不思議だった。
こんな他愛ない会話だけで、ちゃんと救われている。
会社へ向かう途中。
大きなガラス張りのビルが見えてくる。
広告代理店。
華やかに見える仕事。
でも実際は、地味で泥臭い。
締切に追われて。
頭を下げて。
数字に追われる毎日。
それでも、仕事をしている時だけは余計なことを考えずに済んだ。
エントランスを抜ける。
社員証をかざし、エレベーターへ乗り込む。
鏡張りの壁に、自分の顔が映った。
その時、ふと思う。
昨日までの自分なら。
こんな朝、無表情でスマホを閉じていただろう。
誰とも深く関わらないようにして。
淡々と仕事を始めていた。
でも今は違う。
ポケットの中のスマホが気になる。
返信が来ると少し嬉しい。
そんな自分に、少しだけ困っていた。
「文姫さん、おはようございます」
後ろから声をかけられる。
振り返ると、同じ部署の後輩が立っていた。
「おはよ」
「なんか今日機嫌よくないですか?」
その言葉に、文姫は一瞬だけ固まる。
そんなに分かりやすいんだろうか。
「別に普通だけど」
「いや、なんか柔らかいです」
後輩は笑いながらエレベーターを降りていく。
文姫は一人、その場に少しだけ残る。
柔らかい。
その言葉が、胸に引っかかった。
離婚してから。
“柔らかい”なんて言われたことは、たぶんなかった。
気づけばずっと、張り詰めていたから。
その時。
ポケットの中で、またスマホが震える。
文姫は思わず取り出す。
『昼、ちゃんと休めよ』
洸太からだった。
文姫はスマホを見つめたまま、小さく息を吐く。
洸太は昔から、人のことをよく見ていた。
疲れている時。
機嫌が悪い時。
無理して笑っている時。
自分でも気づかないような変化を、平気で見つけてくる。
高校の頃は、それが少し重かった。
どうしてそんなに自分ばかり見ているんだろうって。
もっと楽に生きればいいのにって思っていた。
でも今は。
その優しさに、救われている自分がいる。
