その時だった。
橘のスマホが震える。
「失礼します」
内容を確認した彼女は、少し表情を引き締めた。
「社長、十五分後のオンライン会議、先方が前倒ししたいと」
「……わかった」
恒一は立ち上がる。 その瞬間、空気が変わった。
柔らかかった雰囲気が、一瞬で消える。
「資料は」
「こちらに」
「修正版も出して」
「承知しました」
低い声。 無駄のない指示。
怖いくらい仕事のできる人、という感じだった。
さっきまで自分に向いていた空気とはまるで違う。
これが、“氷のCEO”。 紬は圧倒される。
でも。 恒一は部屋を出る前に、一度だけ振り返った。 真っ直ぐに紬を見る。
「……採用」
「え?」
「君に来てもらう」
紬は目を見開いた。
「きょ、今日決めるんですか?」
「問題ある?」
「い、いえ……!ありがとうございます…!」
「条件は後で橘から説明する」
それだけ言って、恒一は去っていく。
静かな足音が遠ざかる。
残された紬は、しばらく動けなかった。
心臓だけが、やけにうるさい。
橘が小さく笑う。
「気に入られましたね」
「え……?」
「社長、自分から採用を即決すること滅多にないんです」
紬は言葉を失った。
どうして。 ただ、それだけが頭の中を回る。
――どうして、私なんだろう。
*
会議を終えた恒一は静かに息を吐いていた。
淹れたてのコーヒーを差し出しながら、橘が小さく尋ねる。 「……珍しいですね」
「何が」
「女性を即決採用なんて」
恒一は答えない。
ただ、脳裏に浮かぶのは、怯えたみたいにこちらを見上げていた紬の顔だった。
細い指。 疲れた目。 無理に作った笑顔。
そして、コンビニで見た時と同じ、あの荒れた手。
恒一はゆっくり目を閉じる。
「……放っておけなかった」
誰にも聞こえないほど小さな声だった。
