君と終わった街で

「――堤さん?」

不意に名前を呼ばれ、文姫ははっと顔を上げる。

会議室の視線が、一瞬こちらへ向いていた。

「あ、すみません」

慌てて資料へ目を落とす。

上司が苦笑しながら、

「疲れてる?」

と軽く聞いてくる。

「ちょっと寝不足で」

文姫は曖昧に笑った。

本当に寝不足だった。

でも理由は、仕事じゃない。

昨夜、洸太と話していたからだ。

そう思った瞬間。

自分で少し可笑しくなる。

二十八にもなって。

電話で夜更かしして。

次に会う日を楽しみにしている。

まるで高校生みたいだ。

会議が終わる。

資料を抱えて席へ戻る途中、文姫は大きく息を吐いた。

少し疲れていた。

頭の中がずっと落ち着かない。

デスクへ戻ると、スマホの通知ランプが小さく点いていた。

文姫は反射みたいに画面を見る。

『昼ちゃんと食った?』

洸太だった。

文姫は思わず笑ってしまう。

さっき“昼休め”って送ってきたばかりなのに。

ほんと、昔から世話焼きだ。

『まだ』

返信する。

数秒後。

『ダメじゃん』

『食え』

短い文章。

命令口調なのに、不思議と嫌じゃない。

むしろ少し安心する。

文姫はスマホを見つめながら、小さく目を伏せる。

結婚していた時。

こんなふうに“気にかけられる”ことが、怖かった。

何を言われても、顔色を伺ってしまっていたから。

少し機嫌が悪いだけで緊張して。

怒られないように考えて。

気づけば、自分の感情を出せなくなっていた。

でも洸太には、それがない。

昔から。

“怖い”と思ったことが、一度もない。

高校の頃は、少し重かったけど。

それでも、怖くはなかった。

そこが、他の人と決定的に違うのかもしれない。

文姫はゆっくりスマホを握り直す。

『なんかさ』

送る。

すぐ既読がつく。

『ん?』

文姫は少し迷う。

こんなこと、言わない方がいい気もした。

でも、今の洸太には。

ちゃんと伝えてみたいと思った。

『洸太と話してると安心する』

送信。

その瞬間。

自分の胸が、小さく鳴った。