったら太ったり、皺ができたりするんだろうけど。その時には私も同じくらいの年齢だし……。
と、また義弟のことを考えている自分に気づいて、アリスターシャはロレインから視線をそらした。
あの日から、セレンナーグからの音沙汰はない。アリスターシャに便りひとつ寄越しはしない。
だが、行方知れずという訳でもない。
むしろ彼の話はよく耳に入ってきていた。
何なら、ここでも目にするはずだ。
「見て、ヒューゼル伯爵家のエリザンド様と、リンデン伯爵家のセレンナーグ様よ。エリザンド様のドレス、いつもどこか斬新で凝ってるのよねえ。あの方によくお似合いだわ」
「近頃よくお二人でお見かけするわよね。婚約者なのかしら」
「エリザンド様に伺ったら、何もおっしゃらずに微笑んでいらしたわ。どうなの、あれ?」
「セレンナーグ様って確かに、ちょっと見かけないくらい綺麗な方で、しかもお優しそうだけれど、『あの』リンデン伯爵家なのよね」
「あそこ、おうちが傾いてますものね。ほら、アリスターシャ様、とうとう、でしょう?」
「身売りされて――」
「ごきげんよう」
羽扇を吹き鳴らし、アリスターシャは彼女たちの傍らを一声かけて通り過ぎる。
「ちょっと、絶対聞こえてたわよ、あなた」
「なによ、本当のことじゃない」
周りの雑音なんて無視するに限る。
アリスターシャは傷つかない。こんなくだらない陰口で傷ついてなんていられない。令嬢たちの誰かが口にしたように、全部、本当のことだ。
だから――。
「エリザンド嬢、足元にお気をつけて」
「ありがとう、セレンナーグ様」
遠くからセレンナーグの楽しげな声が聞こえてきたとしても、別にどうでもいい。
盛夏の茹だるような暑さが、ようやく鳴りを潜めてきた。
それでも昼日中はまだまだ汗をかいてしまう。できれば外出は避けたかったのだが、我がままは言えない理由がアリスターシャにはあった。
婚約者との逢瀬の約束である。
「――あの歌姫ツィタの絶唱が圧巻の観劇と聞いていますから、きっとアリスターシャ様のお気に召すと思いますよ」
正直なところ、家で涼んでいたい。
第一、高級劇場なんてほとんど社交界の一部だから、居心地の悪い思いをするのは目に見えている。
行き遅れ没落令嬢と年嵩の商人の婚約なんて、恰好の噂の的だ。
憂鬱な気持ちに蓋をして、アリスターシャは口角を上げてみせた。
「ありがとうございます、評判の舞台のようなので気になっていたんです。楽しみですわ」
婚約者ロレイン・モルドの丁重なエスコートで馬車を降りたアリスターシャは、差し出された彼の腕に右手を絡めて歩き出した。日傘の陰から、隣を歩くロレインの横顔を盗み見る。
運動をしているのか、引き締まった体躯をしている。姿勢もよく、四十二歳とは思えない若々しさを保っているが、やはり日に焼けた肌や目元の皺に、年齢の差を感じてしまう。
――この唇に、キスできるかしら。
アリスターシャはロレインのやや厚めの唇を見つめる。
別に嫌いではない。でも、触れ合うには抵抗がある。もし、いきなりくちづけでもされたら、突き飛ばしてしまうかもしれない。
セレンナーグの時は、驚きはしたが、嫌悪感はなかった。若い青年だからだろうか。
――そりゃあセレンだって、年を取ったら太ったり、皺ができたりするんだろうけど。その時には私も同じくらいの年齢だし……。
と、また義弟のことを考えている自分に気づいて、アリスターシャはロレインから視線をそらした。
あの日から、セレンナーグからの音沙汰はない。アリスターシャに便りひとつ寄越しはしない。
だが、行方知れずという訳でもない。
むしろ彼の話はよく耳に入ってきていた。
何なら、ここでも目にするはずだ。
「見て、ヒューゼル伯爵家のエリザンド様と、リンデン伯爵家のセレンナーグ様よ。エリザンド様のドレス、いつもどこか斬新で凝ってるのよねえ。あの方によくお似合いだわ」
「近頃よくお二人でお見かけするわよね。婚約者なのかしら」
「エリザンド様に伺ったら、何もおっしゃらずに微笑んでいらしたわ。どうなの、あれ?」
「セレンナーグ様って確かに、ちょっと見かけないくらい綺麗な方で、しかもお優しそうだけれど、『あの』リンデン伯爵家なのよね」
「あそこ、おうちが傾いてますものね。ほら、アリスターシャ様、とうとう、でしょう?」
「身売りされて――」
「ごきげんよう」
羽扇を吹き鳴らし、アリスターシャは彼女たちの傍らを一声かけて通り過ぎる。
「ちょっと、絶対聞こえてたわよ、あなた」
「なによ、本当のことじゃない」
周りの雑音なんて無視するに限る。
アリスターシャは傷つかない。こんなくだらない陰口で傷ついてなんていられない。令嬢たちの誰かが口にしたように、全部、本当のことだ。
だから――。
「エリザンド嬢、足元にお気をつけて」
「ありがとう、セレンナーグ様」
遠くからセレンナーグの楽しげな声が聞こえてきたとしても、別にどうでもいい。
