ーーその瞬間、紬の心臓が強く跳ねた。
昨日のコンビニ。 あの男だ。 思わず目を見開く。
でも相手は、特に驚いた様子もない。
「……朝比奈紬さん?」
低い声だった。 感情が薄く、静かな声。
「は、はい」
「座って」
短く言われ、紬は慌ててソファへ腰を下ろした。
怖い。 それが第一印象だった。
男は向かいへ座る。 脚を組む動作ひとつまで隙がない。
「家事経験は?」
「一通りはできます。料理も掃除も……」
「和食は」
「作れます」
「魚は捌ける?」
「簡単なものなら」
質問は淡々としている。
でも、紬は妙に落ち着かなかった。 視線が鋭い。
まるで何かを確かめるみたいに見られている気がする。
「……今、仕事はいくつ掛け持ちしてる」
「え?」
「君の手」
視線が落ちる。
紬は反射的に指先を隠した。
「あ……すみません」
「謝らなくていい」
男は少しだけ眉を寄せた。
「寝てないだろ」
「……」
「栄養も足りてない」
どうしてそんなことまでわかるんだろう。 紬は返事ができなかった。
男は少し黙り込む。 その沈黙が、なぜか怖い。
不採用だろうか。 こんな高級マンションに、自分みたいな人間は合わないと思われたのかもしれない。 胸がぎゅっと縮む。
「……仕事、必要なんです」
やっと絞り出した声は、自分でも驚くほど弱かった。
男はしばらく黙っていた。
静かな沈黙。 窓の外では夕焼けがゆっくり夜に変わっていく。
「……君」
「はい」
「料理は好き?」
予想外の質問だった。
「え?」
「好きかって聞いてる」
「……好き、です」
本当は、そんな余裕のある人生じゃなかった。
でも、誰かのためにご飯を作る時間だけは嫌いじゃない。
男はその答えを聞き、ほんの少しだけ目を細めた。
それは笑ったというほどではない。 でも確かに、空気が柔らかくなった。
「名前、教えていただいても……?」
紬がおそるおそる尋ねると、秘書の橘が口を開く。
「失礼しました。こちら、久世恒一社長です」
その名前を聞いた瞬間、紬は息を飲んだ。
久世恒一。 若くしてIT企業を急成長させた有名CEO。
テレビでは“氷のCEO”と呼ばれていた男。
合理主義。 冷徹。 完璧。 そんな言葉ばかり並ぶ人。
まさか本人だとは思わなかった。
「……社長」
呟くと、恒一は静かに紬を見た。
「何」
「いえ……その……」
緊張で頭が真っ白になる。
すると恒一は、なぜか少しだけ困ったように視線を逸らした。
